八柏龍紀の「歴史と哲学」茶論~歴史は思考する!  

歴史や哲学、世の中のささやかな風景をすくい上げ、暖かい眼差しで眺める。そんなトポス(場)の「茶論」でありたい。

遅れてのご挨拶 2017年 あけましておめでとうございます。

2017-01-05 16:26:43 | エッセイ

 2017年もあけました。

 すでに1月も5日ほど経ってのご挨拶です。
 遅れましたこと申し訳ありません。ですが、この時期にご挨拶をした理由は、みなさんの中には、もうお仕事に入られた方も多いかと思います。つまり、みなさまがまた日常にもどっていく時期、それとブログが集中する三が日を避けて、ご挨拶をしたというしだいです。おめでたさも薄れていく中でのご挨拶です。

 それはともかく、
 あらためまして、昨年同様、ことしもみなさまに幸多かれと心からお祈りしてするしだいです。

 ところで、

 昨年の大晦日には、イスタンブールでテロによる殺傷事件がおこりました。
 そんなことで、今年も「テロ」の時代なのかといまも暗澹とした気分でいます。

 そんな昨今ですが、みなさんもお聞き及びのことかと思いますが、
昨年末から、世界では「Post Truth」の時代であるということが、しきりに言われはじめています。
〝真実の喪失〟 そんな世界が来ている。
それは何も、どこかのクニの権力者のように、平和を語る一方で軍事費の増大をはかる。住民の意思を無視して軍事基地建設を強行するという欺瞞的な言辞
のみをしめすものではないようです。

 たしかにここ10年くらいの町に溢れている人びととの、くぐもった、しかも早口で取り交わされる「言葉」や「お喋り」には、そのとき、そこだけしか通じない隠語や符牒のようにしか聞こえない印象です。外界(そと)に「言葉」がむけられていない。
 それはなにやら、人びとが、とっくに「語る」べき内実を喪ってしまっているのではないか予感させます。外界に「言葉」が発せられない。それは人びとがすでに「真実」をなくしてしまったという現実をしめしているのではないか。
「Fake」(にせ、みせかけ)には、まだ「真実」に似せようとする熱があったように感じます。それと比べて、昨日言ったことと今日話していることが、まったく脈略がなく、その場限りのものになってしまっている。それほど人びとは自分自身をすでに保てなくなっている。

「Post Truth」の示唆する世界は、おおよそそんな世界です。

 そんな風うに思うと、たしかに夥しいほどネット上に溢れかえる言葉の放出は、もう長いあいだ、その主体が「匿名」であることでしか生まれなくなっています。「名無し」、そこには自己を隠すだけでなく、自己自身を保つことができない。「名無し」という匿名さは、「名前」という自己の〝個別性〟を意味する記号すら喪ってしまった者たちのせめてもの自己主張なのかも知れない。

 イスタンブールのテロリストは、ほとんど無言のまま、自動小銃のトリガーを引き、無差別に人びとに弾丸を浴びせたといいます。まったく容赦なく銃を乱射したといいます。何も語らない。理由も動機も何もないまま、銃弾を浴びせる。それはテロリストの「真実」を明かさない態度というより、むしろ「真実」を喪ったテロリストの姿がそこにあるのだと思います。それこそが「Post Truth」の時代。

 しかし、2017年は訪れました。どんな苦しい時代であっても、それがわたしの時代だし、あなたの時代なのだ。そればかりはどうにも逃れられない「真実」です。ならば、いかにしてこの時代を生きていくのか。

 人びとは、いつの時代でも険しい稜線を歩きながら、自分の生の意味を尋ね続ける運命にあるように思えます。それと同時に、人はけっして一人では生きていけないことも事実です。  ならば、やはり少しばかりは、外界へつながる「言葉」とその言葉を支える「真実」を回復したいものです。
「Post Truth」の時代と対峙する。そのためには、人びとと辛苦も哀しみもともに語り合える「言葉」の復権をはかっていきたいと思います。

「歓喜をともにするのもいいでしょう。しかし、あなたは〝共苦〟をともにすることからはじめなければなりません」
 かつて愛読したイギリスの詩人の言葉です。

 2017年がみなさんにとって、ともに生きるという実感に溢れた年になる事を深く祈念しています。


 八柏龍紀


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