風韻坊ブログ

アントロポゾフィーから子ども時代の原点へ。

アントロポゾフィーからみた総選挙07~言葉と民族

2014-12-12 23:49:22 | アントロポゾフィー
選挙では、当然、言葉が飛び交う。
政治家たちは公約を掲げるが、
本当に大事なことは触れなかったり、ぼやかしたりする。
けれど、そういう言葉の使い方が、人間を弱らせる。
民族を弱らせる。

シュタイナーがもっとも警戒したのが、「空虚な言葉」(Phrasen)だった。
本当の意図を隠した発言、責任を伴わない言葉の連なり…
収束からほど遠い原発事故の状況を「コントロールされている」と言ったり、
原発問題に触れずに被災地の復興を語ったり、
憲法の精神を捻じ曲げて集団的自衛権を押し通す。
それらはすべて言葉への裏切りだ。
日本語という言語への裏切りだ。

言葉は人間そのものであり、
社会は言葉のうえに築かれる。
空虚な言葉は、人間と社会の空洞化を意味する。

シュタイナーは、第一次世界大戦の最中、
これからの民族概念は、
「血縁共同体」から「カルマ(運命)共同体」に変わる必要があると言った。

私自身は、これからの民族は言語共同体として捉え直されるべきだと思う。
そのとき、民族はただ生まれ落ちるところの、受動的な絆ではなく、
意識的に言語を使用することによって、意識的に形成される関係性となる。

人間の赤ちゃんは、最初はいかなる言語にも開かれている。
しかし、周囲の人々の語りかけや関係性によって、
一つの言語を母語として選択し、身につけていく。
民族性は、出生後の人間関係によって形成されるのだ。

そのような意味での民族性であれば、
大人になってから意識的に選び直すこともできるだろう。
あるいは、T.S.エリオットは、母語の他に、少なくとも一つの言語を習得することは、
新しい人格を体験することであり、人間性を豊かにすると言ったが、
複数の民族性の間を行き来することもあるだろう。

たとえば、日本文学への関心から日本語を見事に習得した外国の人たちに出会うと、
この人たちこそ、日本語を守り育ててくれているのではないかと感じる。
または、アンソニー・バージェスは、
英語は「大いなる不純性の言語」だと言ったらしいが、
そのように雑多な人々にいわば勝手な使われ方をすることで、
いわゆる世界共通語として強靭に育つ言語もある。

英語のもつ民族性は、もはや米国や英国を超えている…

しかし、一つの国家は、一つの言語を共通語として形成される。
それは法律が一つの言語で書かれるからだ。
その中心をなすのが憲法である。

政治家とは、本来、法律という言葉を通して、
国家を守り形成していく人々のことだ。
それが立法ということではないのか?

国会の議論も、外交も、およそ政治は言葉によってなされる。
国家は「言葉の家」なのだと思う。
そして、政治家は、国家の言葉に責任がある。

今の政権は、愛国と言いながら、
国家の言葉を骨抜きにしている。
真の国家形成は、
沖縄に対しても、原発に対しても、安全保障に対しても、
政治家が嘘のない、責任ある言葉を持つことによってなされるはずだ。

よく「言葉だけじゃダメだ」と言われるが、
それでも言葉は人間の中心なのだと思う。
言葉から思考が生まれ、
言葉から行為が生まれる。
言葉が空虚ということは、人間が空虚ということだ。

今、政治家たちによって、
「日本国の言葉の背骨」である憲法が骨抜きにされようとしている。
私たちに国民としてできることは、
一人ひとりが自分の責任ある真実の言葉を発することしかない。

選挙における投票は、言葉を発することだ。
私たちは自分で候補者や政党の名前を書く。
名前は、もっとも根源的な言葉だ。
幼い子どもがが最初に覚える、もっとも重要な言葉が名詞である。

投票によって、私たちは日本語を語るのだ。
それは、日本国の背骨を、私たちの手で正す行為となるはずだ。












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1 コメント

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共感します (inca)
2014-12-13 21:41:15
最近著書を読み、ブログを見つけました。
とても興味深く拝見しております。
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