研究生活の覚書

研究していて、論文にするには届かないながらも放置するには惜しい話を書いていきます。

好感情の時代

2007-11-07 20:09:58 | Weblog
アメリカはなぜ二大政党制なのだろうか。もちろんこれに回答するには、アメリカの選挙制度はなぜ「勝者総取り」なのを考えた方が良い。選挙制度のほとんどが、勝者総取りならば、二大政党にならざるを得ないのだから。ではなぜ勝者総取りになったのか。

リチャード・ホーフスタッターは、The Idea of a Party System: The Rise of Legitimate Opposition in the United States, 1780-1840 (Berkeley: University of California Press, 1969)という本の中で、次のように言っている。

<partyというのは、アメリカ革命以前の世界では、政治的には腐敗したものであると認識されていた。・・・それは文字通り部分利益を意味していたのであり、公共善とは相容れない現象であると考えられていた。そしてこうしたparty理解は、ずっと後まで続くのである。>

つまり古典的共和主義の理解では、partyとは、「政党」ではなく「党派」とみなされるもので、それは公共善という観点からみて「悪徳」だったわけである。今日、民主的制度の要とみなされている政党政治だが、そもそもdemocracyというのが、「悪い」政治体制を意味していたわけで、その悪い体制の要であるpartyは、もちろん悪い習慣なわけである。だから、建国期の人々は、公式的には自らの党派性を否定し、敵対者をけなす場合に、「彼は党派的である」と言って非難した。

公式的にpartyを否定する以上、比例代表はあり得ない。単純多数が、住民の意思とみなされる。またその単純多数の意見に、仮に自分が反対であっても服するのが政治的徳の要件でもあった。公式的に政党は存在しないことになっていたがゆえに、選挙制度は勝者総取りになる。小選挙区制のアメリカにおける思想的起源は、政党の否定にあった。ただし州レベル以下の小さな単位では、これが多数者の専制につながりやすいので、もう一つ別の抑制手段があったほうが良いというのが、『ザ・フェデラリスト』におけるジェイムズ・マディソンの連邦制擁護論となった。

こうして建国期アメリカには、フェデラリスツとリパブリカンズという革命原理についての解釈の違いに基づく二つの政党ができるわけだが、原理的対立はそれ自体が極めて危険なものである。「意見や手法が違うだけで、原理は共有している」ならば問題はないが、原理で対立するなら、それは内戦につながる対立となる。特に建国期アメリカの場合、この原理の対立の実態は、奴隷制をめぐる地域間対立に立脚しており、常にデリケートな状態であった。

ここでやや興味深い現象が起こる。話を単純化するために、象徴的な人物の後を追うのが良いだろう。1803年、フェデラリスツから連邦上院議員に選出されたジョン・クインジー・アダムズは、1808年に上院議員を辞職し、リパブリカンズに入党する。翌年の1809年から彼は駐ロシア公使となる(1814年まで)。第四代大統領ジェイムズ・マディソンの1812年、アメリカ合衆国はイギリスと開戦した。「マディソン氏の戦争」といわれたこの米英戦争は、当初アメリカ国内で非常に評判が悪く、また終始アメリカは劣勢であった。ところが、ホワイトハウスにイギリスの砲弾が打ち込まれたことで、アメリカ諸州の人々の間に、にわかにナショナリズムが高揚した。フェデラリスツは事実上解党状態になり、1814年ころに政党としては消滅し、構成メンバーはすべてリパブリカンズに吸収された。駐ロ公使J・Q・アダムズは、1814年の米英戦争終結を決めたガン条約(Treaty of Ghent)の交渉団に加わり、そこから駐英公使を務め、1817年より第五代大統領ジェイムズ・モンロー政権の国務長官となり、「モンロー・ドクトリン」を起草する。また彼はフロリダ買収を行い、ラテン・アメリカ諸国の独立支援を行う。

この時代をアメリカ政治史では、「好感情の時代」という。これは形式的には政党対立のない時代ということからこのように呼ばれていた。もちろん旧フェデラリスツの系譜の人々がいなくなったわけではない。それは巨大な連立政権なわけで、内部での対立は依然として大きかったが、あとから眺めるなら、これが「党派対立」が「政党対立」に変容する熟成期間だったのだろうと思われる。この巨大なリパブリカンズ一党体制のもとで、ロイヤル・オポジッションを可能とする、なんらかのコンセンサスが形成されたのであろう。

第六代大統領に選出されたJ・Q・アダムズだが、その政権期に巨大なリパブリカンズは、アダムズ派のナショナル・リパブリカンズと、アンドリュー・ジャクソン派の民主党に分裂する。もちろん前者はフェデラリスツの流れであり、後者はジェファソン以来のリパブリカンズの流れなわけだが、彼らの父親たちの世代のようにpartyを恥じることはなかった。アメリカという単位が、父親たちの世代よりは、だいぶ強固だったので、安心して喧嘩ができたのだろう。ナショナル・リパブリカンズは、その後、ホィッグと名前を代え、西部の諸党派、反奴隷制諸団体などと大同団結し、共和党となる。ちなみにトクヴィルがやってきたアメリカは、ジャクソニアン・デモクラシー期のアメリカで、彼の友人たちはホィッグ系統の人々だったので、多数者の専制という概念は彼らの影響が強かった。そのため、彼の『アメリカのデモクラシー』は、出版当初はアメリカのデモクラシー批判として、あまり人気はなかった。

ただし、アメリカにはその後、内戦がまっているわけで、以上のことは単純に過ぎるかもしれない。しかし、二大政党制形成の熟成期としての好感情の時代というのは、それなりに意義のある視点だと思われる。