研究生活の覚書

研究していて、論文にするには届かないながらも放置するには惜しい話を書いていきます。

科学とスピリチュアリズム

2007-01-17 02:42:03 | Weblog
19世紀後半から20世紀初頭のアメリカ文化をみるとき、無視しようとしてもどうしても無視できないのが、スピリチュアリズムのブームである。交霊会があちこちで催され、霊媒師を通して霊魂との交流が行われた。ソローやエマソンの作品もこういう時代の雰囲気を知っていないと、本当には理解できないんだろう。特に、スゥエーデンボルグの霊界探訪の記述は、この時代の文学者にベッタリと影響を与えていて、確かエマソンの母親はスゥエーデンボルグの信者だったはずである。

実はこういう心霊主義のようなものは、アメリカには植民地時代からわりと多くて、それは定期的に起こる信仰復興運動とは、また別の位相のものとしてずっと存在してきた。理由はよく分からないが、一つ考えられるのは、アメリカにはヨーロッパにおけるような確立した教会組織があまりなくて、こうしたキリスト教的には異端的ものが比較的存在しやすかったというのはあるだろう。魔女裁判のようなものも、キリスト教の支配力が不安定になった時――宗教改革の時代、あるいは世俗化の急速に進行した植民地時代後期のアメリカ――に活発に行われている。

こうしたブームは、世俗化が進み科学的思考様式が勢力を拡大するにつれて大きくなる傾向があって、ヨーロッパでもキリスト教会の力が弱まる時ほど心霊現象が起こりやすい。プロテスタントの思想家カール・ヒルティは、「正しい信仰が衰えると、裏口から邪教が入り込む」という言い方をしているが、なんらかの形でエスタブリッシュな宗教が弱くなると、こういうものが出てくると考えられている。つまり、信教の自由の副産物である。

歴史をみるかぎり、近代的合理的思考様式と前近代的思考様式、あるいは科学対宗教という対立構造自体が立論として間違っているということが分かる。「科学が発展している時代に、なぜこのような霊魂だのの話が出てくるのか?」という疑問自体が不自然で、科学とスピリチュアリズムは、歴史的に常に同じ時期に力を伸ばしていて、それはどちらも「支配体系としての宗教」と対立してきたのである。つまり、オカルト的なものは科学的思考能力の欠如によって発生するとは、歴史的には言えない。どちらもエスタブリッシュな宗教が欠如しているときに、同時に発生するもので、人類史全体からみるならば、「正統宗教」・「オカルト」・「科学」は、相互に補完関係にある。繰り返しになるが、いわゆる中世ヨーロッパのようなキリスト教が絶対的な権限をもっていた時代には、「不思議な霊現象」は無いことになっていた。心霊現象や魔術が熱心に研究されたのは、近代に入ってからである。アイザック・ニュートンが錬金術に夢中になっていたのは有名な話だが、なんでも彼が実験室で必死に捜し求めていたのは、「賢者の石」だったそうだ。そもそも科学的関心と魔術的関心は、起源においては似たようなものだったのだろうということである。そういえば、現代アメリカにおける説教者もテレビ・エヴァンジェリカルズという名の示すとおり、新興宗教とテクノロジーは妙に相性がいいのである。

建国期ニュー・イングランドの風土もこういう側面を無視してみることは出来ない。カトリック世界においては、膨大な時間を費やした公会議によって、イエス・キリストとは、「完全なる人」にして「完全なる神」ということに収まり、三位一体論が正統神学となり、それ以外の諸宗派は異端となった。こうした正統神学の確立の事情はプロテスタントでも変わらない。ルター派はメランヒトンによってトマス・アクィナスと似たような構造で神学が固まり、カルヴァン派も厳格な二重予定説のもとにやはり似たような神学が確立した。ヨーロッパ世界で心霊現象が一掃されたのはこの瞬間だけである。科学の出現によって一掃されたのではない。

しかしながら、アメリカ革命前夜の北米植民地では、ここの部分が驚くほど抵抗なく否定されていたのである。アルミニウス派やユニテリアンといった三位一体論も予定説も否定するような宗派が普通に活動を行っていた。特にニュー・イングランドにおいては、神学教育の場であるハーヴァード大学ではユニテリアンが主流を占めていた。

ユニテリアリズムの歴史を詳細に語ることは出来ないが、要するにキリストの神性を否定し、神と人とを直接結びつけるわけだが、そこでは予定説と聖書の絶対性は否定され、来世の救済は、人間の意志とその道徳性にかかってくる。もはやカルヴァンとは無縁であるこの宗派は、必然的に汎神論的色彩を持つようになり、そこに心霊の働きが入り込む余地が生まれる。救済は予定にもとづくものではないことから、道徳的緊張感をもった自己改革の努力がそこに生まれると同時に、祈りの効用が認識されるようになる。そして科学技術の躍進もこれとまったく同じ時期に進行している。

そういうわけで、ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』はやはりおかしくて、ベンジャミン・フランクリンの「13の徳」というのは、プロテスタントのそれとは無縁なものである。彼が活躍していたフィラデルフィアは、最初から正統プロテスタント(ヘンな言い方だが)とは、無縁の土地柄であった。「理念型」とかそういう問題以前に、ニュー・イングランドとその周辺にはまったく場違いな感じなのである。あの界隈は、道徳的関心と心霊現象の中心地だったのだから。

最近は収まってきたが、ここ数年、霊能者や占い師の類がテレビのゴールデンタイムに出演するようになっているが、こういった風潮にあまり心配をする必要はないように思う。科学の進展とオカルティズムあるいはスピリチュアリズムの流行はいつでも同時期なのであり、そういうのが無い時代というのは、エスタブリッシュメント・チャーチが世の中を支配している時代だったことを考えれば、自由を謳歌できていることの一つの証左といえるのかもしれない。

1 コメント

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Unknown (未熟な存在)
2007-08-06 16:03:06

人間は間違いなく霊的存在だと思います。
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