研究生活の覚書

研究していて、論文にするには届かないながらも放置するには惜しい話を書いていきます。

ジェファソンはアダムズに勝つべきだったのか

2006-11-10 09:10:30 | Weblog
「トマス・ジェファソンが合衆国大統領になったことは、アメリカ史にとって良かったのか?」というテーマの研究がアメリカ建国史の中にはずっと存在している。同じ意味だが、「ジョン・アダムズが再選されるべきだったのではないか」というテーマである。日本と異なり、アメリカン・スタディーズにおける建国史の地位が依然として高いアメリカにおいても、このテーマは、マイナー中のマイナーである。だって、政治史にはない話なんだから。しかし、カリブ海域におけるイギリス、フランス、アメリカ、スペインの外交史に注目し、このあたりの文献を読み続けていれば、結局はこういう疑問に行き着くことになっているのである。最近では、Le MoyneカレッジのDouglas R. Egertonなんかがその筋では有名である。18世紀の終わりから19世紀初頭のカリブ海における外交は、実は非常に面白い分野で、ここに注目すると、実はジョン・アダムズの偉さの一端が分かる仕組みになっている。非常に、あくまで非常に小声で言うのだが、実は私が今年、このあたりの論文を発表したのだが、反響のあまりの小ささに愕然としている。というか、反響はゼロだった。何故(笑)。さすがに悲しかった。

ここで、これまで書いてきた建国期アメリカの外交と内政の状況を簡単に振り返る(詳しくは)。時代は英仏戦争のさなか、幼弱な新国家アメリカの内部は、親イギリス派のハミルトン派フェデラリスツと、親フランス派のジェファソニアンズとに分裂していた。つまり、国際関係の対立構造が、Partiesを受け皿にして国内を分裂させ、その分裂に外国勢力が介入し始めるという危機的状況にあったわけである。その典型例が、駐米フランス公使ジュネーによる、「革命外交」と称するアメリカ国内でのあからさまな活動であった。これには、さすがのジェファソンも愕然としたといわれている。彼がワシントン政権の初代国務長官を辞した背景には、こうした騒動への責任を問われたということも背景にあった。これを憂慮したのが、初代大統領ジョージ・ワシントンと第二代大統領ジョン・アダムズを中心とするModerate Federalistsという「国内派」の人々であった。具体的には、ワシントンが「ジェイ条約」を締結し、アメリカの大幅な譲歩のもとでイギリスとの和平を実現し、国内の親仏派の勢いを制御し、次にアダムズがフランスとの和平を独断で決めて、ハミルトン派フェデラリスツを外交の舞台から葬り去ったのである。こうしてアメリカは孤立主義の時代に入り、第一次大戦以降再び世界史に姿を現した時には、単独主義の国になった。この過程で、政治生命どころか肉体的生命すら失いかけていたジェファソンは息を吹き返し、与党「フェデラリスト」を自分で解体してしまったアダムズとの選挙戦に勝利し、第三代大統領となったのである。

アダムズは、次のように述べていた
第三の権力によって均衡されていない富者(rich)と貧者(poor)、紳士(gentlemen)と庶民(simplemen)といった党派は常に外国の援助を求めるようになる。・・・・トーリーとホイッグ、立憲主義者と共和主義者、イギリス派とフランス派、アテネ人とスパルタ人は、いつもゲルフ党(Guelph)とギベリン党(Ghibelline)との争いと同じ問題を示してきた。政府において非常に必要とされることは、これらの諸党派をともに法に従わしめるに十分な強さと重さをもった、独立した行政権力である。

またワシントンは、ラファイエットに次のように書いている。
われわれの国には様々な人々がおりまして、ある人々はこの国がイギリス側に巻き込まれることを望み、別の人々はフランスと手を組んでイギリスに対抗するのがよいと考えています。・・・・・しかし、この国の有力者たちと人々の大部分は、ヨーロッパの政治や抗争に参加するようないかなる環境も望んでいないのです

「政党政治」が確立していなかった時代の党派対立である。内戦や暗殺の危険があまりに大きかった。それをとにもかくにも、流血無しで「第三代」の大統領に反対党派から民主的手続きによって到達したジェファソンは、その個人的なフランスへの共感を控えて、外交方針はワシントンに従った。すなわち、大西洋の向こう側で展開されている複雑怪奇な外交とは距離を取り、西部開発に精力を注ぎ「自由の帝国」の建設に向かったわけである。そして、行政府の長としては、かつて自分が猛然と批判したハミルトンの財政案を次々と実現していくことになった。実にこの人物は鵺である。

さて、この建国期アメリカのすべてを象徴する西部へのばく進、大陸国家への道は、ジェファソンによってこそ可能だったのだろうか。もちろん、そうではない。西部開拓はフェデラリスト政権期においても規定路線だったのである。どの道アメリカは大陸国家になったはずであった。ただこれが、ジェファソン以下の、ヴァージニア勢によってなされることとなった。ヴァージニア勢とは言うまでもなく奴隷所有者たちである。一方、敗れたフェデラリスツはこれに国制上の危険を感じ、激しい焦燥感に襲われた。ヘンリー・アダムズの『合衆国史』の記述を信じるならば、ニュー・イングランドのフェデラリスツは、連邦を離脱してカナダを併呑し、新たに合衆国を建設しようと動いていたと言う。これを「ニュー・イングランド・フェデラリスツの陰謀」という。つまり、西部開拓における政治理念からフェデラリスツの精神の空白状態が続いていたのである。ここに、後の南北戦争の悲惨さの起源がある。「もし奴隷制反対論者で、外交・行政の経験豊富なアダムズの手でなされていたなら」という議論は当然あって、これは単なる「歴史のIf」というお遊び以上の精密な数字による検証もなされている。「アダムズが再選していれば、南北戦争は起こらなかった」という説まである。

ここで目を西インド諸島に転じてみよう。ジョン・アダムズは、英仏両国が大西洋の真ん中で海戦に没頭している間に、艦船を造れるだけ造り、西インド諸島に着々と配備を進め、1799年10月までには、完全にこの狭い地域だけなら十分な制海権を押さえた。しかも、ハイチからフランスの支配勢力を駆逐した英雄トゥサン・ルベルテュールと事実上の同盟関係を結び、サン・ドマングの商品はニュー・イングランドの商人が独占的にこれを扱うことができた。こうして英仏両国のこの海域での自由な行動を不可能にした上で、フランスとの単独和平を行ったのである。これによって、国内の親英派と親仏派との対立を消滅させ、かつ英仏戦争に巻き込まれることを回避したというのだから、神がかり的なステイトクラフトである。

しかし、大統領選挙には負けた。アダムズは自分の支持基盤であるフェデラリスツの半分をすでに崩壊させていたからである。これに対して、ジェファソン派は仮借なき党派戦略(新聞によるアダムズのマイナス・イメージの普及など)を用いてアダムズと戦った。そうやって勝利したジェファソンは、ハイチで何をしたのか。

ハイチでの相次ぐ奴隷暴動を受けてフランス国民議会は1802年の奴隷解放宣言を採択したが、権力を握ったナポレオン・ボナパルトは、同宣言を破棄し、サン・ドマングに軍隊を上陸させ、再占領を行った。この再占領は、トゥサン・ルベルテュールに率いられた現地人の前に苦労していたが、結局フランスは姦計をもってトゥサンをとらえてフランスに移送し、彼を処刑した。こうしてハイチは再びフランスに落ちた。

さて、ここで思い出さなければならない。ハイチの独立を認め、それを保護していたのはアメリカではなかったのか。アダムズの用意した艦隊はどこへ?答えは簡単で、要するにジェファソンが、ナポレオンにあげてしまったのである。「奴隷制は本当は良くない」と理解していたジェファソンは、ハイチやアフリカに黒人奴隷たちを「帰還」させる計画を行っている。もちろん、歴史が示すとおり、こういう厄介払いは絶対に上手くいかない。ジェファソンの考えでは、こうしたカオスが続くよりは、ナポレオンのフランスが秩序ある統治をした方がよいと考えたのかもしれない。また、アメリカ大陸に権益を求める、スペインを抑制する存在として、フランスは良い存在だと考えたのかもしれない。少なくとも、西インド諸島の貿易利益は、あくまで北部商工業地帯を潤すもので、綿花プランテーション経営者の彼にはよく分からなかったのかもしれない。リベラルな主張を個人的には持っていながら、よくわからな世界のことに対してはトコトン冷たく、理想主義的な行為がまるで当事者のためにも、現実にもあっていない当たりは、さすがリベラルのご先祖様である。

アダムズであれば、こうはしなかったであろう。アダムズは、唯一例外的にハイチの黒人独立国家と事実上の同盟関係を結び(注:ハイチの独立宣言自体は1804年。ハミルトン派フェデラリスツがイギリスとの同盟関係の下にハイチを押さえようと考えていたのに対して、国内派フェデラリスツは、独立ハイチそのものとの同盟を構想し、同海域から英仏を排除することを企図していた)、フランスの同地域への侵略を無効にした。冷めた人間観を持っていた彼なら、ハイチやアフリカを混乱させるような黒人の「帰還」事業はやらなかっただろう。アダムズの奴隷廃止論は、「漸次削減」である。西部開拓におけるアダムズの方針は、統一的民事法による粛々とした不動産売買の問題で進んでいくはずであった。そのために、合衆国憲法は作られたのだから(ビアード)。当時アメリカにいた「黒人奴隷」は、当初の方針通りならば、たしかに時間の経過とともに数を減らしていくはずだった。そこのころには、南部の綿花栽培経済も、別の形態になっているであろう。ところがこれが南北戦争にまでつながってしまったのは、ヴァージニア・ダイナスティの間に、奴隷制が南部の文化・経済基盤として強固なものになってしまったからである。リンカーン大統領がおこなった業績とは、「ユニオン」という一点であり、北軍の勝利によって黒人が本質的な意味で救われたわけではないことは、その後のジムクロウ体制にも明らかである。

こうした「たら・れば」話を恐れてはいけない。それは政治史を反省的にチェックできるからである。私の今娑婆で用意している論文は、建国期におけるカリブ海をめぐる政治史についてである。ここには、ひょっとしたら建国史家にとっての宝の山が沈んでいそうなのである。「ジェファソンより、アダムズが再選する方が、アメリカのためには良かったかもしれない」というのはちょっと笑ってしまいそうなテーマだが、私ならいずれ面白くかけそうな気がする。当時の国際関係や、建国の父たち相互の違いが、あの小さな海に結集しているのであるから、ちゃんとやれば面白くないはずは無いだろう。

3 コメント

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伊藤博文とフェデラリスト (M.N.生)
2006-12-25 21:38:40
またまたご無沙汰してました.
先日、三谷太一郎先生の話を聞く機会がありまして、そのときに、ハミルトン・マディソン.ジェイの「フェデラリスト」が伊藤博文の座右の書であったということを知りました.
 (三谷先生説では)大日本帝国憲法とアメリカ憲法は、共に徹底した権力分散という共通点があり、権力分散の下で、いかに国家の統合をはかるかに苦慮していた伊藤が、「フェデラリスト」を手放さなかったのも、むべなるかな、というようなお話でした.
 更に三谷説では、国家の統合にアメリカが成功したのは、政党政治を作るのに成功したからであり、戦前の日本で、軍部が台頭したのは、それが弱かったから.まあ、その様なお話です.偉い先生の話は、ふーん、そうかということで、それを判断する力は、私にはありませんが、三谷先生がホーフスタッターの「The Idea of a Party System」を引用して説明されたので、強く印象に残ったしだいです.
 政党政治が、アメリカ憲法体制を救ったのなら、これはある意味では歴史の巨大な、アイロニーであると同時に、アメリカ政治の偉大さかも.そんな気もしましたが、同時に「ほんまかいな」という気もしました.オッカムさんはいかが?
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政党制と保守的政治観 (オッカム)
2007-01-13 02:20:36
私は、さらに御無沙汰していました。
あちこち飛び回っていたもので失礼しました。

『フェデラリスト』の中でマディソンは権力分立について、「各部門は、各部門の利益のみを考えていれば、総合して全体のためになるような仕組みである」と述べている部分がありますね。人間に対する不信感というか、非常に冷めた政治哲学ですよね。「悪魔を欺き、善を実現するのが政治である」という政治哲学なんでしょうね。こう考えると、「権力分立論」っていうのは、啓蒙主義的人間観というよりも、明らかに人間の弱さを折り込んだ、非常に保守的な政治観ということになるのでしょう。

そういえば、ルソーの社会契約論には、権力分立という考え方はないんですね。共産主義も民主集中制とかいいますもんね。
つまり、権力分立ができないというのは、冷静ではないということでしょう。人間の理性の限界を理解できないのが一番危ういということだと思います。

政党制というのもこの人間社会の揺らぎを折り込んだ政治思想なんでしょうね。このことは保守主義の神様のエドマンド・バークが政党制を擁護したことに現れています。実は、バークの時代には、「政党」なんてものは、「部分利益を追求する党派」であるとして、それは公共精神の欠如の象徴であるという建前でしたから、それを考えると、バークはやっぱり凄いんですよね。この辺の状況と思想の変遷をアメリカ史を中心に完璧に描いたのが、ホーフスタッターのThe Idea of a Party Systemだったんだと思います。

「政党の存在が、国家の統合と憲法体制を守る」というのは、18世紀の常識では無茶苦茶な話だったわけです。逆説もいいところで、当時は国家と憲法体制を引き裂くのが政党と思われていましたから。このポイントは、「ロイヤル・オポジッション」の成立でしょうね。逆に、この野党が「ロイヤル」じゃない場合は、深刻なんでしょう。少し生臭い言い方をするなら、この野党が外国勢力と関係しているとまずいということです。

さて先の大戦前夜の日本ですが、これは難しいですね。本当に難しい。次の二つの考えが交錯します。

まず第一に、私は日本における軍部の台頭なるものは、戦時非常体制に過ぎなかったと実は思っているんです。日露戦争後の大正デモクラシーを見るかぎり、日本は戦争さえ終われば、どのみちノーマルシーに復帰していただろうと私は考えます。これは敗戦とデモクラシーの成立にはなんの因果関係もないというもので、例えばイラク情勢を見るとそう思います。

ただ一方で、脆弱といえば脆弱だったんですよね。戦時にも維持されるほどの強靭な政党政治があったなら、確かにぜんぜん違っていたのだろうと。ただ、あの時日本が置かれていた状況の難しさはアメリカとは比較できませんから、ここは何とも言えないなあと思います。


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小生は日本の神社・公民館、神社・国立大学法人、神社・保安林のテーマを目下、提訴 (藤原英夫)
2007-11-18 00:58:10
 なるほど、大変な勉強家がいるものだと、拝読して感心しています。
 小生は、たまたま、偶然ですが、神社公民館という、一見して社会教育法、宗教法人法、教育基本法、憲法第20条、第89条、その他憲法違反ですから、関連する法令の総てが効力を失う事案に、ぶつかりまして、これに松本市長が約600万円の公金を支出して、1.200万円増改築費の半額助成、また神社の中に水洗トイレを、高齢者福祉資金で建築設置でした。
 さて、その調査研究と、監査請求の住民訴訟、また国家賠償請求、民事訴訟で提訴しまして、憲法第20条、第89条違反判決を二件確定となりました。
 この事件は、その後、色々と、確定判決の処理に入っていて、法理と法律構成が新判例でしたので、裁判判決文と関連資料を出版して、今後の学際的な調査研究の為に、資料提供しています。
 ちなみに、この中で、信州大学の構内神社事件は、有斐閣判例六法、平成19年度版、憲法第89条p62、第6項判例に掲載されましたから、「司法試験の出題が気になる最近判例」のインターネットHPに、リストアップされました。
 
 ご興味とご関心のある方には、小生資料を提供しています。
メースアドレス:economics_fujiwara@ybb.ne.jp

藤原英夫著、「裁かれたキャンパスの神社」を、出版して、公立図書館推薦図書、法律分野第2位にリストされ、大学図書館、公立図書館に納入されましたから、閲覧できます。
法学部ゼミ論文には、課題として出題ないし論文テーマとなっているケースが、結構あるようです。

藤原英夫 拝
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