猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

忘れ去られた物語たち 36 古浄瑠璃 ゆみつき①

2015年02月23日 14時25分10秒 | 忘れ去られた物語シリーズ
 日蓮聖人の「御遺文講義」の中には、「杖刀難事」に関して、天台座主延昌(えんしょう)の故事を引いて、次の様な解説が出て来る。『延昌は子供のころ、父親から、槻の木の弓で打たれ、その怠惰を叱咤された。打たれたそのときは父が恨めしく、槻の木がにくかった。しかし、学問も増進し、境涯も開いて、人々を利益するほどの高僧となった時、この父の恩を身にしみて感じ、父への報恩のために槻の木で率搭婆を作り供養したという。』
 延昌(880年~964年):平安中期の天台僧。加賀国江沼郡出身。「弓継」(ゆみつぎ)とは、この天台座主延昌の故事を浄瑠璃化したものです。
古浄瑠璃正本集第1(25)正保5年(1648年)三月吉祥日 西洞院通長者町 長兵衛板

弓継 ①

加賀の国の頭川(ずかわ)の里(富山県高岡市頭川)を治めていたのは、左衛門権の太夫、松野尾の信隆という武士でした。信隆は、大変に慈悲深い方でした。子供が二人おりました。嫡男は、十六才の玉松丸。下に、十一才になる妹の玉鶴御前がおります。夫婦は、ある時、末世の有様を儚み、夜半の鐘の音に諸行無常を感じると、
「なんと、儚い世の中であることか。昨日の栄華は、今日に残らず、例え百才まで生きたにしろ、必ず死んで、二度とこの世には戻らない。それが、有為転変の理である。つまり、一番大事なことは、後世を祈ることだ。」
と考えて、後世を弔ってもらうために、玉松丸を大聖寺(石川県加賀市大聖寺町)へと上らせたのでした。
 玉松丸は、大変に優秀であったので、一字を聞いて、十字を悟り、忽ちに稚児学者と呼ばれるようになったのでした。しかし、月見、花見の酒宴ともなれば、他の僧達と共に、舞楽を演奏し、笛や太鼓に明け暮れるということも珍しくはありませんでした。父の松野尾は、こうした山での生活の様子を伝え聞くと、玉松丸を呼び返しました。松野尾は、
「おまえを、寺へ上がらせたのは、別のことではないぞ。学問をさせて法師にし、我々の後世を頼む為だ。弓馬の家から寺へ上らせたのは、酒宴、管弦の道に長ずるためではないのだぞ。親の本意に背いて、学問に精を出さず、遊んでばかりいるならば、堅牢地神の罰を受けるぞ。よいか、只々、読むべきは、諸経の数々。習うべきは文章である。将棋や碁、双六などは、浮き世人のすることで、法師のするべきことでは無い。学問して、高僧貴僧になることこそが大事なのだ。この、不心得者。」
と、激怒したのでした。玉松は、
「お言葉ですが、そうした事は、山寺の習いです。私は、それほど好みませんが、法師が稚児を弄ぶ事等、今に始まったことではありません。謂わば、朱に交わればと、申しますように、寺にあっては、酒宴を断る事はとてもできません。」
と、答えましたが、父松野尾は、
「朱に、身を汚すというのなら、今日よりは、親でも子でも無い。」
と、にべもありません。玉松は重ねて、
「それは、困りますが、しかし、例えば和歌は、本朝の風俗として神代から始まり、目に見えない鬼神の心も、勇猛な武士の心も、和ますことができます。又、管弦は極楽浄土の菩薩聖衆が用いるものであります。管弦の道を知らないと言うことは、耳しいと同じです。別に、その道を究めようというわけではありませんが、ある程度は、身につけておく必要があるのです。」
と、言いますと、父は更に怒って、
「なんと、生意気な口をききおって、親に向かっての返答に、耳しいとは何事か。」
と言うなり、立ててあった弓を手に取って、玉松殿を叩きました。玉松殿は、畏まってじっと堪えましたが、父は、弓を折れよとばかりに叩きました。とうとう弓は、三つに折れました。玉松殿は、折れた真ん中を手に取ると、家を飛び出したのでした。
「その昔、伯兪(はくゆ:「伯兪泣杖」の故事)は、親に打たれた杖(鞭)の弱った事を悲しんだ。今、私は、この折れた弓を、慈悲の杖と感じて、親の形見としよう。」
と固く決意をすると、その夜は、道端の御堂で一夜を明かしたのでした。
 そのころ、妹の玉鶴女は、兄を押し留めようと、後を追いかけましたが、月の無い晩でしたので、とうとう行き暮れてしまい、野宿をすることになってしまったのでした。
 翌朝、玉松殿は、比叡山を目指すことにして、御堂を出ました。やがて、捜し廻る玉鶴女に出合います。玉鶴女は、兄の袖に縋り付いて泣きじゃくりなら、訴えました。
「なんと、浅ましいお兄様。どこに子を憎く思う親があるでしょうか。只の折檻で、弓を折ったわけではありません。どうかお戻り下さい。」
玉松殿は、
「私も、それは、分かっておる。しかし、親の不興を被ることは、天神地神も許すまい。学問を究めて、人となってから、再びお目に掛かることにしたい。」
と、きっぱりと袖を払うのでした。この人々の心の内は、例えようもありません。
つづく