私はニュースを見ていて余りの事実誤認にガッカリした。謝罪は求めない、現職大統領が来てくれたことに意義がある、これが核廃絶に向けての一歩になれば、ETCが、大半のコメントである。原爆投下は、日本と連合軍とが戦争しているというシチュエーションの中で是非を問うものでなければ、本質を見誤る。日本人は「敵・味方を忘れて世界平和のために」一緒に歩んで行こう、と能天気に感激しているが、太平洋戦争で真珠湾に奇襲攻撃をかけ多数のアメリカ人を殺し、中国各地で殺戮を繰り返し、負け戦とわかっても戦争を続けたのは大日本帝國ではなかったのか?。バターン死の行進やインド奥地でのインパール作戦で、いったいどれだけ無駄な人命が失われたか。それらは意味があって、広島は意味がなかった無駄だった、とでも言うのだろうか?
広島でオバマ大統領が核廃絶を訴えるのは「戦勝国アメリカだから出来たこと」なんであって、戦争をやめ敗戦を受け入れず「天皇を無条件降伏から守る」ことを国民の命より優先した日本には「核使用の是非を問う資格は無い」のである。核爆弾が戦術として認められない唯一の理由は、その殺傷力が「人間性までも同時に破壊するから」では無い、「味方を助け、敵だけを殺すことが出来ない」点にある。事実、アメリカ兵の捕虜も被爆していた。取捨選択は、「戦争における最後の良心」なのである。この一線を越えて無差別に全ての生命を殺しつくす核爆弾という最終兵器は、もう戦争とすら言えない「人類自滅の破壊兵器」そのものである。そういう真摯で厳密な反省のない、感情的な「核爆弾で死んだ人の悲惨さ」をあげつらう世論の盛り上がりは、たった一つの事件をきっかけにして180度の方向に向かうハーメルンのネズミでしかない。
例を北朝鮮にとろう。核を搭載する大陸間弾道弾の発射実験が成功したと聞いて「やられる前にやってしまうしか無い」とない、と考えた貴方には、到底核廃絶は無理である。金正日が英雄か狂人かどうかはわからないが、人間であることは間違いない。だから彼と話し合い、彼と戦うのは許されるだろう。しかし朝鮮民族を全部ひっくるめて「敵だから殺すしか無い」と考えることは、核兵器を使用する判断と同じ過ちに、すでに取り込まれているのである。北朝鮮の市民にも、心優しい親子や夢に向かって頑張っている若者や互いを支えあって生きていこうとしている老夫婦がいるかもしれない。金正日が核開発をするから悪いのだ、と全ての罪を彼に押し付けて済ませようとしてはいないか。
オバマ大統領は北朝鮮の核開発阻止を中国に任せて、傍観することを決めた。北朝鮮は、アメリカの脅威から国を守る方法として、核開発をし発射実験を繰り返している。中国もなんとか押さえつけているが、コントロールもそろそろ限界である。韓国もアメリカと大規模な演習をやって挑発することに熱心である。太陽と北風の話にあるように、優しさが「北風に震える旅人のコートを脱がせる」というのは間違いで、単に旅人がコートを脱がない「本当の理由」さえわかれば、いつでも簡単に旅人のコートを「着せたり脱がせたり出来る」のである。では北朝鮮がコートを脱がない「本当の理由=核開発の理由」は何処にあるのか?
ニワトリか先か卵が先かになってしまうが、北朝鮮がアメリカ・韓国・日本の三国から「敵視されている」のは事実である。出来れば潰したいと言うのが本音であろう。貴方も、前後左右の隣人が武器を揃えて演習などしているのを見せられたら、より強力な武器で武装したくなるのではないか?北朝鮮を非難するだけでは太陽と北風の「北風に」なるだけである。拉致被害者を返せと叫ぶ一方では、いつまでたっても北朝鮮との関係は改善しないだろう。我々は「北朝鮮という国の人々を敵視」しているのではなく、北朝鮮の「国家のシステムを敵視」しているのでもない。個人の主義主張は自由でなければならないし、経済発展と生活の向上を願う国民の気持ちに違いはないであろう。つまり、北朝鮮の国家体制や官僚システムや軍の編成などは、「北風から身を防ぐコート」である。
コートを脱がせるのは、太陽のように簡単ではない。しかし北風をより強く吹かせようとするだけでは、北朝鮮はコートを脱がないのは自明の理である。旅人をコートもろとも吹き飛ばして「旅人のいない無人の地」を選ぶか、なんとかコートを脱がす道を選ぶかは、これからの貴方の出方次第である。オバマ大統領は、核廃絶が人類の夢だと語った。日本人はその核を「アメリカに使わせてしまった罪」を深く反省し、まず国や天皇制や民族の誇りと言った抽象的な存在を「目の前の人間より価値あるもの」とする考えを、諸悪の根源として廃棄できるかどうか己自身の胸に問うてほしい。
原子爆弾の悲惨さを広島の原爆記念館で痛いほど思い知らされた同じ人が、原子力発電所の再稼動には「日本経済には必要」と言って賛成する。5年経った今も福島の4基の発電施設では致死量の放射能が撒き散らされている事実を知っていて尚且つ、鹿児島の川内原子力発電所は再稼動させて「平気でいる日本人の頭の中」は、オバマ大統領のスピーチなど「ただのイベントでしかない」のだろう。ニュースで騒がれて精々3日、謝罪はいらないという日本人の姿勢に「全てを水に流す心の大きさ」が感じられるとか言った馬鹿コメントを間に受ける大衆がいる間は、核廃絶など不可能である。
原爆で死んだ人に謝らなければいけないのは、その命を身代わりに差し出して戦争を続けようとした「生き延びた日本人全員」であるはず。その日本人は「国を守ろうとした」。私は、はっきり申し上げる。国を愛する心が戦争を呼び込むのだ、いやそうじゃ無い、国を「自分の所有物と考える心」が戦争を呼び込むのである。北朝鮮も韓国も日本も、誰のものでも無い「人類共通の財産」である。そういう風に思えば、核爆弾など勿体無くてとても使えないのだ。
結局人類は、全体が一つになるしか生き延びることは出来ないだろう。そのとき日本らしさも消滅する。それぐらいの気持ち・覚悟がなければ、核廃絶なんか出来ないと思う。
広島でオバマ大統領が核廃絶を訴えるのは「戦勝国アメリカだから出来たこと」なんであって、戦争をやめ敗戦を受け入れず「天皇を無条件降伏から守る」ことを国民の命より優先した日本には「核使用の是非を問う資格は無い」のである。核爆弾が戦術として認められない唯一の理由は、その殺傷力が「人間性までも同時に破壊するから」では無い、「味方を助け、敵だけを殺すことが出来ない」点にある。事実、アメリカ兵の捕虜も被爆していた。取捨選択は、「戦争における最後の良心」なのである。この一線を越えて無差別に全ての生命を殺しつくす核爆弾という最終兵器は、もう戦争とすら言えない「人類自滅の破壊兵器」そのものである。そういう真摯で厳密な反省のない、感情的な「核爆弾で死んだ人の悲惨さ」をあげつらう世論の盛り上がりは、たった一つの事件をきっかけにして180度の方向に向かうハーメルンのネズミでしかない。
例を北朝鮮にとろう。核を搭載する大陸間弾道弾の発射実験が成功したと聞いて「やられる前にやってしまうしか無い」とない、と考えた貴方には、到底核廃絶は無理である。金正日が英雄か狂人かどうかはわからないが、人間であることは間違いない。だから彼と話し合い、彼と戦うのは許されるだろう。しかし朝鮮民族を全部ひっくるめて「敵だから殺すしか無い」と考えることは、核兵器を使用する判断と同じ過ちに、すでに取り込まれているのである。北朝鮮の市民にも、心優しい親子や夢に向かって頑張っている若者や互いを支えあって生きていこうとしている老夫婦がいるかもしれない。金正日が核開発をするから悪いのだ、と全ての罪を彼に押し付けて済ませようとしてはいないか。
オバマ大統領は北朝鮮の核開発阻止を中国に任せて、傍観することを決めた。北朝鮮は、アメリカの脅威から国を守る方法として、核開発をし発射実験を繰り返している。中国もなんとか押さえつけているが、コントロールもそろそろ限界である。韓国もアメリカと大規模な演習をやって挑発することに熱心である。太陽と北風の話にあるように、優しさが「北風に震える旅人のコートを脱がせる」というのは間違いで、単に旅人がコートを脱がない「本当の理由」さえわかれば、いつでも簡単に旅人のコートを「着せたり脱がせたり出来る」のである。では北朝鮮がコートを脱がない「本当の理由=核開発の理由」は何処にあるのか?
ニワトリか先か卵が先かになってしまうが、北朝鮮がアメリカ・韓国・日本の三国から「敵視されている」のは事実である。出来れば潰したいと言うのが本音であろう。貴方も、前後左右の隣人が武器を揃えて演習などしているのを見せられたら、より強力な武器で武装したくなるのではないか?北朝鮮を非難するだけでは太陽と北風の「北風に」なるだけである。拉致被害者を返せと叫ぶ一方では、いつまでたっても北朝鮮との関係は改善しないだろう。我々は「北朝鮮という国の人々を敵視」しているのではなく、北朝鮮の「国家のシステムを敵視」しているのでもない。個人の主義主張は自由でなければならないし、経済発展と生活の向上を願う国民の気持ちに違いはないであろう。つまり、北朝鮮の国家体制や官僚システムや軍の編成などは、「北風から身を防ぐコート」である。
コートを脱がせるのは、太陽のように簡単ではない。しかし北風をより強く吹かせようとするだけでは、北朝鮮はコートを脱がないのは自明の理である。旅人をコートもろとも吹き飛ばして「旅人のいない無人の地」を選ぶか、なんとかコートを脱がす道を選ぶかは、これからの貴方の出方次第である。オバマ大統領は、核廃絶が人類の夢だと語った。日本人はその核を「アメリカに使わせてしまった罪」を深く反省し、まず国や天皇制や民族の誇りと言った抽象的な存在を「目の前の人間より価値あるもの」とする考えを、諸悪の根源として廃棄できるかどうか己自身の胸に問うてほしい。
原子爆弾の悲惨さを広島の原爆記念館で痛いほど思い知らされた同じ人が、原子力発電所の再稼動には「日本経済には必要」と言って賛成する。5年経った今も福島の4基の発電施設では致死量の放射能が撒き散らされている事実を知っていて尚且つ、鹿児島の川内原子力発電所は再稼動させて「平気でいる日本人の頭の中」は、オバマ大統領のスピーチなど「ただのイベントでしかない」のだろう。ニュースで騒がれて精々3日、謝罪はいらないという日本人の姿勢に「全てを水に流す心の大きさ」が感じられるとか言った馬鹿コメントを間に受ける大衆がいる間は、核廃絶など不可能である。
原爆で死んだ人に謝らなければいけないのは、その命を身代わりに差し出して戦争を続けようとした「生き延びた日本人全員」であるはず。その日本人は「国を守ろうとした」。私は、はっきり申し上げる。国を愛する心が戦争を呼び込むのだ、いやそうじゃ無い、国を「自分の所有物と考える心」が戦争を呼び込むのである。北朝鮮も韓国も日本も、誰のものでも無い「人類共通の財産」である。そういう風に思えば、核爆弾など勿体無くてとても使えないのだ。
結局人類は、全体が一つになるしか生き延びることは出来ないだろう。そのとき日本らしさも消滅する。それぐらいの気持ち・覚悟がなければ、核廃絶なんか出来ないと思う。
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