たまに聴くと思わず引き込まれて、その美しさに心が洗われる名曲10選 クラシック編(2)
今回はコンチェルトの名盤を紹介する
(6)ブルッフ = バイオリンコンチェルト 第1番 ト短調 作品28 第2楽章
ロマンの香り横溢する名曲。バイオリンの持つ音色の多彩さと優美な音色の中に秘められた哀しみ、それらを余す事なく切なく表現しきった私の最も愛する名曲である。私はイタリアの名バイオリニスト、アッカルドのクルト・マズア=ライプチッヒゲバントハウス版を愛聴している。綿々と、永遠にも思わせる感情の吐露は、アッカルドの類い稀な美音と相まって聞くものを陶然とさせてくれる。ブルッフの特徴はメロディラインの情熱的で堂々とした、そして夢見るかのようなゆったりとした所にある。それはメンデルスゾーンの協奏曲に一見似ているようでちょっと違っている感覚である。メンデルスゾーンはブルッフに比べるとむしろ理知的ですらある。というかブルッフは、より一層作者の描く世界が曖昧で感情的になって、心の中をじっと覗いているようである。作者は聴くものをどこへ導くでもなくただ思いを吐露するだけである。これがロマン主義の本質であり、ブルッフの魅力でもある。つまり、道に迷って闇夜にあてもなく歩き続ける感覚に似ている。というわけで、私はストレスが溜まった夜にヘッドフォンをつけ大音量でこれを聞いてスッキリとすることにしている。ブルッフの最大の美点である「終わりがない」ところが私のお気に入りの理由である。
(7)モーツァルト ピアノコンチェルト 第15番 変ロ長調 K450 第2楽章
優雅なテーマと無限に広がる変奏が巧みに配された、まさにめくるめく官能の調べとでも言おうか、これぞモーツァルトのコンチェルトである。メロディは端正で変奏は限りなく美しい。私はミケランジェリの北ドイツ管弦楽団版を愛聴している。ミケランジェリの演奏は音が特に綺麗である。透き通っていて粒が揃っている、一音一音が宝石のように磨き抜かれいるかのようである。こういう硬質の音は案外モーツァルトの音楽にあっているように思えるのだが、柔らかくて優しい音のピアニストでモーツァルトが上手だというのは余り聞かない。イエネ・ヤンドーというピアニストが私のお気に入りだが、彼の15番も無駄な甘ったるさは皆無である。思うに、モーツァルトをカッコよく弾くにはリズムを正確に刻むのが一番良いと思う。モーツァルトは、男性ピアニストの方が似合う作曲家の一人である、と私は密かに思っているがどうであろうか。ピアノの演奏家はテクニックを売りにしている人も多いのだが、ことモーツァルトに限ってはテクニック云々は何の足しにもならない。綺麗に弾くというより「心を込めて」というほうがモーツァルトには相応しい。年を取るにつれて内容がどんどん重くなってきて、かえって旋律の美しさが増したようにも感じられる今日この頃である。モーツァルトの最高の曲の一つである(もちろん最高が何十曲もあるが)。
(8)ブラームス ピアノコンチェルト 第1番 ニ短調 作品15 第一楽章
ブラームスは、ゼルキン=セルのクリーブランド響版が好きだ。古くは学生時代に5インチのオープンリール式テープレコーダーで聴きまくった名曲で、ショパンの1・2番とともに「愛聴コンビ」である。ブラームスは交響曲も協奏曲も質の高い曲が多いが、中でもこの曲は「青春」という言葉がぴったり来る名曲である。ブラームスの苦悩と激しい情熱が横溢して、答えの見つからない苦しさがそのまま音になったような曲である。動きの激しいモチーフがぶつかり合って、これでもかという葛藤の中で静と動のせめぎ合いが美しいメロディを引き立てている。ちなみに第二番をバックハウスのカラヤン・ベルリンフィル版で聞いているが、こちらも録音が古いがおすすめである。ブラームスはテクニックも勿論大事だが、ピアニストは彼の「哀愁」を弾ききるだけの「溢れんばかりの情熱」がなくてはならない。ゼルキンは心の中にある「何かわからないもの」を和音に向けてぶつけるかのごとく演奏する。どこかで他のピアニストが「ゼルキンより速く弾くことは出来るが、彼より上手く弾くことは難しい」とかなんとか書いていたのを思い出した。ポリーニやギレリスなどに無い「一瞬の躊躇」が、ゼルキンにはあるのかもしれない。。それはブラームスの不可知なもの不確かなものへの躊躇と、相通じるものはないかと私は思っている。
(9)グリーグ ピアノコンチェルト イ短調 作品11 第一楽章
憂愁の漂う北国の雰囲気がよく出ていて、私の好きなロマンチックな曲の一つである。同じ系統の曲にシューマンやラフマニノフがあるが、私はグリーグのが一番好きである。グリークという作曲家はそれほどの人ではないが、たまに聞き直したい作品である。出だしの和音の連打はピアノコンチェルトのお決まりのようなものであるが、それに続く主題が泥臭くてホッとする。演奏は誰でもいいので私はナクソスのシューマンとのカップリング版で聞いている。曲の深みといったものは全然無いので、小気味良く爽やかに聞ければ満足という曲である。通しで聞く必要はない。重たい曲ばかり聞いていると、たまには息抜きに軽く爽やかなこういう曲も聞きたくなる。アルゲリッチなんかのバリバリの演奏で一度聞いてみたいと思っている。アルゲリッチで思い出したが、以前にチャイコフスキー・コンクールでオーケストラをバックに彼女が弾いているのを映像で見たが、女性とは思えない素晴らしい迫力でフィナーレの和音連打を弾ききっていた、ああいうのこそ「生」で聞けたら最高だろうなと思うのである。レコードもいいけど「コンサート」こそ音楽の原点であるといういい例だと思う。そういえばコンサートには久しく行ってない。今年の秋には「上野の東京文化会館小ホール」にでも行って、ピアノコンサートを聴いてみよう。四谷の紀尾井ホールなんか狙い目かも。
(10)ショパン ピアノコンチェルト 第1番 ホ短調 作品11 第一楽章
これこそコンチェルトの中のコンチェルトである。第1番と呼ばれているが実はこちらの方が第2番よりも後から作られている傑作だ、ま、皆さんご承知の事と思うが。私はワイセンベルグのシャルル・デュトワ(アルゲリッチの元旦那)版で聞いている。ワイセンベルグは冷たい冷たいと人から言われて気にしてるようだが、ポリーニもそう言えば完璧すぎて感情が無いなどと言われていた時があった。昔ポリーニがピアノをもリヒテルに習いに行った時に、彼から「君のように完璧ならもう教えてもらわなくてもいいんじゃない?」と、教えてもらえなかったそうだ。テクニックが完璧であればあるほど「やっかみ半分」で批判されるのである。しかしテクニックがあるだけでは、彼ほどの名演奏家には成れない。名作曲家といわれる人の作品は、まず自在に曲の細部にわたって弾くことが出来なければ、その後の表現などというものに「辿り着く」ことなどとてもできない相談なのだ。私もピアノを少しかじっていたのでそのへんの事情は良くわかる。思い通りに弾くだけでもピアノは難しいのだ。指が動かないのではなく「頭が動かない」のである。ま、どっちにしても動かないのであるが、全部の音符を指定通りの速度で「思い浮かべるだけ」でも、反射神経の鈍い我々一般人には「不可能な神業」なのだ。彼らピアニストは言うなれば「超人」である。ワイセンベルグは子供の頃、第2次世界大戦でドイツ軍に捕らえられ収容所に送られる時に、持っていたアコーディオンでシューベルトを弾いたところ、それを聞いたナチの兵隊が「感激して」トルコへ行く列車に乗せてくれて助かったという。生まれながらにして演奏家の素質があったのであろうか。その彼もニュースによれば82歳の生涯を閉じたらしい。また一人、私の好きな名ピアニストが亡くなってしまった。それだからと言うわけではないが、今日は久しぶりにワイセンベルグを聞きながら、彼を偲ぶことにしよう。
今回はコンチェルトの名盤を紹介する
(6)ブルッフ = バイオリンコンチェルト 第1番 ト短調 作品28 第2楽章
ロマンの香り横溢する名曲。バイオリンの持つ音色の多彩さと優美な音色の中に秘められた哀しみ、それらを余す事なく切なく表現しきった私の最も愛する名曲である。私はイタリアの名バイオリニスト、アッカルドのクルト・マズア=ライプチッヒゲバントハウス版を愛聴している。綿々と、永遠にも思わせる感情の吐露は、アッカルドの類い稀な美音と相まって聞くものを陶然とさせてくれる。ブルッフの特徴はメロディラインの情熱的で堂々とした、そして夢見るかのようなゆったりとした所にある。それはメンデルスゾーンの協奏曲に一見似ているようでちょっと違っている感覚である。メンデルスゾーンはブルッフに比べるとむしろ理知的ですらある。というかブルッフは、より一層作者の描く世界が曖昧で感情的になって、心の中をじっと覗いているようである。作者は聴くものをどこへ導くでもなくただ思いを吐露するだけである。これがロマン主義の本質であり、ブルッフの魅力でもある。つまり、道に迷って闇夜にあてもなく歩き続ける感覚に似ている。というわけで、私はストレスが溜まった夜にヘッドフォンをつけ大音量でこれを聞いてスッキリとすることにしている。ブルッフの最大の美点である「終わりがない」ところが私のお気に入りの理由である。
(7)モーツァルト ピアノコンチェルト 第15番 変ロ長調 K450 第2楽章
優雅なテーマと無限に広がる変奏が巧みに配された、まさにめくるめく官能の調べとでも言おうか、これぞモーツァルトのコンチェルトである。メロディは端正で変奏は限りなく美しい。私はミケランジェリの北ドイツ管弦楽団版を愛聴している。ミケランジェリの演奏は音が特に綺麗である。透き通っていて粒が揃っている、一音一音が宝石のように磨き抜かれいるかのようである。こういう硬質の音は案外モーツァルトの音楽にあっているように思えるのだが、柔らかくて優しい音のピアニストでモーツァルトが上手だというのは余り聞かない。イエネ・ヤンドーというピアニストが私のお気に入りだが、彼の15番も無駄な甘ったるさは皆無である。思うに、モーツァルトをカッコよく弾くにはリズムを正確に刻むのが一番良いと思う。モーツァルトは、男性ピアニストの方が似合う作曲家の一人である、と私は密かに思っているがどうであろうか。ピアノの演奏家はテクニックを売りにしている人も多いのだが、ことモーツァルトに限ってはテクニック云々は何の足しにもならない。綺麗に弾くというより「心を込めて」というほうがモーツァルトには相応しい。年を取るにつれて内容がどんどん重くなってきて、かえって旋律の美しさが増したようにも感じられる今日この頃である。モーツァルトの最高の曲の一つである(もちろん最高が何十曲もあるが)。
(8)ブラームス ピアノコンチェルト 第1番 ニ短調 作品15 第一楽章
ブラームスは、ゼルキン=セルのクリーブランド響版が好きだ。古くは学生時代に5インチのオープンリール式テープレコーダーで聴きまくった名曲で、ショパンの1・2番とともに「愛聴コンビ」である。ブラームスは交響曲も協奏曲も質の高い曲が多いが、中でもこの曲は「青春」という言葉がぴったり来る名曲である。ブラームスの苦悩と激しい情熱が横溢して、答えの見つからない苦しさがそのまま音になったような曲である。動きの激しいモチーフがぶつかり合って、これでもかという葛藤の中で静と動のせめぎ合いが美しいメロディを引き立てている。ちなみに第二番をバックハウスのカラヤン・ベルリンフィル版で聞いているが、こちらも録音が古いがおすすめである。ブラームスはテクニックも勿論大事だが、ピアニストは彼の「哀愁」を弾ききるだけの「溢れんばかりの情熱」がなくてはならない。ゼルキンは心の中にある「何かわからないもの」を和音に向けてぶつけるかのごとく演奏する。どこかで他のピアニストが「ゼルキンより速く弾くことは出来るが、彼より上手く弾くことは難しい」とかなんとか書いていたのを思い出した。ポリーニやギレリスなどに無い「一瞬の躊躇」が、ゼルキンにはあるのかもしれない。。それはブラームスの不可知なもの不確かなものへの躊躇と、相通じるものはないかと私は思っている。
(9)グリーグ ピアノコンチェルト イ短調 作品11 第一楽章
憂愁の漂う北国の雰囲気がよく出ていて、私の好きなロマンチックな曲の一つである。同じ系統の曲にシューマンやラフマニノフがあるが、私はグリーグのが一番好きである。グリークという作曲家はそれほどの人ではないが、たまに聞き直したい作品である。出だしの和音の連打はピアノコンチェルトのお決まりのようなものであるが、それに続く主題が泥臭くてホッとする。演奏は誰でもいいので私はナクソスのシューマンとのカップリング版で聞いている。曲の深みといったものは全然無いので、小気味良く爽やかに聞ければ満足という曲である。通しで聞く必要はない。重たい曲ばかり聞いていると、たまには息抜きに軽く爽やかなこういう曲も聞きたくなる。アルゲリッチなんかのバリバリの演奏で一度聞いてみたいと思っている。アルゲリッチで思い出したが、以前にチャイコフスキー・コンクールでオーケストラをバックに彼女が弾いているのを映像で見たが、女性とは思えない素晴らしい迫力でフィナーレの和音連打を弾ききっていた、ああいうのこそ「生」で聞けたら最高だろうなと思うのである。レコードもいいけど「コンサート」こそ音楽の原点であるといういい例だと思う。そういえばコンサートには久しく行ってない。今年の秋には「上野の東京文化会館小ホール」にでも行って、ピアノコンサートを聴いてみよう。四谷の紀尾井ホールなんか狙い目かも。
(10)ショパン ピアノコンチェルト 第1番 ホ短調 作品11 第一楽章
これこそコンチェルトの中のコンチェルトである。第1番と呼ばれているが実はこちらの方が第2番よりも後から作られている傑作だ、ま、皆さんご承知の事と思うが。私はワイセンベルグのシャルル・デュトワ(アルゲリッチの元旦那)版で聞いている。ワイセンベルグは冷たい冷たいと人から言われて気にしてるようだが、ポリーニもそう言えば完璧すぎて感情が無いなどと言われていた時があった。昔ポリーニがピアノをもリヒテルに習いに行った時に、彼から「君のように完璧ならもう教えてもらわなくてもいいんじゃない?」と、教えてもらえなかったそうだ。テクニックが完璧であればあるほど「やっかみ半分」で批判されるのである。しかしテクニックがあるだけでは、彼ほどの名演奏家には成れない。名作曲家といわれる人の作品は、まず自在に曲の細部にわたって弾くことが出来なければ、その後の表現などというものに「辿り着く」ことなどとてもできない相談なのだ。私もピアノを少しかじっていたのでそのへんの事情は良くわかる。思い通りに弾くだけでもピアノは難しいのだ。指が動かないのではなく「頭が動かない」のである。ま、どっちにしても動かないのであるが、全部の音符を指定通りの速度で「思い浮かべるだけ」でも、反射神経の鈍い我々一般人には「不可能な神業」なのだ。彼らピアニストは言うなれば「超人」である。ワイセンベルグは子供の頃、第2次世界大戦でドイツ軍に捕らえられ収容所に送られる時に、持っていたアコーディオンでシューベルトを弾いたところ、それを聞いたナチの兵隊が「感激して」トルコへ行く列車に乗せてくれて助かったという。生まれながらにして演奏家の素質があったのであろうか。その彼もニュースによれば82歳の生涯を閉じたらしい。また一人、私の好きな名ピアニストが亡くなってしまった。それだからと言うわけではないが、今日は久しぶりにワイセンベルグを聞きながら、彼を偲ぶことにしよう。
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