明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

人生の終わりにあたって、私がこれから気を付けようと思っていること(その3)有終の美

2022-09-14 18:12:40 | 今日の話題

3、嘘をつかないこと、そして、人に迷惑を掛けないで生きること

私は(その1)で煩悩を捨て去り、(その2)で他人を頼らないで暮らす道を選んだ。これらは自分自身だけで完結し、自分の欲望をコントロールすることで、心の平静を保とうという戒めだ。だが人間は、他人と関わり合いながら社会を作って生きていかなければいけない動物である。自分一人、人里離れた山奥に入ってひっそりと世捨て人のように暮すのなら、それでもいいかも知れない。しかしそれではわざわざ煩悩を捨て去る意味が無くなるではないか?。人として生まれ、愛する人と喜びを分かち合い、信頼する友人達と酒を酌み交わしてお喋りに興じようと思っているのなら、あと一つ、人との関係で最も大切なことが出来なければならない。

それが3つ目の「嘘をつかないこと、そして、他人に迷惑をかけないこと」である。

この2つを生涯全うすることが出来たら、もう私の人生、思い残すことは無いと言える。もし、そのように正直で、慎ましやかでユーモアに溢れた人生を過ごすことが出来たなら、私の生き方は「正しかった」と言えるだろう。小さなアパートに住み、日々の暮らしに贅沢は出来なくても、腹を抱えた笑いと、ささやかな喜びを分かち合える友がいるのなら満足である。

とにかく周囲の人と上手に付き合う秘訣は、
① 笑顔を絶やさず
② 迷惑を掛けず
③ 嘘をつかず正直に
④ お金にはキレイにして
⑤ 心を許した人以外は、程々に接する
である。

終わりよければ全て良し、だ。

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以上、3つの戒めを心に刻むに当たって、ひとまず私の過去の人生は「どんなだったのか」と振返ってみることにした。

若い頃、人生の選択肢はいっぱいあったが、実際にやれることは一つだけしかない。そして当然だが、どれを選ぶかは自分で決めるしかないのだ。この「当たり前の理屈」が私は分かっていなかったと反省している。凡庸だった私はこの時点でまず、ぼんやり時を無駄にしていて、将来何になるかという人生設計もなく、人よりも「考えが足りなかった」と思う。

私が高校生の時には「とにかく大学に入る」ということだけしか頭になかった。進路を決める時期は、まだ先である(と思い込んでいたのだ)。そして4年間が過ぎて大学を出る間際になっても、まだ私は「どうやって生活の糧を得るのか」決めてなかったのである(今思えば信じられないが、本当だった)。 私の家庭は公務員で、父親が働く姿を見たことは一度もなかった。とどのつまり、給料を貰って生活する、ということに心底疎かったのである。人は大学を出れば、黙って会社員になってお金を貰えると思っていた。良い時代である。ただ、私は本とか文学が好きだったので、「新潮社や白水社など」の出版社をいくつか受けたと記憶している。

そして当たり前だが、どちらもあっさりと落ちてしまった。その当時、就活などという言葉はなかったから、入社試験に対する準備も全然していなかったし、なんとも「呑気に構えていた」のである。それで暫くブラブラしていて3月も過ぎようとする頃に、ようやく小さな「時計卸売販売の会社」に就職することが出来た。志望する業種も考えてなく、会社の規模も良く調べもせずに「全く出鱈目な」選択だったように見えるが、正に「何の予備知識も無いまま」就職したのである。就職どうしようかと思って喫茶店で新聞の求人欄を見ていて「スイスの高級腕時計」という文字に文化的な香りを感じ、それで入社試験を受けたのだ。世間知らずの全くの馬鹿者である。

それまで私の親は私の就職先について「ただの一言も」尋ねてこなかったし、私もただ「決まった」とだけ報告したと記憶している。今思えばもう少し勉強して何処かの出版社に入っていたら、人生変わっていたろうとは思う。まあ、いまさら言っても仕方無いことだが・・・。

これは想像だが、父も母も、世の中で自分で金を稼ぐ方法というものについて、全くの「未知の分野」だったのだろうと私は思っている。父は公務員で、仕事をしていれば「お金は黙って振り込まれてきた」のである。少なくとも意識の上では、両親より私の方が「どこに行けばお金が貰えるか」は知っているだろうと思って、選択を私に任せてくれたのだろう。思えばもっと真剣に就職先を探すべきだった。勿論私は後悔はしてはいないし、もっと違ったより良い人生を送ることが出来た、とも思っていない。ただ、何をしようか決めていないうちに、働き始める時が来てしまったというだけである。よく言えば「流されるまま」の人生である。精神的にはまだまだっ子供だったということか。

人間、時には人生の岐路に当たって、間違った選択をしてしまう場合もあるかも知れない。しかしそれでも立ち止まって自分を見つめ直し、そこから新たに自分の好きな事を見つけだして、改めて「それに没頭出来れば」十分に楽しい人生を送ることが出来ると思う。もしそれほど上手くいかなくても、少なくとも「人生に飽きることはない」のじゃないか。確かに最初から好きな道に行っていれば、それはそれで効率的ではある。しかし「途中経過」はどうでも良い。「最後に好きな道」を見つけてそこに向かって努力していることが幸せなのだ。私は今、しみじみそう思っている。

結局私にとっての好きな道は、古代の日本や中国の古い歴史を訪ねて「ああ、そうだったんだ」と感動することである。歴史上の人物の考えていることや悩んでいることを想像し理解し、時に追体験して、目の前の多くの選択肢から一つの道を選んだ人々の人生に思いを馳せる。それが私にとっての「好きな道」である。こういう趣味を持った同好の士と、有る事無い事歴史を語り合って日々を過ごすことが出来れば、それはもう言うことない人生だと思っている。

そんないま、私もそろそろ終活を始める年に近付いてきた。出来れば健康で、そして認知症にもならずに死ぬまでこの道を歩いていければ、これ以上ない幸せだと思っている。そして死ぬときは悔いのない、迷いのない「澄んだ心」で死んでいきたいな。

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おまけ:3つの戒めを日々大人しく守っていけたら、その時は余暇を存分に楽しみ、「気の合う仲間」とゴルフなぞを思いっ切りプレーしてみたいものである。だが、体力が持つかどうか・・・(少しばっか、筋トレなんぞやったりして)


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