明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

柏の喫茶店を歩く

2018-06-15 15:35:30 | 今日の話題
コメダ珈琲店というのがグイグイ店舗数を伸ばしているとネットで読んだ。全国で店舗数はスターバックス・ドトールについで第三位だ(この記事は古い記事で、ダイヤモンドオンラインのこの記事は2017年5月の去年のもの)という。そう言えば、柏に新しく出来た複合施設に「コメダ珈琲」が入ったのも去年だったように記憶している。モディという東口の丸井を抜けたアーケードにあるビルである。私はよく1階の「カルディ」にコーヒーを買いに行くのだが、コメダ珈琲は一番奥の方で割と狭めのスペースで営業している。人は結構入っているみたいだが、すごい流行っているというほどでもないようだ。席がそれぞれ仕切ってあるので、ガラス張りの通路から覗くと余計に狭く見える。

このコメダ珈琲は名古屋発祥の全国チェーンで、コンセプトは「くつろぎ・おいしさ・サービス、そしてあたりまえであるがコーヒー」だという。今のドトールに代表される「お一人様用のすし詰めテーブルと、スマホと少しコーヒー」という、お昼休み・休憩用途以外何のメリットも無い「格安コーヒーショップ」とは一線を画す「正統派喫茶店」である。多くは郊外などの広いスペースに駐車場付きのゆったりした作りとなっていて、客席も間仕切りが付いていてパーソナルな空間を大事にしている感がじんわり伝わってくるのが売りだ。少なくともコメダに一歩足を踏み入れれば、柔らかい椅子に身体を沈めて時間のたつのも忘れてしまう、といった塩梅である。天井も高いから、ちょっとファミレスっぽいとも言える。

私は昔のルノワールが好きだったのだが、例えば今の御徒町駅前のビルに入っているルノワールとは全く別物で、優雅なレイアウトが自慢の「おもてなしルーム」だった記憶がある。当時は私はタバコを吸っていたので、フーっと吐き出した紫煙がゆらゆらと天井まで登っていくのをずーっと眺めているだけで、心が落ち着いて幸せに感じたものである。今週は何となく私の気持ちが妙に高揚して、不覚にもアマゾンで本を大量爆買いした。つまり何だか知らないが、急に本が読みたくて仕方ない状態になったのだ。もちろん花粉症のように「一時的」なものであることはわかっている。が、年に一度くらいは「このように燃え立つような読書欲」にうなされるのである。

で、月曜日に「三国志演義全4巻」を買ったのをかわきりにして、水曜日に「紀貫之(ちくま学芸文庫)」を柏高島屋のくまきり書店で購入し、昨日はついにAmazonで「兼好法師(中公新書)」・「壬申の乱の舞台を歩く(梓書院)」・「枕草子のたくらみ(朝日選書)」・「九条兼実(戎光祥出版)」の4冊を一気に買いきった。どうしてなのかAmazonを一旦開けば買いたい衝動が嵐のように心を占領して、とうとう堪らずにポチッと買ってしまうのである。この誘惑にはどうしても勝てない。それで都合13000円ちょいである。先週にも「脳の誕生(ちくま新書)」を買っているので、梅雨の季節には読書といった自然の摂理なのかも知れない(と、無理に納得した)。余りに沢山の本を一気に買った為にテニスプレーヤーのよく陥る「燃え尽き症候群」になってしまったようで、せっかく買った本があまり読めていない。私が本を買うことで満たされる欲望は、読むことで知識を得る喜びではなく、所有した段階でシュルシュルと収束してしまう種類の「放出型」みたいである。なんとも情けない。

今は毎日の日課として三国志演義を1回分読んだら紀貫之を読めるところまで読む、というスタイルで頑張っている。前に読んだデービッド・アトキンソンの「新・生産性立国論」と比べると、圧倒的に読むスピードが遅い。本を読むスピードも老化するとすれば、相当私も劣化してるなと苦笑した。朝はゆっくりと起きて食事とトイレを済ませるまでが第一の仕事。お昼までテレビのゴルフ中継かワイドショーを見てから、火曜と金曜にゴルフの練習に行く、を主なデイリーワークとしている。月木は会社であるから、水曜日と土曜日と日曜日がオープンデーである。これを読書に充てると、上手い具合に一週間がつながって気持ちが良い。だが家にずっといて読書とテレビ三昧では、身体がどんどん退化してしまう。それで外出して静かな喫茶店にでも行ければ、運動にもなるし大変に具合がよろしいわけである。

で、柏のコメダ珈琲はというと、ショッピングモールに出店している喫茶店に有りがちな「雑多な客層」でごった返している印象で、とても「静かで落ち着いた」喫茶店とは言い難い。やはり喫茶店には「窓から景色が見える」ことが条件だと気がついた。別に素晴らしい絶景などでなくても外が見えるというのは、椅子に座って読書という知的作業をしている人間には「束の間の休憩」として必須である。出来ればマロニエの並木道などがある瀟洒な町のこじんまりとした喫茶店で、ぼんやり外の行き交う人を眺めて過ぎ行く時間を楽しむ、というのが私の理想なんである。ひんやりした林の中のロッジ風喫茶店で鳥の声なぞを遠くに聞きながら、というのもいいし、滔々と流れる大河の辺りに繋がれたボート乗り場に面した喫茶店で川の流れに柿本人麻呂の名歌を思う、というのもいい。ユーミンのように海べりの喫茶店から遠くを走る汽船のマストを望みながら遥かな過去に涙する、なんてのもロマンチックではないか。景色が見えないということは、想像力も生まれてこないということである。家の六畳間に座ってテレビを見ているだけでは、心が栄養を取れずに死んでしまう。

やっぱり私は遠くの夢を追いかける人生が好きである。夢を現実の物にするために人は沢山の努力をする。スポーツでも経済でも政治でも愛でも、何かを獲得するために人は努力するのであるが、それは夢が目の前に見えているからだ。それに比べて私の場合は、夢が「遠くにあって見えない」のである。室生犀星の詩に「故郷は遠くに有りて思うもの」というのがあった。それを犀星は、金沢の犀川にかかる橋の欄干にもたれて詠んだという(いい加減な記憶なので、気になる方はネットで調べといてくださいね)。「遠くに有りて」と歌うためには例え犀星の才能があったとしても、「犀川という景色」が必要だったのであろう。私が夢を探し続けるためには、心打たれる静かな景色が必要なのである。

そういう意味では、柏のコメダ珈琲は失格である。ああ、どこかに私好みの喫茶店はないだろうか。出来れば奈良に引っ越すまでの間だけでも暇を潰せる寂れた喫茶店が、柏近辺で見つけられれば幸いなのだが。

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