明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

読書の勧め(4)水上勉の文体について

2020-03-18 20:34:58 | 芸術・読書・外国語
1、「京都古寺」水上勉
水上勉は初めて読む作家である。古本屋で何の気無しに手に取りパラパラとめくってみると、何故か私の文体に似ているような錯覚に陥った(ちょっと自慢)。水上勉のほうが、全然格上の文章の使い手である。それがすんなりと心に吸い取られるように入ってくるのは、水上勉の書く文章が私の拙い文章と同じ香りがするからではないだろうか。勿論、水上のほうが数段美しく気品に満ちた感情豊かな文章を書くし、物事を正確に描く技術も一流である。何より句読点の打ち方が素晴らしいと感じた。文章は、句読点一つで、俗にも聖になる。私は一行一行を味わいながら、丹念に読みかつ後戻りしたりして、反芻する如くに珠玉の文章を読みふけった。内容を問うならば目崎徳衛や堀田善衛の方が優れているように思うが、その香り高い風雅を語るならば水上勉を筆頭に挙げなければならない。だが、この本を読み通した時、私はちょっと疑問を感じた。確かに彼の文章は、精緻な工芸品を見る如くに磨き込まれている。しかし美しい文章で語られる寺々の描写の根底にある感情は、然程の感銘を与えるものでは無いように見える。この京都古寺という本は言わば「旅の思い出」的な旅行文だ。ならばそれなりの文章をサラリと書いたほうが、むしろ読者には感情移入がしやすいだろう。文章に内容が追いついてないのだ。美文家の陥りやすい失敗例である。それを思うにつけても、私の愛蔵本の「堀内民一の大和万葉旅行」と「町田光一の大和古寺巡歴」の2つの紀行本は、二人の心の奥底から「じんわり滲み出る」大和への愛情が、例えようもなく美しく響く名著である。私は水上勉の「書く技術」よりは、2人の淡々とした「心情の吐露」を愛する。

2、「平安の春」角田文衛
平安時代の出来事を短編風に描いた本で、ふらりと入った本屋で何の気無しに買ってしまった。私は本屋を見ると入りたくなり、入ってしまえば「何か買わずにはいられない病気持ち」なのだ。まだ読み始めたばかりで書評するまでには至らないが、最近になく実に面白いので少々サワリを紹介してみたい。例えば、藤原師輔の遺誡というのがあって、その内容は

1、言葉を慎むこと
2、年少の時はまず読書、つぎに習字に励むこと
3、仏教に帰依すること
4、毎日親に謁すべきこと
5、人に対しては恭敬の態度で接すること
6、人には、身中家内のことを語ってはならぬこと
7、衣冠、車馬は分に応じ、過差を慎むこと
8、公事に精勤すること
9、忠孝の誠を尽くすこと
10、怒りの気持ちを顔に出さぬこと
11、所得の十分の一を施物に充てること
と懇切丁寧に書いてある。

何一つ個人的な才能や栄達を得るためにするべきことは書いて無くて、人として社会の中で有用にされ、きちんと生活し家系を守り伝えていくかに焦点を当てて諭している。権力の頂点に君臨した藤原北家の氏の長者にして、その権力に浮かれること無くこの腰の低さ、見事だと感心した。これは現代にも通用する生き方の見本であり、藤原師輔という人となりの一端を垣間見る思いがした。こういうエピソードをサラッと書けるのが本物の文筆家と言うのである。その意味で角田文衛は一流であろう。比較してもしょうがないが、対比列伝のプルタルコスとか年代記のタキトゥスやローマ帝国衰亡史のギボン、あるいは史記の司馬遷や漢書の班固、三国志の陳寿等といった、大歴史家に連なる流れの一人である。事実を淡々と書いて余す所無く人物像を描き切る表現力は、角田文衛の実力である。この他にも「ほぉーっ」とするエピソードが色々あって、楽しめる本に仕上がっているので興味があればお勧めである。中でも院政の権化と言われた「白河院から後鳥羽天皇と保元平治の乱」のくだりは微に入り細に渡って事実を拾っていて、人物を見ても面白いし全体像を掴んでみるのも楽しい。

3、「西行」目崎徳衛
私の大好きな歌人「西行」の生涯を追った伝記本である。数々の名歌を残した彼だが、その生涯も数奇なものだったらしい。将来を約束された北面の武士という顕職にありながら、突如として社会的栄達を捨て家族を捨てて仏道に走ったのは何故なのか?。物語は西行の心の中に分け入るように始まっていく。勿論、西行遁世の真の動機は誰にも分からないのだが、事実を丹念に追っていく中で「次第に西行像が明らかになって」行くという趣向だ。私はこういう「事実に基づく推論」が好きなのである。目崎徳衛はその細部に渡る博学な知識を縦横無尽に活用して、よくある著者の妙な理論を押し付けること無く、読者が自ら「答えを導く」ように書き進めてくれるのだ。だが、彼の本は「事実を並べるだけの本」ではない。以前、「漂白・日本思想史の底流」という本を苦労しながら読んだことがある。その時はまだ学生時代だったので「十分理解出来なかった」のだが若いなりに、彼の「孤高の精神風土」というものに触れた気がしたものである。平明な事実の羅列の奥には、深い思想の地平が広がっている筈なのだ。サッと一読して本棚にしまい込み、また何かの時に引っ張り出して再度読み直し、何かを感じる、そういう本である。今回読んでみて分かったことだが、西行という人は「見たこと感じたことを、技巧を弄せずに、そのままに謳った人」であるということだ。思った通りの歌であるから、なおさら「西行という人物」に魅力を感じるのだ。畢竟、芸術は「技術ではなくて人なんだなぁ」、と分かった瞬間である。勿論技術は大事だ。だが技術を云々している間は「真の芸術家」とは言えない。技術を超えて作品に作家の心が表れ出た時に初めて、「心打たれる」作品が生まれる。この本も私の愛読書として「また読み返す」ときもある筈だ。それまでしばらく本棚に眠っていて貰おうかなと思っている。

4、「プロカウンセラーの聞く技術」東山紘久
少し前に長文の読後感想文を書いたが、結論は「その人の心の奥底に入り込むこと」じゃないかな、と改めて気がついた。よく言われることだが「相手の立場・気持になって考える」というのがある。相手の言動をどうこう言う前に、一度相手の側に立って物事を見てみる行動だ。これは一見同じ事を言っているようだが、「相手の立場になって」というのと「相手の心の奥底に入り込む」のとは、少し違う。相手の立場に立って考える主体は「あくまで私」なのに対して、相手の心の奥底に入る方は「入る時点で私じゃ無くなって」いる。つまり私という視点を一度消して、「相手の視点そのもので物事を見る」ことである。そう考えると女性がよく使う「分かるぅ〜」という言い回しも、自分が消えた「自己同一化現象」だと見れば分かりやすい。男性には自分が消えるという現象は「もともと持ち合わせていない」ために、努力して「自分を消す」プロセスが必要なのだろう。男性は対象をあくまで「自分と対峙する対象」としてしか考えられない存在なのだ。女性はもともと自分が無いから、対象を無限に共有出来る。これは現時点で私の理解するところの男性・女性の差である。その垣根を飛び越えて相手の思考の内部に入り込む技術、それがカウンセリングの技術なのだ。他人を理解するということは、例え短い時間であっても「他人の人生を生きる」ことではないだろうか。これを敷衍すれば、私が歴史を学んでいる理由も、そこにある。例えば本能寺で明智軍に囲まれた時の織田信長の心に入り込み、「是非に及ばず」と呟いてみたとしよう。普通は彼の心の動きを「あれこれ想像して、何とか理屈をつけて読み解こうとする」であろう。あくまで思考の対象として、説明するのだ。だが本来のカウンセリングの技術を駆使すれば、「織田信長になり切って、戦い破れ、万策尽きた諦めの境地に同化」して初めて、信長の気持ちが「分かるぅ〜!」のである。同化するのには、説明はいらないのだ。

以上、読後感を書き連ねた。しばらく柔らかい本が続いたので、次回は「王道の歴史物」にチャレンジしたい。もし良い本に巡り合えば、今一番興味がある「文武天皇の謎」あたりを読破してみたい。

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