明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

奈良移住計画2

2017-11-23 18:00:00 | 歴史・旅行
奈良に住むという念願の目標が近づいているが、実は最近だいぶ揺らいでいる。それは京都に住むという選択肢もあるかなと思うようになったからである。

毎日テレビで紹介される京都観光案内をつらつら見ていると、京都に住むのもいいな、と思ってしまう。京都はアトラクション満載の美術館兼テーマパークである。どこを歩いても日本人なら楽しめる「景色とグルメと物語」が用意されている。京都は寺の町だというが、寺もいっぱいある「見処の一つ」に過ぎない。京都の歴史を「平安文化」と考える人が多いが、実は京都文化は「江戸の文化」なのである。応仁の乱で丸焼けになって新しく建て直した京都の町並みは、秀吉の時に大いに整備されて幕末・明治に今の形に発展し、天皇が東京へ移ったことで「観光で生きていく」ことを選択した。それが功を奏して言わば「政治の中心から外れたことで、古い文化をピュアーな形で残す」ことに成功したのである。元より観光名所が多い上に、人を呼ぶテクニックが高度に発達した京都は、お土産も含めて「生活のすべてが歴史を体験する」町である。例えば「その昔、嵯峨天皇が・・・」というフレーズが、何の違和感もなく出てきてその時の情景を実感できる町は、京都以外では「奈良があるだけ」である。しかもそれが「そこらじゅうに、犬も歩けばと言うくらいある」のだ。住むのに飽きない町こそ京都である。

一方、奈良はどうかと言うと、最近の古代史研究の成果で「奈良の歴史が大きく変わってしまった」ので、前ほど歴史的な魅力は無くなってきたのは事実である。例えば大化の改新があったとされる飛鳥板葺宮は、九州倭国の支配から地方豪族である近畿天皇家の政権を取り戻したのではなく、むしろ九州倭国内の権力争いがあった場所、と考えるようになってきた。それはそれで歴史の生々しい爪痕を示してはいるのだが、スケールが小さくなって九州倭国の比重がとてつもなく大きくなってしまったのである。歴史は九州倭国を中心に展開している。奈良は「歴史の一部に過ぎなくなって」いるのだ。もちろん風物や土地の名前から呼び起こされる過去の記憶は、古代に限っては「京都と比較にならないほど豊穣」である。奈良は人工的でない、自然の魅力を「和歌によって再確認」することが出来る稀有の場所ではないだろうか。「大和路」と言われる美しい自然と点々と残された古代道は、歩いてこそ味わえる奈良ではの魅力である。

奈良と京都、どっちにするか迷っていたが、ようやく決着が付いた。奈良に4年すんで、京都に4年住む。見事な決断だ!、と言うが馬鹿言っちゃいけない。最初っからそうすればいいのだ、なにを下らないことを言ってるのか、とお叱りを戴きそうだがしかしこれは、私の人生のアイデンティティーの問題である。天智大王と天武天皇がどういう人だったのかを突き止めるのが私の生涯のテーマである以上、奈良を離れるわけにはいかないのだ。観光は単なる趣味である、ライフワークより優先させるわけにはいかない。だが歴史を研究するのであれば「東京でもできる」じゃないかと言われると、「そうなんだけど」と言わざるを得ない。やはり風物を愛でながら歴史を思うという生活に、憧れているのである。しかし京都はその風物が「直接的過ぎる」のである。微かなベールに包まれた景色の「その向こうに」見える何かを、私は求めているのかも知れない。それが古代史という悠久のロマンに相応しい姿勢である、そう思ったのである。

結局は、京都のミーハー的な観光都市に「ちょっと反発している」のだろう。京都はいくら歴史的な物語を探しても、当然のことだが「嵯峨天皇くらいまでにしか遡らない」のである。自然も歴史も「白黒はっきり」している世界で、新たな発見も謎解きのスリルもあったものじゃない。しかし生活の一つ一つを考えれば、京都に住んだほうが便利だし飽きないのは確かだ。奈良は「することがない」のである。あ~、悩むなぁ~。

これ以上お前の下らない悩みに付き合っている暇はない、こんな長話を読まされた読者の無意味な時間をどうしてくれるんだ!と言われれば、「大変申し訳御座いませんでした」と言うしかない。でも悩むなぁ~。京都に住んで奈良に時々遊びに出掛けるか、奈良に住んで風物を肌で感じながら時々京都に行くか、と考えれば、結局は奈良に住むことを選択しそうである。どうせ京都に住んでも知り合いは出来そうもないし、私はつまるところ「京都人には成れない」からである。勿論、奈良人にも成れないじゃないかと言われそうだが実は、「奈良人というのはいない」のではないだろうか。奈良に行けば住んでいる人はいるのだが、それは「現在の奈良県に住んでいる人」であって、何かの特性で奈良人と言われているわけではない。奈良を訪れ、奈良に生活するすべての人は、結局は「永遠の旅人」に成らざるを得ないのだ。私もこの永遠の旅人という言葉に惹かれる一人である。だが実際は食事もするし、テレビも見るし、人混みを求めてクリスマスイブに虚しく雑踏を彷徨うこともある。永遠の旅人でずっと居られるわけではないのだ、そこが悩ましい。

この問題は70歳になって年金生活が本格化し、奈良か京都に引っ越しする時点まで悩むことになると思っている。まあ暇だから悩もうとどうしようと「傍目にはどうでもいいこと」には違いない。せっかく読んでくれる皆様には申し訳ないが、このブログの特徴でもある「意味のないこと」をグダグダと書き連ねるスタイルが最も顕著に前面に現れたもの、と言えるようである。やっぱ、奈良にしようかな~。

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