断章、特に経済的なテーマ

暇つぶしに、徒然思うこと。
あと、書き癖をつけようということで。
とりあえず、日銀で公表されている資料を題材に。

しばらくぶりなので。。。。

2018-06-10 18:30:45 | MMT & SFC
御無沙汰である。。。。

ちとね、マジで仕事が忙しくなってきてしまって。。。
といっても、他の人と比べて、という意味ではない。
多分普通の人から見たら、
まだまだ何やってんだ、ぐらいのちんたらぶりであろう。
が、おいらにとっては大変である。
ツイッターでパラパラと
備忘のためリツをするのが
精いっぱいというところではあるが、
備忘のためのリツをしたツイを
読み直す、ということはあまり(ほとんど)無い。。。。


まあ、そんなわけで
なかなかブログ更新もままならない。
本当なら、今年はリーマンショックから
10年ということで
MMTer(といったって、レイとティモワーニュが
中心だが)による
サブプライムローン問題の分析というのか
解釈というものに
集中的に取り組もうと思っていたのだが、
とてもではないがやってられないことになった。
同時にJGPについてもパラパラ進めるつもりでいたのが、
ここにきて何故か
海外でJGPに関するレポートやワーキングペーパーが
まとまって発表やら出版やらされてしまい、
サーベイすらできない状況。うええええ。。。。。

と、嘆いていても仕方ないので、
ええと、と思って、
そうだ、先日読んだグレーバーの『負債論』について、
アマゾンのレヴュー欄に書いたことを
もう少し突っ込んで書いてみたら
ま、多少は興味を持ってもらえるかな、と
思いついた次第。
まあ、いい加減といえばいい加減な話で恐縮だが、
いつものことだ。

さて、グレーバーの件の書物に関して
最終的に言いたいことは
すでにアマゾンのレヴューに書いた通りであるが
おいらとしてはもう一つ別の論点に
興味をひかれた――といったって
二つの異なった論点がある、というわけではなく、
ひとつの問題意識の中で
下位課題とでもいうのかね。
要は、ヨーロッパ近代というものの性質である。

グレーバーに依るなら、
負債には二つの側面がある。
ひとつは「オブリガート」という側面、
今一つは「オブリゲーション」である。

人間は結局、
他者に依存して生存するしかない。
生れ落ちてから、育ての親(生みの親と同一人物で
あるかどうかはどうでもよい)や周辺の
年長者たちの助けなしに
生き続けることができる人間は極めてまれで
多くの幸運がなければ
普通は生き延びることができない。
そうしてすべての個人はその先行者に多くの
恩義(負債)を負っているのだが、
だが、とりわけ過去の時代においては
この負債を、借りている相手に返済することは
不可能だった。そうではなく、
この負債は、次の世代を自分たちが
育てることで継承されてゆく。負債の義務は
年老いた先行者たちを扶養するという形以上に
新しい世代を育てる、という形で
果たされる。
そうすることで
社会は世代を経て存続してゆく。
その意味で負債は受け継がれてゆかなければならないのであり
返済不可能なのである。

ところが
これが金銭の貸し借りとなると
貸す側と借りる側の義務と権利が明確となる。
借りた側は貸した相手当人に返済しなければならない。
それができなければ
借りた人物は貸した人物の債務奴隷にならなければならない。
この「債務奴隷」には様々な
形態がある。実際には債務奴隷になったからと言って
常に権利が一切なくなるわけでもなければ
常に人間性を否定されるというわけでもない。
地域・時代によっては
債権者である債務奴隷の保有者は
債務者である奴隷を保護しなければならないことも
あった。実は
債務者=債務奴隷が、今日「奴隷」という言葉で
イメージされるような権利を全く剥奪され
債権者がその生死与奪権を
思うがままにできるようになるには
債務/債権の生成とは別の
歴史的背景がある。

いずれにせよ、
金銭的な債務債権契約は
本来返済できないはずの特定個人(債権者)に対する債務の返済を
義務化する物であり、
地域社会の共同性を解体に導くものである。
それ故、多くの社会で金銭の貸し借り自体が
否定されたが、それ以上に世界中で
非難され、禁止されたのが
金利の徴収であった。
金利が存在すると
債権者の権利は、単に債権を持っているというだけの理由で
拡大する。債務者の義務は、単に債務を返済できていない
というだけの理由で大きくなってゆく。
こうした貨幣利息の徴収は
世界中、至る地域で禁止されていたのだが
だが実際にはほとんどの地域で
この禁止が守られることは無かった。
問題は、この禁止の戒律がどのような論理で
破られたか、である。

このような禁止が守られなかったこと自体は
世界中で共通していた。
ところがこうした禁止は常に例外が認められ、
そして実際、金利は常に徴収されていた。
イスラム教では現在でも有名な
イスラム金融が発展したが、
ここでも金利は実際には徴収されている。

問題は、ヨーロッパ、キリスト教圏における
金利是認の在り方である。

キリスト教圏においては
金利は当初は返済の遅れに伴う遺失利益の補てんという形で
徐々に認められたという。
しかし、金利を徴収することは悪とされていたため、
なまじっか下手に債権者や債務者になると
どのような不幸が降りかかってくるか
分かったものではなかった。
キリスト教徒が金利付きの金銭の貸し借りを認めるのは
基本的には異教徒に対してであった。
異教徒、この場合、ユダヤ人に対しては
金利を取ることが認められていたし
逆にユダヤ人から借りるときには
金利を支払わざるを得なかった。
人間に有利子で金銭を貸し借りすることは
認められていなかったわけだから、
これはつまりユダヤ人とは人間以下の存在である、
ということである。

ここで債務と社会(共同性)との間の
緊張関係が、ある意味で頂点に達する。
一方において
有利子負債を負う、ということは
その社会から他者として排除されることを意味する。
そして債務を、金利付きで支払うということは
その社会への復帰を意味することになる。

グレーバーはここに近代社会の二つの側面を
帰着させる。
禁忌されていた有利子負債が許容されるとき
一方で個人が社会の、古い共同体的紐帯から
開放される。
諸個人は債務を負うことで
個別的な義務を他者に負い、
その意味で債務奴隷になる。しかし
その債務を金利付きで返済するとき、
社会に復帰する。債務奴隷になりたくなければ
常に決済を現金で行わなければならない。
決済を現金で行っている限り
本人は社会に何事も負っていないという擬制を、
社会的紐帯から解き放たれた自由な個人である、という擬制を
演じることができる。
労働により、あるいは投資により、あるいは地代により
貨幣を手にするということは
社会に貸しを創ることであり、社会の債権者に
なるということだ。
そして商品を手にするときこの貨幣を支払うことで
社会には何も負うこともない
自立した個人として
社会に関わることができるようになる。
もはや彼/彼女は社会に
返済不可能な、永続的に繰り越される義務を負う
存在として社会に関わるのではなく、
社会から自立した、社会に何も義務を負わない
自由な個人として表象されることになる。
これが、グレーバーの言う「スミスの夢想した」
社会である。

他方で、同時に、負債を負った個人は
社会に復帰するためには
いかなる手段を使ってでも
債務を返済しなければならない。
債務を負い続ける、ということは
社会から切り離された債務奴隷になることを
意味する。ここでは社会の中で認められた
いかなる権利も認められない。
生死与奪は、完全に債権者の手の内にある。

これが、一方では個人の権利の尊厳を
高らかに歌い上げた近代社会が
同時に植民地で、過去のいかなる帝国より
非人道的にふるまうことができた理由である。
アメリカを支配したコンキエスタドール達は
ヨーロッパで様々な資本家たちの資金を
負ってアメリカに流れ着いた連中であった。
彼らは植民地の現地人たちに
過酷な要求をし、
それを満たせない人々を
ためらうことなく殺していった。
それはヨーロッパ人の聖職者たちから見ても
許しがたい行いであった。
それにもかかわらずそうした行為が合法的に認められたのは
植民地の現地人たちに
「負債」を負わせる、という擬制を
作り出すことができたからである。
コンキエスタドール達は
契約書に書かれている文字もわからない人たちに
意味のないサインをさせ(偽造し)、
彼らを債務者の立場に追いやった。
そうすることで
彼らを人間以下の存在にし
非人道的な取り扱いを正当化した。

現地住民たちは債務奴隷として
主に鉱山で酷使されることとなった
入植者たちが鉱山開発によって入手した
金銀といった貴金属は、しかし
ヨーロッパに流れ着き、そこにとどまったわけではない。
金銀が南米からヨーロッパに流入した結果
ヨーロッパでインフレが発生した、という俗説は
ここでは退けられる。
何故ならラテンアメリカから流入した
主として銀は、ほぼすべてインドに流れ
金はすべて中国に流出していったからである。
当時の世界貿易によって
ヨーロッパは中国やインドに多大な債務を負った。
ところがヨーロッパから中国やインドに
輸出できる作物はなかった。
そのため、ヨーロッパ諸国は、債務の償還を可能にする
唯一の輸出品として
南米から獲得した金銀を輸出するしかなかった。
とりわけ中国では
安定したモンゴル王朝の時代の紙幣制度から
不安定な明王朝へと移行した結果、
皇帝の発行する紙幣は通用しなくなり
まあ、MMT的な表現をするなら
担保付の通貨である金貨が必要となった。
ところが国内に十分な金銀鉱山の無かった明王朝は
ヨーロッパから輸入した金を使った通貨を
発行せざるを得なかった。
そのため、中国王朝は
大量の金を必要とし
それを供給したのがヨーロッパの
対中債務であった。
南米で金山銀山が開発された理由は
そうしたところにあったのであり、
ヨーロッパのインフレも
決して南米から流入した金や銀が
貨幣数量説的なプロセスを通じて
インフレをもたらしたものではない。

こうして南米で開発された金銀山の
商品の需要先は充分であったが
過去のいかなる帝国にもまして
コンキエスタドール達が現地住民を
酷使した理由は
当のコンキエスタドール達自身が
債務者だったからである。
彼らは債務者として
ヨーロッパ社会に復帰するためには
債務と金利とを支払わなければならなかった。
社会を永続的に守るための
「オブリガート」は
植民地地域の住民を
殺傷可能だ奴隷として扱い
そうした開発を通じて
返済するべき
「オブリゲーション」へと転化する。
(オブリガート、オブリゲーションという言葉は
勿論、現代のポルトガル語、英語であって、
歴史的な前後関係があるわけではないし、
グレーバーもそんなことは言っていない。)
もともとこの二つは
忍者武芸帳の
無風のような存在であった。
カムイ伝において
無風は
夢屋と赤目という二つの存在に分岐する。
最後に夢屋は赤目を撃つ。
なすがままに撃たれた赤目に
夢屋は
「嘘だ、あんたはよけることができたはずだ。
わざと撃たれたんだ」と。
それに対して赤目は
「試したのだ。お前が本当に俺のことを
撃つのかどうか。もし撃つのなら
我々の関係はそれまでのことだったということだ」
と答える。
最後に赤目を送り出した夢屋は、涙を拭きながらいう。
「弱いやつは奴は死ね。
俺は絶対に死なない。」
金銭によって新しい殺し合いの無い社会を作ることが
出来る、と考えた無風は
夢を託した子供たちが自滅したのを見て
自ら命を絶つが、
夢屋はそれほど弱い存在ではない。
赤目(新しい社会の理想)を殺してでも(それは望んだことではなかったとはいえ)
もはや資本の再生産を止めることは
出来ないのである。(そうして捨て去られた
赤目の死体は、たまたま近くの
今後の闘争の主体を担うであろう直接生産者の
傍らを流れる。そしてその漁民もまた
赤目の、プチブル博愛主義者の死体を「死んだ犬」のように
扱うわけだねえ。闘争は、次の時代へと
繰り越されるわけだねえ。こういう漫画が描けるというのも、
いい時代だったねえ。。)

忍者武芸帳では
無風という存在によって曖昧にしか
表象されることのなかった
資本制と民主主義(人権意識)の矛盾した関係は
カムイ伝では
無風と赤目と分けて描かれることによって
明確にされたが、逆にその
根源的な同一性は曖昧なものになってしまった。
それは、全く相反するもののようでいて
根っこの部分で全く同一のものなのである。
グレーバーは
負債というものの矛盾した性格の根源的同一性を
鮮やかに描き出した。
それは

社会を継続的に存続させるためのものである。
いかなる個人も社会に債務を負わずに存続することはない。
そしてこの債務は
誰か特定の個人に対して返済することによってではなく
後の世代に受け継がれることによってのみ
償還される。債務は社会を存続させるための
カギであり、これなくして社会は継続しえない。
債務は償還し得ることものではなく
永久に繰り越され、受け継がれることを通じて
社会を再生産する。

ところが同時に
負債とは債務者を債権者の奴隷にするものである。
債務者が債権者に個人的におった債務は
社会を通じて永遠に繰り越されるどころか
債務者を社会から切り離し
社会を解体するものである。

だから社会はこの両者の緊張関係の上に
存続しているといってよい。
さらに問題になるのは
これが金利を生み出すときである。
債務者は常に金利を要求する。
金利が認められてしまえば
債務者は、単に債務を負っているという事実だけで
その債務が自動的に膨らんでゆく。
そうして債務奴隷の状態が
永久に続くことになれば
社会の存続が危機にさらされるだろう。
だから金利はほとんどの社会で禁止されてきた。
ところが常にこの禁止は
破られた。
その破り方が、単に負債の価値が増える、というだけのことであれば
それほど大きな社会的悲劇を生み出すことはなかったかもしれない。
ところがヨーロッパにおけるように、
異教徒であれば金利を取っていい、
人間でなければ金利を取っていい、
となると、今度は逆に
債務者を異教徒として、人間以下の存在として
扱うことが許容される(強制される)ことになる。
こうした社会では
逆に負債とは、それがある限り社会から離れ
それが償還されるときには社会に復帰が可能なものとなり、
そして常に負債を負い、それを返済することができる
ことによって
常に社会から切り離された独立した近代的自我の表象が
可能になり、スミスの夢想した社会が
成立することになるのだが、
同時に他者に常に形式的な債務を負わせることで
奴隷として扱い、生死与奪権をも握ることを
可能にせしめることとなった。

これらは矛盾する社会的な表象は
全て負債という関係が生み出したものである。
もちろん、負債それ自体には
このようなものを生み出す力があるわけではない。
負債とは、原始的に言えば
ただ人間という存在が
単独では生存し続けることができない、ということの
裏返しでしかない。
ところが負債が金銭的契約関係として
形式を整えたことによって、とりわけ
有利子負債が「異教徒」に対する関係として許容されたことによって
今日に至るまで継続し続ける
数多くの問題を引き起こしている。
そしてそれは今なお、継続的に
再生産されている。

こう項整理してゆくと
グレーバーのMMTerやコンバンシオン派に対するいらだちというのも
分からないでもない。
MMTerが「実存的負債」といったとき
この実存的個人の存在、それ自体が
近代的負債の産物である、というのがグレーバーの
着眼点なのであろう。いわば
負債は個人(近代的自我)に先行する、
というわけだ。

グレーバーの議論が近代的個人の一側面だけを
極端に強調していることは
明らかだろう。おそらくそれ故、グレーバー自身も
本書において
近代的個人と負債の関係を、そう繰り返しは
強調していない。
グレーバーにとっても自信がないか、
あるいは、それほど積極的に触れたくない側面なのかもしれない。
しかし、グレーバーのMMT/レギュラシオン/コンバンシオン派批判は
この部分を無視しては
あまり説得力がない。
この点が重要だからこそ
スミスの夢想とMMT/レギュラシオン/コンバンシオンの議論を
「コインの両面」と位置付けることができるのである。

しかしここで、おいらなどは再び頭を抱えてしまうのである。
アマゾンのレヴューでも書いたことだが
負債とは対等な個人同士が契約を結ぶという擬制の下に
ヒエラルキーという内実を正当化する関係である。
この負債は
我々を社会の共同性に対する永続的で償還不可能な
負債から解放すると同時に
個人を負債へとしばりつける。現代社会において
個人は社会にではなく国家に対して
潜在的に永続的な債務者として
表象される。その負債を償還するための手段が
納税であり、納税を行うためには
貨幣にアクセスできなければならないが
その貨幣は政府によってではなく金融機関によって発行されている。
金融機関は有利子負債に対する見返りとして
主として企業に対し貨幣を発行し
諸個人は企業に対する労務提供者としてあらわれることによってのみ
この国家に対する負債を償還する手段を
獲得する。
子孫に対し我々が何かをなそうとするなら
それはその両親の個人的責任か、
国家の法的責任として位置づけられ、
社会全体の、永続的に繰り返される債務としては
表象されなくなる。

いまグレーバーの読者が求められているのは
こうした表象それ自体をひっくり返すことであろう。
とはいえ、それをひっくり返した先に何があるのか、
読者にはわからないのである。
我々が放棄しなければならないのは
旧宗主国が旧植民地に対して持っている権益であろうか。
現在の巨大銀行が保有している大量の有利子資産であろうか。
近代社会によってはぐくまれた個人の自由と権利であろうか。
社会を代理して原始的負債の債権者としてあらわれる近代国家・金融システムで
あろうか。
本来あるべき償還不可能な負債までもを
売買可能な契約に還元する有利子負債であろうか。

現代社会で、一見すると簡単に見える
旧宗主国による旧植民地国の開放の問題一つとっても
それを妨げているのは
こうした負債を取り巻く密接な相互関係であろう。
だからこそ、「対等」と「ヒエラルキー」という矛盾した関係が
ひとつの負債の中に両立する。
これらの問題を一つ一つ切り離して語ることは、
しなければならないが、不可能なことなのだ。
負債を、個人的な償還の義務(オブリゲーション)から
永遠に繰り越される感謝(オブリガート)と共同性へと
引き戻し、コミュニズムの関係へと
戻すことは
こうした一つ一つの問題に回答を出すことを意味する。
それは、容易なことでない。

と、言うわけで、
若い人は
忍者武芸帳やカムイ伝なんて読んでないかもしれないが
是非一読をお勧めする。まあ、古い本なので
無風や夢屋や赤目が風刺しているのは
どちらかというと「空想的社会主義」ということに
なるわけだけれど、今読むと
また新しい読み方も可能なので
面白いと思うよ。


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1 コメント

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利子 (経済素人)
2018-06-21 22:30:27
①シュメール人の数学を最近読んだのだが、利子の話が出てくるのだが、当時からあったのではないのだろうか。
②元の時代は貨幣が安定期というのはどにょうに解釈するのだろうか。何となくわかるのだが、

2点少し考え方を教えてくれれば?
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