ワニなつノート

面白すぎて先が読めない文章(その2)



面白すぎて先が読めない文章(その2)



《成年後見制度》



【成年後見制度の説明として、競争社会の中で能力の低い者が能力の高い者の食い物にされることを防ぐための権利擁護の制度ということが言われる。
この説明は一見すると取引社会の公正を図る合理的な説明のようにも聞こえる。】


【けれども、相手の能力の乏しさに乗じて不当に利益をあげる者とその犠牲にされる者のどちらの権利を制限すべきなのだろうか。

相手の弱みにつけ込んで不当に利益をあげる者は、取引社会の公正を害する者なのだから、…その者の権利を一定期間制限するというのなら公正な対応である。】


【しかし、成年後見制度は、逆に被害者になる食い物にされそうな人の権利を制限するという方法を採用するのである。】


【こうした逆転した法政策の前提に、障害のある人を取引社会にとって足手まといなものとみなして排除していく差別意識を見て取ることができる。】


(「日本の成年後見制度の問題点」池原毅和  季刊・福祉労働152号)


        □

《定員内不合格という「子ども差別・排除」》


中学卒業生の約99%が進学するいま、高校入試は何を目的としてあるか。

能力の高い者が、能力に見合った高校で学べるように。
能力を高めるために、競争は必要だ。
競争に勝った者が、より良い教育を受けるのは当然だ。

だから、たとえ高校が義務教育になったとしても、入試はなくならない。
それが99%が進学する今の社会だ。


私は競争を否定はしないが、参加したい人だけでやってほしい。
オリンピックの金メダルは世界に一人しか取れないのだ。
70億人みんなが競争しなければいけない訳じゃない。


         □


目の見えない人に、どれだけ見えるかの競争をさせる「高校受検」はない。

耳の聞こえない人に、どれだけ聞こえるのかを競争させる「高校受検」はない。

歩けない人に、どれだけ歩けるかの競争をさせる「高校受検」はない。

「知的障害」の人に、どれだけ5教科の点数がとれるかで競争させるのが「高校受検」だ。

それは、公正な「競争」だろうか。

それは、公平な「受検」だろうか。


しかも、「定員」が空いていても、「不合格」という「校長判断」の方が、「すべての子どもが学ぶ権利」よりも、「尊重」される社会。


その「競争」を、公平・公正と言える人の正義とは何か。

その「受検」を、公平・公正と信じる人の信義とは何か。

しかも、公立高校の募集した定員が足りていないのに、知的障害児だけを「定員内不合格」と判断する校長とは、いかなる人間性をもつ教育者か。

その校長の「判断」を、無条件に尊重するといえる人間に、プライドはあるか?


      □


《そもそも「競争」ですらない》


3月の終わり、定時制高校の追加募集の受検がある。

中学の卒業式も終わり、進路が決まらない生徒は各中学に一人いるか、いないかの時期。

どこにも行き場のない15才の生徒が、最後の望みをかけて受検する。


20人募集で、受験生が一人。

それでも、「合格者なし」という「校長判断」が、一人の子どもを門前払いする。


「黒人はバスのシートに座るな」といったアメリカの白人と、その校長はどこが違うのか。

「黒人は店に入るな」という法律を作った南アフリカの白人と、その校長はどこが違うのか。

納得のいく説明を、この30年間一度も聞いたことがない。


公立高校、国民の税金で建てられた学校で、
公務員、国民の税金で仕事を委ねられている校長が、
公約、県立高校が県民に約束した「教育する生徒数」にまだ余裕があるのに、
中学を卒業して進路が決まらないまま最後の「定時制高校の受検」を受けた生徒を、
「不合格」にして、その理由を一言も説明せず、
どこがいけないのか、何をどう努力すれば高校で学ぶことが可能なのか、
そうした説明も一切なく、空いている席に座らせない、校長判断。


      □

県の教育委員会は、高校入試の合否の判断は、校長の権限だという。

校長の判断は、絶対に正しいものであり、差別や偏見は絶対にないという。

入試は公平・公正な制度であり、定員内不合格の校長判断もどんな状況であり、正しい判断であり、何人も介入できない、という。


1992年3月、神戸地裁は「教育を受ける権利を侵害した」などとして、障害を理由に不合格とした校長の判断は間違いだと認めた。

他に、校長の間違いはないか。

校長の偏見・差別はないか。


    □


入試は公平・公正な制度か?

「知的障害」の生徒に対し、相手の能力の乏しさに乗じて、不当に「不合格」という判断をする者と、その犠牲にされて99%の同級生が進学する高校に通うことができない者の、どちらの「思い」を尊重するべきか。

障害のゆえに「点数が低い」、障害のゆえに「作文が書けない」、障害のゆえに「面接でうまくしゃべれない」、そういう子どもの弱みにつけこんで、「可能な限り障害のある児童生徒等が障害のない児童生徒等と共に教育を受けられるよう配慮しつつ、必要な施策を講じる」インクルーシヴ教育の実現を不当に妨害しているのが、「定員内不合格」を出す校長であり、その校長判断に「目を背け、見ないふりをして」必要な施策を講じることのない、無能無策の教育委員会のお役人だ。


障害のある人もない人も共に生きる社会の実現を阻む者なのだから、そういう判断しかできない校長は降格させるのが、公正な対応である。


しかし、いまの教育委員会は、逆に「定員内不合格」により不当に「差別」「疎外」「排除」された子どもに対し、無条件に校長を擁護することしかしないのである。


こうした人権無視の感覚を不思議と思わない役所・学校の中には、教育の前提として、障害のある生徒を「受験競争」教育にとって足手まといなものとみなして排除していく差別意識を見て取ることができる。
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