ワニなつノート

虚偽自白と羞恥心と、教育を選ぶということ(1)


虚偽自白と羞恥心と、教育を選ぶということ(1)



『心はなぜ不自由なのか』(浜田寿美男)に、
虚偽自白と羞恥心は、
外部から強制的に「主体的に選ばされる」もの
だと書かれています。


拷問されたわけでもないのに、
無実の人がうその自白をすることがある。
それを不思議と感じるのは「生身の視点」ではなくて
「神の視点」だと浜田さんは言います。

つまり、神様から見れば、
警察が信じるか信じないかに関係なく、
自分で本当のことを言い続けることを「選べる」はずだと。

浜田さんは、虚偽自白の問題と、羞恥心の問題を、
同じ視点で語っています。



「虚偽自白」は、一般には外からの圧倒的な圧力によって
「自由」を圧殺された結果と考えられていますが、
実際は、追いつめられたところで、最後には虚偽の自白を、
むしろ自分から選んでいるという側面がある。

圧倒的不自由のなかで、
かつがつ残された自由の部分で、
「犯人になる」ことを選ぶという逆説が、
虚偽自白の現実をひどく見えにくくさせています。

実際、選べる余地があったのなら、
なぜ「私はやっていない」という真実を守れなかったのか、
という反論がすぐに立ち上がってしまいます。

「神の視点」からは「選び続ける」ことが可能であっても、
「生身の視点」からは、それがあまりに苦しくて耐えられない。

そのために、あえて「犯人になる」ことを主体的に選ぶ。

いや、主体的に「選ばされる」。

この逆説にこそ、不自由の具体的なかたちがある。




羞恥心の場合も、
「主体的に選ばされる」
という側面を抱えている。

たとえば、四肢欠損という、
自分では選択できない障害を与えられてしまったとき、
「神の視点」からすれば、それを引き受け、開き直って、
自分の手がかけている事実をありのままに、
堂々と生きればよい。

そこに羞恥心を感じなければならない理由はない、
と言いたくなりますが、
人の関係の網の目のただ中に生まれた人にとって、
その網の目に編み込まれた評価軸、
そこに絡みついた「他者の目」「世間の目」から
自由であることはほとんど不可能です。

それがゆえに、親たちは、
義手やミトンで子どもの障害を隠し、
世間の目から我が子を守ることを選ぶ。
いや、主体的に選ばされる。

ところが、そのように世間の目から守ろうとすること自体が、
世間の目として我が子を裁く・・。

そして、そのことに気づいて、
ありのままに生きることを
当人があらためて選び直そうとするとき、
それがまた容易ではありません。

自分を縛る羞恥心を越えるためには、
からみついた関係の網の目を別のかたちに
あみ直さなければなりませんし、
それはたった一人の主体的な決意で
できるようなことではないからです。
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