虚偽自白と羞恥心と、教育を選ぶということ(1)
『心はなぜ不自由なのか』(浜田寿美男)に、
虚偽自白と羞恥心は、
外部から強制的に「主体的に選ばされる」もの
だと書かれています。
拷問されたわけでもないのに、
無実の人がうその自白をすることがある。
それを不思議と感じるのは「生身の視点」ではなくて
「神の視点」だと浜田さんは言います。
つまり、神様から見れば、
警察が信じるか信じないかに関係なく、
自分で本当のことを言い続けることを「選べる」はずだと。
浜田さんは、虚偽自白の問題と、羞恥心の問題を、
同じ視点で語っています。
☆
「虚偽自白」は、一般には外からの圧倒的な圧力によって
「自由」を圧殺された結果と考えられていますが、
実際は、追いつめられたところで、最後には虚偽の自白を、
むしろ自分から選んでいるという側面がある。
圧倒的不自由のなかで、
かつがつ残された自由の部分で、
「犯人になる」ことを選ぶという逆説が、
虚偽自白の現実をひどく見えにくくさせています。
実際、選べる余地があったのなら、
なぜ「私はやっていない」という真実を守れなかったのか、
という反論がすぐに立ち上がってしまいます。
「神の視点」からは「選び続ける」ことが可能であっても、
「生身の視点」からは、それがあまりに苦しくて耐えられない。
そのために、あえて「犯人になる」ことを主体的に選ぶ。
いや、主体的に「選ばされる」。
この逆説にこそ、不自由の具体的なかたちがある。
☆
羞恥心の場合も、
「主体的に選ばされる」
という側面を抱えている。
たとえば、四肢欠損という、
自分では選択できない障害を与えられてしまったとき、
「神の視点」からすれば、それを引き受け、開き直って、
自分の手がかけている事実をありのままに、
堂々と生きればよい。
そこに羞恥心を感じなければならない理由はない、
と言いたくなりますが、
人の関係の網の目のただ中に生まれた人にとって、
その網の目に編み込まれた評価軸、
そこに絡みついた「他者の目」「世間の目」から
自由であることはほとんど不可能です。
それがゆえに、親たちは、
義手やミトンで子どもの障害を隠し、
世間の目から我が子を守ることを選ぶ。
いや、主体的に選ばされる。
ところが、そのように世間の目から守ろうとすること自体が、
世間の目として我が子を裁く・・。
そして、そのことに気づいて、
ありのままに生きることを
当人があらためて選び直そうとするとき、
それがまた容易ではありません。
自分を縛る羞恥心を越えるためには、
からみついた関係の網の目を別のかたちに
あみ直さなければなりませんし、
それはたった一人の主体的な決意で
できるようなことではないからです。
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