ワニなつノート

命の授業 放課後(上)

【命の授業 放課後】《上》

教え子「一歩を踏み出せた」
山田泉さん死去から1年


西日本新聞朝刊


「命の授業」は教室だけで終わらなかった‐。

自分の乳がん体験などを基に命と人権の大切さを
問い続けた豊後高田市の元養護教諭、
山田泉さんが亡くなり1年。

山田さんと出会った人たちには、
彼女の笑顔と言葉が今も鮮やかに残る。

救われた人、
生き方を変えた人、
そして残された家族。

彼らの姿を通して今も生き続ける
山田さんの“放課後”をたどる。

    ◇    ◇    ◇
  
「TOKO」と手書きした名札を下げ、「ハロー」。

豊後高田市新地で洋菓子工房を営む高倉聡子さん(29)は
仕事の合間、近くの幼稚園で英語を教える。
「トコ」。
園児から呼ばれると、弾けるような笑顔。

高倉さんは「私が立ち直り、一歩を踏み出せたのは
山田先生のおかげ」と語る。
 

信じられないほど食べては吐く。
9年前、高倉さんは摂食障害と診断された。
20歳だった。
 高校2年の時に米国留学。
国際基督教大(東京)に入学した。
将来は得意の英語を生かした仕事に就こうと思っていた。
休学し地元に戻った。
 

原因は分からなかった。
外では「いい子」だったが、
家では両親に当たり、物を投げたりもした。
睡眠薬を多量に飲み、目覚めると
病院のベッドで点滴を受けていることもあった。

    ◇    ◇    ◇
 
苦しかった。
「消えてなくなりたい」と悩んだ時期、
支えてくれたのが山田さんだった。

母親が中学時代の「保健室の先生」にSOSを出した。
 
山田さんは5年前に卒業させた教え子の家を訪ね始めた。
「どうしよるん」。
電話もくれた。
大分市の心療内科に通う1時間半の車中、
恋愛の話にも付き合ってくれた。
 
保健室の先生は、あのころと同じだった。
中学の3年間、高倉さんは休み時間になると
保健室に通っていた。
一日一度、先生とするくだらない話が楽しみだった。
 
高倉さんにとって2度目の“保健室通い”は2年間続いた。

ある日、山田さんから「頑張らなくていいのよ」と言われた。

遅れて来た反抗期だったのか。
高倉さんはその言葉に救われた。

    ◇    ◇    ◇

  
山田さんが高倉さんに付き添っていた2002年、
中学校では「命の授業」が始まった。

命の授業1期生で、熊本大教育学部3年の
奥田芙沙子さん(21)は「自分を大きくしてくれた」と言う。

ハンセン病回復者、車いすマラソンランナー、性同一性障害…。
山田さんはさまざまな人をゲスト講師に招いた。
 
山田さんは授業のたびに
「あなたはどう思うの」と生徒に問い掛けた。
 
奥田さんは「誰かに出会い、その人の人生について考える。
それで視野が広がった」と振り返る。

講演以来、熊本県の菊池恵楓園入所者の
阿部智子さん(69)とは今も交流を続けている。
 
将来の夢は小学校の先生。
「山田先生のように子どもと一緒に成長していこう、
という気持ちを大切にしたい」
 
豊後高田市で3月下旬にあった
山田さんをしのぶ会に合わせ、
高倉さんはショートケーキを作った。

ケーキの縁にチョコレートで
手をつないだ人形をあしらった。

山田さんが大事にした「人の輪」を表現したかった。
「先生は、人と人をつなげてくれたから」


=2009/11/28付 西日本新聞朝刊=
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