ワニなつノート

トラウマとフルインクル(その90)



トラウマとフルインクル(その90)


《解決可能な問題は対人関係の領域にある》




知的障害や発達障害という障害のほとんどは病気ではありません。

障害が病気でないなら、治療は答えではありません。

「言葉」も、同じです。

言葉の遅れや言葉がない子どもの「治療」や「リハビリ」の結果、社会には多くの人が成人後も「言葉を話さない」でいます。

「治療」や「リハビリ」の結果、「話さない」現実がふつうにあります。


それは、他の障害では当たり前の話です。

全盲の子どものほとんどは、全盲の大人に成長します。
ろうの子どものほとんどは、ろうの大人に成長します。

車椅子を利用している子どものほとんどは、車椅子を利用する大人になります。
呼吸器を必要としている子どもの多くは、呼吸器を利用する大人になります。

そして、子ども時代にもっている障害を、持ったまま大人として、ふつうに社会に参加し共に生きています。

もちろん、「言葉を話さない」大人として、ふつうに社会に参加し共に生きている人も大勢います。


         ◇

「言葉」以外…という時に注意しなければいけないのは、話せる人が「言葉を話さない」ということではありません。

自分は「話さ(せ)ない」けれど、人の話す「言葉」は分かっていることは普通にあります。


もともと人は、言葉の意味よりもそれ以外のものから、多くをやり取りしています。


「私たちは、緊張あるいは弛緩、姿勢や声の調子、表情の変化からだけで、二人の人間の間で刻々と流動する関係を本能的に読み取る。
自分の知らない言語の映画を観ても、登場人物どうしの関係の本質がわかる。」(125)


「人間は、身の回りの人間(と動物)の情動の微妙な変化に驚くほど敏感だ。
眉の緊張や、目の周りのしわ、唇の曲がり具合、首の角度がわずかに変わっただけで、相手がどれだけ快適か、疑っているか、くつろいでいるか、おびえているかがたちまち伝わってくる」

「他者から受け取るメッセージが、『あなたは私といても安全です』であれば、私たちはくつろげる。

そしてまた、私たちは人間関係に恵まれていれば、相手の顏や目を覗き込むと、慈しまれ、支えられ、元気づけられるような気がする。」(130)



        ◇


言葉と同時に発している声の調子や表情などが多くを語り、子どもたちはそれを理解している。

不思議なことに、教育の世界では、そのことがあまり大事にされていないし、それを利用することや、お互いに意識し合うことが考えられてきませんでした。


専門家が、そのことに焦点を当てて、言葉を使う子と使わない子との、お互いのコミュニケーション能力を、ふつう学級でどう「発達させていくか」という発達論に、興味を持つことはありませんでした。

子ども同士の身体的コミュニケーションやリズムでつながる対話は無視して、意思疎通に使う言語だけに焦点を当ててきたのです。


でも最初に書いたように、「治療」は答えになりません。

なぜなら、「共に生きる」ために解決可能な問題は、主に「対人関係の領域」にあるからです。


だとすれば、その対人関係の領域で、問題を解決すればいいのです。

これは、ある意味で安心材料です。

なぜなら治療や個別対応に縛られなくてよいからです。


そのために必要な資源は、私たち自身の中に、共にいることに、あります。

私たちが、日常の暮らしの中で、「ことば」だけに頼らないコミュニケーションの力を自覚し、利用することを、広めていけばいいのです。


幼い子ども同士が成り立たせてきたそのやり方を、広め、深めて、子どもたちの後についていくことです。

新一年生の新しい文化に、私たちも参加させてもらえばいいのです。


子どもたちの間で可能なことを、大人の世界にまでつなげることができるかどうかなのです。


(つづく)



※ 引用はすべて「身体はトラウマを記録する」ベッセル・ヴァン・デア・コーク

※参考文献「認知症のパーソンセンタードケア」トム・キッドウッド
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