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ワニなつノート

「分けられた子ども」と百年後の世界 ⑨

《きょうだいへの贈り物》

         □

「なぜ、いっしょの学校にいけんと?」

そう聞いたのは、栞音さんの姉。

 

入学したころ、やさしかった上級生の記憶がある子にとって、自分が上級生になったら一年生の面倒をみるのは当たり前のこと。

きょうだいに「障害」があると別? 

そんな考えは、子どもの中からは生まれない。

          □

 

「一年生になったら、ぼくもスクールバスに乗って行けるね」

うれしそうに言ったのは、康治の弟。

 

年下のきょうだいは、障害があってもなくても、兄姉と同じように小学生になることを、追いかけて成長する。

きょうだいが「分けられる」なんて夢にも思わない。

だから自分も「養護学校に行く」が、ふつうのことになる。

「地域の小学校」より、きょうだいと一緒が先行する。それも共に育つきょうだいの自然。

 

だけど分ける教育はそれを認めることができない。

「あなたは、障害がないから、違うのよ」

「ちがわないよ。だって、ぼくはおとうとだよ。」

 

そこで、「分けられる」のは、障害児じゃない。

きょうだいも、ふつう学級の子どもも、すべての子どもが分けられる。

          □

 

きょうだいの安全なつながりには上も下もない。

「毎朝、面倒見るのは大変じゃない? 友だちとも話せないし」と聞かれた兄がいう。

「別に、友だちとは学校で話すし。お母さんは弟がいると大変なの?」

 

同じ家の妹は、「ダウン症の書家」という新聞の見出しに、「『ダウン症の』が余分だね」とつぶやく。

この兄と妹のあいだのゆうきくんがどれほどしあわせか。

 

いっしょが当たり前のきょうだいは、「なぜ、ふつう学級?」という言葉を持たない。

「いっしょ」にいられないときだけ、「なぜ?」と尋ねる。

「なぜ、分けるの? 同じきょうだいなのに」

        □

 

きょうだいの「つながりの安全」は、分けないことから始まる。

きょうだい児の「ケア」という言葉があるけれど。

共に回復する道は、基本のつながりを「分けない」ことだと思う。

 

「なぜ、ふつう学級?」という問いがなくなる日、「どうして、むかしはきょうだいが分けられていたの?」という問いがうまれるだろう。

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