ワニなつノート

アリス・ミラー


このブログを始めて、もうすぐ一年になります。
このところ、自分が何を書き残しておきたいのか、
よく分からなくなってきました。

同じことを繰り返しているような気もするし、
自分が何にこだわっているのか、何を言いたいのか…。

昨日一日、そんなことを思っていて、
頭の中に浮かんできたのは次の言葉でした。

☆   ☆   ☆   ☆

『…子どもの屈辱をわかってやる感覚が、
私たちにはまだ備わっていません。

子どもを尊重しその傷ついた心を知るというのは、
知的な行為ではありません。

もしそれがそんなものだったら、
もうずっと前に世間一般に広がっていたことでしょう。

子どもと一緒になって、その子が何かを取り上げられたり、
侮辱されたり、屈服させられたりした時、
どういう思いをするかを感ずるというのは、
すなわち子どもという鏡の中に、
自分自身が子ども時代に受けた苦しみを見るようになる
ということでもありますから、こんなことは恐ろしくて
とてもできないという人も多いでしょうが、
しかし、それを悲しみとともに受け入れることが
できる人もあるのです。

この悲しみの道を選んだ人は、
その後、心がどんなふるまいをするものか、
本からだけではとてもできないほど
深く理解するようになります。』

(『魂の殺人』アリスミラー 新曜社)

☆   ☆   ☆   ☆

「子どもの屈辱をわかってやる感覚が、
私たちにはまだ備わっていません。」

初めてこの言葉を読んだのは23歳の時でした。
それ以来、この言葉を何百回と読み返してきました。
いまも子どもたちが置かれた環境は変わっていません。

「子どもの屈辱をわかってやる感覚が、
私たちにはまだ備わっていません。」

小学校、中学校、高校、進学塾、言葉の教室、難聴学級、
情緒障害児学級、適応教室、定時制高校、児童相談所、
一時保護所、児童自立支援ホーム等、
私が子どもと出会い続けてきた場所で、
この言葉を思いださない場所はありませんでした。

何より、保育園や小学校、中学校、高校から拒否される
状況の「障害のあるふつうの子どもたち」のそばにいて、
この言葉を思い出さないときがありませんでした。
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