ワニなつノート

ふつう学級で子どもたちは何をしているのか(ことばの演算・編)


ふつう学級で子どもたちは何をしているのか(ことばの演算・編)


《子どもたちはことばの「演算」を体験をしている話》



たとえば、「ことばの遅れ」があると言われる子がいる。

その子は、一足早く言葉を話す子どもたちの隣で、
たくさんの言葉を耳にし、ことばと子どもの世界の両方を同時に感じている。

一足早く文字を覚えた子どもたちの隣で、
その文字を見て、文字の世界と子どもの世界の両方を同時に感じている。



大人は、その両方の世界をつなぐために時間を忘れている。
だから、そのかけがえのなさがわからない。

自分が言葉にできる記憶が、価値だと信じている。
自分が思い出せる記憶だけが、自分を支えると思っている。

だから、言葉のない子どもや言葉をなくした老人を憐れむ。
何もないのだから、生きていて何の意味があるのかと問う。



本当をいえば、子どもたちはみんな、ことばともじの演算をしている。

一足早く言葉を覚え、話す人の隣で、
その言葉を耳にし、同時に、その世界を感じる。

一足早く文字を覚え、書く人の隣で、
その文字を見て、同時に、その人世界を感じる。

そして、話し出す。読みだす。書きはじめる。
だれもが、そうして、話しはじめたように。
ことばと文字を使って、そのつながり方を演算している。
どのことばが、どの世界につながっているのかを試しながら。確かめながら。



「個別」で言葉を教えるても、そこにあるのは「音」と「絵」だけ。
そこで覚えた「ことば」には、「つながりの世界」が足りない。

「ことば」がないことより、「つながりの世界」がないことの方が、生きづらいことがある。


ことばはつながるための道具だから。
文字はつながるための道具だから。



生まれた瞬間から、子どもはつながりことばの世界で生きている。

話せるようになるずっと前から、ことばの世界で生きている。

生まれる前から、遠くに聞こえることばの世界を聞き感じながら生きている。


そのつながりの世界から離れてしまうと、ことばはつながりの切れた音になる。

つながりのない音は、さびしい。
つながりのないことばは、さびしい。

だから、つながりの糸は切らない。
この子がさびしくないように、つながりの糸だけは切らない。

ことばがなくても、文字をもたなくても、つながりの世界は消えない。



「父親」より「母親」の方が「ふつう学級」に惹かれることが多いのは、「つながり」と「ことば」の関係を理屈抜きに体験しているからだろう。

そして、保育園での子ども同士の「つながり」と「ことば」の関係を目にする機会が多いからだろう。

ことばを話さない子でも、ことばの意味を的確に理解している子は多い。
自分では話さないけれど、ことばで話す人とのつながりの世界で、ことばの演算をしている。

そのことは、子どもたちの生活世界で、共に暮らす人にとっては、あまりに当たり前の光景なのだ。



(失語症の人のさびしさの一つは、「つながりの世界」を感じられなくなることにある。
ことばの「つながりの世界」だけで生きてきた時間が長かったから。
話せなくなる、そのことだけが、さびしさの理由ではない。)
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