http://sun.ap.teacup.com/waninatu/1317.html
コメント欄で返信するだけではもったいない気がするので、ここで紹介しようと思います。
◇ ◇ ◇ ◇
はじめまして。
たこの木クラブの新スタッフにしやまです。
遅くなりましたが、私の拙い記事を紹介していただいて、感想まで書いていただいてありがとうございます。
ちょうどこの春に、普通学級から特別支援学級に分けられそうになっていた発達障害の小学5年生と接する機会がありました。
最初は普通の子なのになぁと思ったけど、何度も会ううちに、落ち着きのないその子に対して「分けたくなる先生の気持ちも分かるな…」と思ってしまったのが本音です。
そんな時に「寄る辺なさ」の記事を読みました。
あれを読んで、「分ける」という発想自体が完全に大人目線での考えで、その子の気持ちはこれっぽっちも考えてなかった自分に気付きました。
自分から「私は計算が全く出来ないからみんなと離れて少人数の学級に行きたいなぁ」なんて考える子供なんていないですものね^^;;
あの記事を読んで、「普通学級に行くことが当たり前」ということが自分の中で腑に落ちてから、その子を見る目も多少変わったというか。「そりゃ分けられそうになってたら不安で混乱しちゃうよなぁ~大変だったねぇ」と割と大らかな目で見れるようになったというか…まぁそれでも行動が理解できなくてイラっとすることもあるんですけどね^^;;
だけど上手く言えませんが、なんだか前よりは心に余裕を持ってその子に接することが出来るようになった感じがします。
長々とすみません。とにかくあの記事がけっこう自分の中で革命的だったので通信に感想書かせてもらいました!
体調崩されていたようですね><
退院おめでとうございます。これからもブログ楽しみにしてます^^
(にしやまゆいか)
◇ ◇ ◇ ◇
にしやまさんへ
こんにちは。
コメントありがとうございます(・。・)
「たこの木通信」から勝手に原稿を使わせてもらって、本当はこちらから連絡しなきゃいけなかったのですが…。
でも、突然連絡しても変なナンパと間違えられるかもしれないので、岩ちゃんに会ったときに話をしようかな~と思ってました。
前回の原稿は、いつものブログより反響が良かったですよ。
親という生きものは、何よりもまず子どもの気持ちに気づいてくれる人がいる、ただそのことが嬉しいのだと改めて思います。
今回のコメントに、『落ち着きのないその子に対して「分けたくなる先生の気持ちも分かるな…」』という言葉がありましたが、それもまた普通のことだと感じます。
私も、子どもとつき合っていて、「ああ、めんどくさ」と感じることはしょっちゅうあります。
今は夏休みですが、毎日子どもと顔を突き合わせていたら、親だって、「もう顔も見たくない」って思うこともあります。
そうして、先生と子ども、親と子ども、その両方の気持ちを、それぞれの立場で感じたり、考えてみたりするのが、力関係を考えれば最低限のルールだと思います。
でも、学校では、先生の大変さ、学校の大変さだけしか、考慮されないのですよね。
子どもにすれば、「自分とつき合うのが嫌でどこかにやってしまいたい」と考えている先生なんて、これ以上迷惑な話もないですよね。
にしやまさんへの返信を考えていて、ハル君の家の「隣のおじさん」の話を思い出しました。
ハルくんは最初、養護学校に入学したのですが、2年生から地域の普通学級に転校しました。
◇
【隣のおじさんと運動会と幸せ】
庭にたくさん生えたドクダミをお茶にしてみようと採っていると、「お嬢さんは何をしとるかね」
と、声がしました。もちろん、お嬢さんとは私のことですっ!
顔を上げると垣根ごしに隣りのおじさんがいました。おじさんは80歳くらいで、白髪、耳が聞こえにくい。
「ド・ク・ダ・ミ、とっ・て・ます」大きく、ゆっくり話します。
ほうか、ほうかと頷くおじさん。
おじさんはいつもハルに「おい、ハル、元気か」と声をかけてくれます。
そして、以前はよく「かわいそうにな」「今頃、みんなと走回っとる頃なのにな」と、かなしそうな顔でつぶやいていました。
晴天の下、今年も運動会がありました。
徒競走は、歩行器で、短めの距離を少し手伝ってもらいながら走りました。
走りやすいように、先生がマットを用意してくださいました。
みんなの応援の中で、ハルはがんばりました。
帽子とりでは、初めて!ハルの帽子を取りに来る子がいて、
結局取られてしまったのですが、思わず私は手を叩いて喜んでしまいました。
控えの席で待っている時は、みんなからほっぺをプニプニされ、ハルは「やめてよ~」と言わんばかりに手を動かし、足や脇をコチョコチョされると、たまらず笑っていました。
車椅子の足をのせるところにちょこんと乗っている子もいて、ハルの周りはいつもにぎやかでした。
そんな光景を見ていたお祖父ちゃんは、「ハルはみんなにいじられとるなぁ」と目を細めて嬉しそうに話し、お祖母ちゃんは、「ハルは幸せだ」と言っていました。
この日は、ここ一番の暑さで、途中ぐた~としましたが、休憩をとりながら、最後までがんばりました。赤く焼けた顔が、少し大人びて見えました。
ふつうの日。
ハルは友達に車椅子を押してもらって、別の友達と手をつなぎながら下校していました。
向こうから隣りのおじさんが犬を連れて歩いてきました。
「おい、ハル、元気か」いつものあいさつ。
おじさんはしばらくハルと会話をし、最後に一言。
「お前は幸せだなぁ」
おじさんの顔は、もう、かなしそうではありませんでした。
◇ ◇ ◇ ◇
にしやまさんが、偶然目にした一つの記事で、それまで考えたことのなかった「子どもの気持ち」に気づいたことと、身体の不自由なハルくんを「かわいそう」にだけ見えていた隣の80歳のおじさんが、友達に車椅子を押してもらって、友達と手をつなぎながら下校している姿をみて「お前は幸せだなぁ」とつぶやいた感じが、私のなかでなんとなくつながっています。
そのことと、自分の感覚をつなげていると、以下のようなメモになりました。
なんだか、とりとめのない返信になりました。
また、たこの木に面白い原稿書いてくださいね。
岩ちゃんの原稿より楽しみにしてます(o|o)
(…これは岩ちゃんには内緒です)
◇
《自分の一番大切にしたいもの》
「それ」を大事にしている人がいる。
「それ」は大事にしてもいいものなんだ…。
知らなかった。
だって、そんなこと、誰も教えてくれなかった。
「それ」は大事にされないのが当たり前だと思っていた。
「それ」を大事にしてる人なんて、一人も見たことがなかった。
だから「それ」を大事にすることが、どういうことかなんて、考えてもみなかった。
どうして、「それ」は大事にされなくていいなんて思っていたんだろう、私は。
どうして、「それ」を考えなくていいなんて思ってきたんだろう、私は。
それはきっと、子どものころから、親や先生や大人たちに脅されてきたからだと思う。
「それ」にならないように、「ちゃんとしろ」と言われてきた。
「一人でできるようにがんばれ」
「早く、ちゃんと、きちんと、自分でできなきゃいけない」
「先生のいうことを聞かないと、ここにいられなくなるぞ」
「勉強ができないと、ここにいられなくなるぞ」
もし、それができなかったら、お前は友だちとも、家族とも別れなくちゃいけない。
もし、それができなかったら、お前は大切にされなくなるんだぞ。
男の子なんだから、泣いちゃだめ。
お兄ちゃんなんだから、ちゃんとしなきゃ。
勉強しないとろくな大人になれないぞ。
…どうして男の子だからって歯をくいしばってがんばらなきゃいけないのか。
…男の子だって、お兄ちゃんだって、泣きたいときはある。
なんのために勉強しないといけないのか、自分は本当は何をしたいのか。
そんなことは、考えなくていい、当たり前のことなんだから。
みんなそうなんだから。
子どもの気持ち?
子どもの感情?
そんなものは、取るに足らないもの。
「それ」はたいして大事なことじゃない。
もっと大事なことが世の中にはいっぱいある。
大事なことを知っているのは、いつも大人。
何が大切なことかを決めるのは、いつも大人。
そんなふうに、見るもの、聞くもの、体験することのすべてが、そんなふうに聞こえていたのかもしれない。
ちゃんとできない子が、大切にされるわけがないと、信じていた。
きちんとできない子が、大切にされるわけがないと、信じてきた。
一人でできない子が、子どもとして大切にされるわけがないと、信じ込まされてきた。
言葉にならない自分の気持ち。
自分が悪いと分かっていても、すなおになれない自分の感情。
「それ」は、何の価値もないものだから、真面目に取りあってもらえないのだと思うしかなかった子どもの時間。
だから、私が大人になった時、「それ」を大切にしている人たちが不思議だった。
「こんな子が、大切に思われる理由が一つも分からない」と感じていた。
でも、私のなかの小さな子どもは、強烈にうらやましいと思っていた。
ぼくがずっと欲しかったのは、そのことだったという。
ぼくがずっと探していたのは、そのことだったという。
私は、その自分の中の小さな子どもの声を頼りに、「それ」を誰に遠慮することなく、自分の思いのままに、自分の信じるままに、大切にする人たちに出会ってきた。
「それ」を大事にしている人に出会ってみて、私は素直に、いいなぁと思えるようになれた。
私が大事にしてきたことと、「それ」を大事にしている人の思いはおんなじだと素直に思えるようになった。
そして、私も「それ」を大事にできる人になりたいと思った。
私自身も、「それ」を大切にしてほしかったのだと思った。
人がどう思おうと、社会がなんと言おうと、私が大切にしたいもの、何よりも大事にしたいものを守るために、私は生きてきた。
「それ」は、人それぞれで違うだろう。
違って当たり前なのだと思う。
だからこそ、自分が大切に思うこと、大切に思う人、大切に思うどんな生き方をも、誰もが大事にされることが必要なのだと思います。
誰もが地域の普通学級にふつうに通えること。
それは、本当に誰もが大事にされることの一歩目なのだと思います。
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