ワニなつノート

映画『みんなの学校』を見てきました(その2)



《私が受け取った映画のテーマ》


「そういう子と見れば、そういう子になっていく」
ということ。


世界(みんな)に、そういう子とみなされたら
そうじゃない子になるのは難しい

ひとりではとても難しい。
いや、かなり厳しい。


世界(みんな)に、とくべつな子とみなされたら
ふつうの子になるのは難しい

ひとりではとても難しい。

だれかが見つけてくれなければ。

あなたはまだ子ども。
ふつうの子ども。
かけがえのないひとりの子ども。

そんなふうに、ふつうのことばで、
ふつうにこえをかけてくれる、
おとなとなかまに出会わなければ、
ひとりでは、むずかしい。

ふつうの子どもである自分に出会うのは、
ひとり(個別)では、むずかしい。


       ◇


どうせわかってくれない。わかってほしい。
でも、わかってくれないに決まってる。
それなら、はじめから期待なんかしない。

だってまた、今までみたいにうらぎるんだろ。
だめな子って、どうせそう思ってるんでしょ
みんなみんなみんなみんなそうに決まってる


      ◇


子どもの表現は、
誰にも受けとめられず否定的に解釈されると、
それを否定し返すために、
わかりずらい表現をするしかなくなる。

大人の否定的な解釈が正しいかのように、
振る舞うしかなくなることもある。

反抗的。
そりゃそうだ。
大人の解釈がもともと間違っているのだから。

その不当な解釈に反抗的であるとは、どういうことか。
ちょっと立ち止まって、糸をほぐしたどれば分かる。

反抗的であるとは、
子どもがせいいっぱい、なにかを訴えている表現のこと。

反抗的な子どもとは、どんな子どもだと、
わたしがおもっているか。
それが、反抗的な子どもという「鏡」を通して、
わたしに返ってくる。


まえのがっこうのせんせいは、
ぼくをあくにんとみた
ぼくがわるいおとなになるようにぼくをみた

だから、あなたみたいなおとなになんかなるもんかと、
いつもおもってた
いつもてこうしてた。
ぼくはぜんしんぜんれいで、ていこうしてた。


         ◇


ほんとうは、ぼくはいいひとになりたいんだよ
ぼくもたいせつにおもわれ、たいせつにあつかってほしい
わるい子なときもあるけど、ほんとうはいいひとでいたい

だってぼくもだいすきな人にあいされたいし、
ぼくがぼくであることをみとめてほしい
まるごとをうけとめてほしい
しんじてほしい
わかってほしい
きたいしてほしい

ぼくもおとなになったら、
ぼくをみつけてくれた、あなたのようなおとなになりたい
だってぼくは、ぼくをだいじにしたい
だからぼくをだいじにうけとめてほしい


          ◇


映画の中で、最初はみんな同じ顔をしている。
セイちゃんもユヅキもカズキもマサキも、同じ表情をする。

でも、映画が進むにつれて、時が過ぎ、季節が変わるにつれて、子どもたちの顔が変わっていく。


小学生だと、もつれた糸もほぐれやすい。

裏切られた場面、裏切られた大人の数、
裏切られた積み重ねの年月がまだ浅いから…。

いいえ、子どものしんらいのこころが大きいから。

子どもの「にんげんへのきぼう」は、
そう簡単に枯れたりはしないから。

誰かがその子を信じてあげれば、
誰かがその子を見つけてあげれば、
その子はきっと笑顔をくれる。
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