ワニなつノート

HalとNaoちゃんの待ち時間(+やっち)(15)


HalとNaoちゃんの待ち時間(+やっち)(15)


『障害児を普通学校へ 全国連絡会』の
交流集会に行ってきました。

今回は、養護学校義務化から30年ということで、
小夜さんと律子さんが、そのころのことを話してくれました。
小夜さんが初めて特殊学級の教室にいったときの話は、
二十数年、何十回聞いても感動します。

江戸時代の名人の落語を生で聴いている感じ。

江戸の名人は聴いたことないけど(>_<)

その後、「障害児が学校に入るまで」という分科会に
参加したのですが、いまいちすっきりせず、
いろんな思いがグルグル回っています。

山田真さんが面白いことを言っていました。
「千葉は、古典的な運動のスタイルがいまだに続いている」と。
またある人は、「めずらしい会ですね」と言ってくれます。

私にとっては、それは一番の褒め言葉でもあります。
私は東大の会や、足立の会、東京の連絡協で見てきたことを、
そのまま、そのまま言い続けているだけです。

天国の伊部さんや康司に恥ずかしくないやり方を
続けているのだと思っています。
(二人とも「天国」はあんまり似合わないと思うんだけど、
やっぱりこういう時は、ほかに書きようがないな~。
天国にも24時間営業の居酒屋とかあれば、
二人ともずーーーーとそこにいるんだろうな(゜゜))

「古典的」「めずらしい」という言葉は、
いまはこういう会ややり方をするところが少ない、
ということのようです。
また、そうしたやり方は「時代遅れ」と
いうニュアンスを含みます。

でも、この会は、毎年、毎年、
6歳になる子どもの両親がきてくれて、
私たちの「古典」を、
「今の時代」のこととして頷いてくれます。



そんなことをうだうだと考えているのですが、
さっき、ブログを見たら、
「就学相談いろはかるた」という「単語検索」で
このページを見てくれた人がいました。

全国連で「かるた」をいっぱい配ったので、
そのなかの誰かが検索してくれたのだと思います。

そんな単語で、どうやって「ワニなつ」にくるのだろうと、
自分でもやってみました。

そしたら、1番目と2番目に、香川の会があり、
そのまま探していると、64番目に、
やっとこのブログにたどりつきました(^.^)/~~~


そのページが、
《HalとNaoちゃんの待ち時間(+やっち)(14)》
でした。

これを読んで、いろんなモヤモヤがスッキリしました。

「古典的なやり方」で、学校や行政と向き合いながら、
私たちは、大人(親)として、「昔」とは別の感性を
育てていかなければならないのだと思います。

別の感性とは、
「障害のあるふつうの子ども」の
「ふつうの親」になるための感性だと思います。

自分で言うのもなんですが…、
《HalとNaoちゃんの待ち時間(+やっち)》
は、面白いです。
このつづきは、もっと面白いです。(…はずです。)

というわけで、つづきを書くために、
忘れないように、載せておきます。

   □    □    □

HalとNaoちゃんの待ち時間(+やっち)(14)


前回のやっちゃんの話を久しぶりに読みかえしました。
改めて読み直すと、当時とは違うものを感じます。

それは、「たいへ~~ん」と感じるものの
方向?(対象)のようです。
リアルタイムでの話のときは、どうしても
「やっちゃん」=「大変な子ども」の方に、
多くの「たいへんだね」が向いてしまいます。

その「大変な子の親」の大変さという視点も
あるにはあるのですが、
やはり目の前で泣き叫んでいるやっちゃんを見ていると、
「こいつ、本当にうるさいなー」とか「ああ、めんどくさ!」と、
私自身が思うこともあって、
「大変さ」の元は、「やっちゃん」だという実感がありました。

でも、学年が上がるにつれ、
だんだんやっちゃんが落ち着き、
「さとうさん、さようなら」とか、
ちゃんとあいさつされるようになった今、これを読み返すと、
改めて別の意味で「大変だったねー」が感じられてきます。

やっちゃんママの大変さは、
実は「面倒なクソガキやっちくん」にあったのではなく、
その大変さのほとんどは、
「学校、先生、他の保護者」への「気兼ねや遠慮」であったり、
子どもに障害があるということで、
ふつうに「対等な親同士」の話にならない(なれない)、状況や、
自分への苛立ち…、情けないという気持ち…、
そしてそれらすべてを、子どもに申し訳ないと思う気持ち…、
そんな、「当たり前」でない「立場」の大変さ、
苦しさとして感じられてきます。

今まで、ふつう学級は、「障害のあるふつうの子ども」の、
「ふつう」を育てる場所と言ってきました。

でも、これを読んで、もうひとつの「ふつう」に気づきました。
それは、「障害のあるふつうの子」の、
「ふつうの親」であることもまた、
ふつう学級で過ごす年月のあれやこれやの中で、
もまれ育まれていくものらしい、ということです。

「障害のないふつうの子ども」の親だからといって、
子どもが生まれてすぐに「小学生の親」や
「中学生の親」になれるわけではないのです。

どの親も、子どもが小学生になって初めて
「小学生の子どもの親」になり、
子どもが中学生になってはじめて
「中学生の子どもの親」になれるのです。

言葉にしてみると、当たり前のことです。

「赤ちゃんが生まれるとき、お母さんもいっしょに生まれる」
という言い方もあります。

そう、いつだって、親の先に、「子ども」がいるのでした。
だから、親は子どもの後ろをついていくしかないのです。

そして、「ふつうの親」が育たないと、
子どもが中3になって、「こうこういく」と口にしたときに、
「うん、がんばろうね」と、
ふつうに返事を返すことはできません。

「0点でも高校へ」と
堂々と言ってあげることはできません。

Naoちゃんママも、やっちゃんママも、
子どもを「ふつう学級」に通わせることで、
子どもに「ふつうの子ども時代」「ふつうの子どもであること」
「ふつうの子どもの成長」を守ってきたと同時に、
自分がふつうの子の親であること、も守り抜いてきたのでした。

(つづく)
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「やっちゃんがいく&Naoちゃん+なっち」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事