1997年日本人初、ソリを引いて北極点への単独走破に成功した河野兵市さんの展示会が愛媛県
生涯学習センターで開催されていることを知り興味津々、早速見学に行って来ました。
河野さんに関しては当方の娘が中学生の時、少年式の行事で講演に来られていて父兄も参観OKと
いうことで話を体育館で拝聴したことがあります。
本来なら、会場では学芸員の展示の説明があるはずなのですがコロナ禍ということでそれは中止。
しかしながら冒険中の多くの写真や直筆の日記や手紙、地図などの資料があり、じっくりその
臨場感を味わうことが出来ました。凄い偉業を成し遂げたにも関わらず、喧伝されることをよしと
せず、慎ましく生きて行く一市民としての立ち位置を貫くこうとした人間味溢れる人物であること
が今回の展示で分かりました。それが彼自身が自分を冒険家と名乗らず「旅人」と控え目に言って
いたことでもわかります。
2回目の大冒険となる北極点から彼の地元である佐田岬半島まで帰るという「河野兵市リーチング
ホーム2001」ではその旅を完結するために多額の資金が必要となります。売名行為を嫌がる
河野さんではありますが、この時ばかりは信念に反するとは思いつつ背に腹は変えられず、
マスコミに顔を売りニュースに取り上げてもらい、声がかかればどこにでも講演に行きその費用を
調達したのことです。しかしながらその旅の途中、北極海の氷の割れ目に落ち43歳の若さでその
人生の幕を閉じることになりました。会場の日記からは冒険を通しての彼の喜びや悲しみ、あるい
は常人では想像のつかない叫びや息遣い等々、その凝縮された河野さんの生の声が聞こえて来る
ような気がしました。
特に北極点到達への道のり、何もない氷の世界、360度見渡しても先が見えない焦りと
孤独感、そして今までの冒険では感じたことのない恐怖感が綴られている日記にはこちらが
身震いするような感じがしました。
ありきたりで申し訳ありませんが、なぜ死ぬような危険を冒してまで山に登るのか?その答に
多くの冒険家は「そこに山があるからだ」という有名な言葉があります。この展示会で「そうだ、
河野さんもきっとこの冒険には理屈などない、自分のやり残した旅に挑戦したかっただけなの
だ」と理解させて頂きました。
河野さんのチャレンジ精神に敬意とその功績に感謝を伝えたいと思います。
以下にウキペディアの記事を借用させていただき河野さんの履歴とさせて頂きます。
愛媛県立三崎高等学校卒業。1978年の自転車での日本一周の後、北米や南米を走破する。1982年、
冒険家植村直己の影響を受けアラスカのユーコン河フォートユーコンからベーリング海まで
ゴムボートで旅をする。また、登山経験は殆ど無かったものの、ニューヨークでアルバイトを
しながら、日本人の登山家に弟子入りし、登山のノウハウを学び、1983年、北米大陸最高峰の
マッキンリーの登頂に成功。
その後、南米最高峰のアコンカグア等の山々の登頂に成功。ヒマラヤの8000メートル峰ナンガ・
パルバット登山時に、落氷を顔面に受け下山。上唇部に傷が残った為、鼻ひげを伸ばし始めた。
1990年、アフリカ大陸では荷物を詰めたリヤカーを引きながらサハラ砂漠を徒歩で縦断。
リヤカーのアイデアは、友人の自転車冒険家、埜口保男の提案である。
日本に帰国後、ナンガ・パルバットで知り合った順子と結婚。一男一女の子宝に恵まれる。
1997年、39歳のときに日本人初の北極点単独徒歩到達に成功。
その後、2001年に北極点から地元佐田岬半島まで徒歩等により5年がかりで帰還する『河野兵市
リーチングホーム2001』を計画し、3月26日に北極点を出発。5月17日に最後の交信を行った後、
発信地から南東へ約13キロ離れた地点(北緯83度49分、西経74度34分)で北極海の氷の
割れ目に転落し死亡。5月24日、ソリと共に遺体が発見された
以下、会場で撮影した写真を掲載させていただきます。順不同になりますがご容赦下さい。
また、鮮明でない写真が多々ありますことお許し下さい。
展示会は3月中旬まで開催されています。
1978年の日本一周で使った自転車。綺麗に保管されています。
サハラ砂漠を徒歩で縦断した時のリヤカー。
サハラ砂漠縦断までの冒険旅行を記した世界地図。
北極点を目指すために使用した橇(ソリ)。寝袋、テント、食料、燃料等様々な物資を積んで自力で引っ張る。いくら滑りやすい氷の上とはいえ過酷だったには違いありません。
北極点到達の旅に持参した地図。
北極点到達時の靴や毛皮の手袋、その他燃料などの備品類。
北極点到達時に掲げた日の丸の旗や鯉のぼりなど。
このシーカヤックは『河野兵市リーチングホーム2001』を計画した時に海を航海するために練習用として使ったものです。
生涯学習センターで開催されていることを知り興味津々、早速見学に行って来ました。
河野さんに関しては当方の娘が中学生の時、少年式の行事で講演に来られていて父兄も参観OKと
いうことで話を体育館で拝聴したことがあります。
本来なら、会場では学芸員の展示の説明があるはずなのですがコロナ禍ということでそれは中止。
しかしながら冒険中の多くの写真や直筆の日記や手紙、地図などの資料があり、じっくりその
臨場感を味わうことが出来ました。凄い偉業を成し遂げたにも関わらず、喧伝されることをよしと
せず、慎ましく生きて行く一市民としての立ち位置を貫くこうとした人間味溢れる人物であること
が今回の展示で分かりました。それが彼自身が自分を冒険家と名乗らず「旅人」と控え目に言って
いたことでもわかります。
2回目の大冒険となる北極点から彼の地元である佐田岬半島まで帰るという「河野兵市リーチング
ホーム2001」ではその旅を完結するために多額の資金が必要となります。売名行為を嫌がる
河野さんではありますが、この時ばかりは信念に反するとは思いつつ背に腹は変えられず、
マスコミに顔を売りニュースに取り上げてもらい、声がかかればどこにでも講演に行きその費用を
調達したのことです。しかしながらその旅の途中、北極海の氷の割れ目に落ち43歳の若さでその
人生の幕を閉じることになりました。会場の日記からは冒険を通しての彼の喜びや悲しみ、あるい
は常人では想像のつかない叫びや息遣い等々、その凝縮された河野さんの生の声が聞こえて来る
ような気がしました。
特に北極点到達への道のり、何もない氷の世界、360度見渡しても先が見えない焦りと
孤独感、そして今までの冒険では感じたことのない恐怖感が綴られている日記にはこちらが
身震いするような感じがしました。
ありきたりで申し訳ありませんが、なぜ死ぬような危険を冒してまで山に登るのか?その答に
多くの冒険家は「そこに山があるからだ」という有名な言葉があります。この展示会で「そうだ、
河野さんもきっとこの冒険には理屈などない、自分のやり残した旅に挑戦したかっただけなの
だ」と理解させて頂きました。
河野さんのチャレンジ精神に敬意とその功績に感謝を伝えたいと思います。
以下にウキペディアの記事を借用させていただき河野さんの履歴とさせて頂きます。
愛媛県立三崎高等学校卒業。1978年の自転車での日本一周の後、北米や南米を走破する。1982年、
冒険家植村直己の影響を受けアラスカのユーコン河フォートユーコンからベーリング海まで
ゴムボートで旅をする。また、登山経験は殆ど無かったものの、ニューヨークでアルバイトを
しながら、日本人の登山家に弟子入りし、登山のノウハウを学び、1983年、北米大陸最高峰の
マッキンリーの登頂に成功。
その後、南米最高峰のアコンカグア等の山々の登頂に成功。ヒマラヤの8000メートル峰ナンガ・
パルバット登山時に、落氷を顔面に受け下山。上唇部に傷が残った為、鼻ひげを伸ばし始めた。
1990年、アフリカ大陸では荷物を詰めたリヤカーを引きながらサハラ砂漠を徒歩で縦断。
リヤカーのアイデアは、友人の自転車冒険家、埜口保男の提案である。
日本に帰国後、ナンガ・パルバットで知り合った順子と結婚。一男一女の子宝に恵まれる。
1997年、39歳のときに日本人初の北極点単独徒歩到達に成功。
その後、2001年に北極点から地元佐田岬半島まで徒歩等により5年がかりで帰還する『河野兵市
リーチングホーム2001』を計画し、3月26日に北極点を出発。5月17日に最後の交信を行った後、
発信地から南東へ約13キロ離れた地点(北緯83度49分、西経74度34分)で北極海の氷の
割れ目に転落し死亡。5月24日、ソリと共に遺体が発見された
以下、会場で撮影した写真を掲載させていただきます。順不同になりますがご容赦下さい。
また、鮮明でない写真が多々ありますことお許し下さい。
展示会は3月中旬まで開催されています。
1978年の日本一周で使った自転車。綺麗に保管されています。
サハラ砂漠を徒歩で縦断した時のリヤカー。
サハラ砂漠縦断までの冒険旅行を記した世界地図。
北極点を目指すために使用した橇(ソリ)。寝袋、テント、食料、燃料等様々な物資を積んで自力で引っ張る。いくら滑りやすい氷の上とはいえ過酷だったには違いありません。
北極点到達の旅に持参した地図。
北極点到達時の靴や毛皮の手袋、その他燃料などの備品類。
北極点到達時に掲げた日の丸の旗や鯉のぼりなど。
このシーカヤックは『河野兵市リーチングホーム2001』を計画した時に海を航海するために練習用として使ったものです。