
文楽版のシェイクスピア「テンペスト」!『天変斯止嵐后晴(てんぺすとあらしのちはれ)』の初日の舞台を観てきました。簡単に感想っ!
芝居を観る前、「念のために予習が必要かな~」と思って、松岡和子さん翻訳の『テンペスト』(ちくま文庫)を読みました。
今にして思えば、コレが正解でしたね~。学生時代に読んだ福田恒存訳より断然読みやすい!これから観る方にも是非オススメします!(なお、以下役名は原作に従います。なにしろ、その方が書きやすい!)
で、本題ですが、この作品はシェイクスピア晩年の作品で、妙に明るく達観した感じなのが特徴。
「謀略によって国を追われ離島に流れ着いた王様の復習譚」という書き方をすると、四大悲劇のような、おどろおどろしい作品に思えるかもしれませんが、全然情念を感じない原作だってことが、わたしには重要だと思えるんですよね。
で、舞台の方ですが、国を追われたプロスペロー役の人形が予想に反して黒髪だったってことが、わたしには気になった。(つまり、白髪じゃない!)
感じとしては、俊寛とか崇徳上皇みたいな島流しにあった人のイメージなんだろうけど、原作の仙人めいたプロスペローより、どうも人間臭い感じ…。
つまり、文楽では登場人物は人間臭くないとドラマにならないんだな、とういうのがわたしが今回の舞台で感じた最初の発見でした。
そして、プロスペローが使う妖精という存在が、どうも文楽にはマッチしない。まさか、忍者にするというわけにも行かないし、タヌキとかきつねでも困るだろうし、なかなかよい代案はわたしには思いつかなかったなあ~。ここは難しいところですね。
で、今回の舞台でよかったのは、プロスペローの娘役(美登里)のくどきが、妹背山のお三輪みたいでよい見せ場だったこと。(人形は勘十郎)
ただ、よく考えてみると、この役って文楽や歌舞伎における田舎娘のパターン(具体的には、緑の着物など。)とはちょっと違うといえば違う。むしろ、「二十四孝」の八重垣姫的なお姫様だっていうのが本当の役の性根であって、でなければ、ナポリの王子に一目惚れするところが俗っぽくなってしまいますよね。(ここはそもそも、純粋な者同志の恋愛みたいな、キリスト教的な聖性を感じる恋愛のイメージですから。)
また、プロスペローを落としいれた弟、プロスペローを恨む怪物、プロスペローを殺そうとする道化(この舞台では幇間みたいな感じだったけど。)の存在感がどうも薄く、芝居のスパイスになっていない。
原作だと、上記のような悪者を飲み込むような、善悪の彼岸にいる達観した人物が主人公のプロスペローだというイメージなのですが、悪が弱く、そのくせ、プロスペローの身なりや雰囲気に情念が残るため、なんだか「恩讐の彼方に」みたいな和解劇に思えてしまうところが、どうも…。
そのこととも関係あるのですが、南国風の美術のもつ開放感と芝居の暗い情念がマッチしてなくて、わたしにはどうもチグハグに思えてしまったなあ~。(いっそ、伴天連風の衣装の方が合っていたのかもしれない。)
舞台の暗転や鶴澤清治のきらびやかな音楽はいつもの文楽にないタイプの「明るさ」を持ち込んだとは思いますが、そもそも題材が文楽の持つ庶民の情念と相容れないために、どうも個人的にはノれなかったですね~。
それと、ひょっとしたら、プロスペローは大僧正みたいな容姿の方がよかったのかもしれないな~。
また、最後にプロスペローの口上になるところ。
ここはシェイクスピアの遺言とも取れる箇所だっていう予備知識がないと、暗幕の前のプロスペローの人形の意味が引き立たない感じ。でも、繰り返すようだけど、最後だけ髪が白髪になるみたいな演出の方が、衣装チェンジだけよりよかったと思いますね~、昔話っぽくて。
というようなことで、どうも批判がましいことばかり書きましたけど、わたしも文楽には新作が必要だと思うので、僭越ながらここで幾つか提案を!
もしやるなら、シェイクスピアより、イタリア・オペラの方が文楽に合っていると思います。
というのも、イタリア・オペラの方が人間臭くて、歌舞伎や文楽なんかの「さあ、さあ、さあ~」というような、シチュエーションによる人物の追い込みパターンが生かせると思えるんですよ。
そういう意味では、ヴェルディの「アイーダ」を歌舞伎にした野田秀樹はさすがに鋭いって思えますね~。
で、よく学者やなんかで、「近松門左衛門の作品の改作は人間ドラマとしてダメだ」というようなことを言っている人がいるけど、これは文楽のよさを判ってないですよ。
近松の改作って、だいたい因果とか情念が過剰な方向に向く改作だったりするけど、そのグダグダ感こそが文楽のよさで、すっきりとした人間悲劇みたいなパターンは、残念ながら日本の庶民には支持されてこなかった。
そのことを考えれば、情念ぐだぐだ原作を翻案するか、新たに作るかしないと、よい文楽の新作にはならないんじゃないのかな~。
たとえば、国立劇場で募集した新作脚本の入選作『蓮華糸恋曼荼羅(はちすのいと こいのまんだら)』なんて、文楽にしたら凄い傑作になると思うんですけど、どうですかね~。わたしだったら、豊竹嶋大夫の語りで聞きたいところですよ~。
というわけで、ながながと書きました。でも、「文楽のよさって何だろう」って考える材料としてはとてもよかったです。
なお、今回では咲甫大夫のちゃりばっぽいところがよかったなあ~。それと文字久大夫。文楽で楽屋落ちっぽい語りが出てくるのも新作ぐらいだから楽しかった!
それと、やっぱり鶴澤清治の三味線ですね~。
あとは、呂勢大夫の見台が布袋寅泰のギターみたいな柄だってことが妙に気なった!(いままで気づかなかったなあ~。)
というわけで、くれぐれも原作を予習しとくこと。その方がはるかに舞台を楽しめますよ!
芝居を観る前、「念のために予習が必要かな~」と思って、松岡和子さん翻訳の『テンペスト』(ちくま文庫)を読みました。
今にして思えば、コレが正解でしたね~。学生時代に読んだ福田恒存訳より断然読みやすい!これから観る方にも是非オススメします!(なお、以下役名は原作に従います。なにしろ、その方が書きやすい!)
で、本題ですが、この作品はシェイクスピア晩年の作品で、妙に明るく達観した感じなのが特徴。
「謀略によって国を追われ離島に流れ着いた王様の復習譚」という書き方をすると、四大悲劇のような、おどろおどろしい作品に思えるかもしれませんが、全然情念を感じない原作だってことが、わたしには重要だと思えるんですよね。
で、舞台の方ですが、国を追われたプロスペロー役の人形が予想に反して黒髪だったってことが、わたしには気になった。(つまり、白髪じゃない!)
感じとしては、俊寛とか崇徳上皇みたいな島流しにあった人のイメージなんだろうけど、原作の仙人めいたプロスペローより、どうも人間臭い感じ…。
つまり、文楽では登場人物は人間臭くないとドラマにならないんだな、とういうのがわたしが今回の舞台で感じた最初の発見でした。
そして、プロスペローが使う妖精という存在が、どうも文楽にはマッチしない。まさか、忍者にするというわけにも行かないし、タヌキとかきつねでも困るだろうし、なかなかよい代案はわたしには思いつかなかったなあ~。ここは難しいところですね。
で、今回の舞台でよかったのは、プロスペローの娘役(美登里)のくどきが、妹背山のお三輪みたいでよい見せ場だったこと。(人形は勘十郎)
ただ、よく考えてみると、この役って文楽や歌舞伎における田舎娘のパターン(具体的には、緑の着物など。)とはちょっと違うといえば違う。むしろ、「二十四孝」の八重垣姫的なお姫様だっていうのが本当の役の性根であって、でなければ、ナポリの王子に一目惚れするところが俗っぽくなってしまいますよね。(ここはそもそも、純粋な者同志の恋愛みたいな、キリスト教的な聖性を感じる恋愛のイメージですから。)
また、プロスペローを落としいれた弟、プロスペローを恨む怪物、プロスペローを殺そうとする道化(この舞台では幇間みたいな感じだったけど。)の存在感がどうも薄く、芝居のスパイスになっていない。
原作だと、上記のような悪者を飲み込むような、善悪の彼岸にいる達観した人物が主人公のプロスペローだというイメージなのですが、悪が弱く、そのくせ、プロスペローの身なりや雰囲気に情念が残るため、なんだか「恩讐の彼方に」みたいな和解劇に思えてしまうところが、どうも…。
そのこととも関係あるのですが、南国風の美術のもつ開放感と芝居の暗い情念がマッチしてなくて、わたしにはどうもチグハグに思えてしまったなあ~。(いっそ、伴天連風の衣装の方が合っていたのかもしれない。)
舞台の暗転や鶴澤清治のきらびやかな音楽はいつもの文楽にないタイプの「明るさ」を持ち込んだとは思いますが、そもそも題材が文楽の持つ庶民の情念と相容れないために、どうも個人的にはノれなかったですね~。
それと、ひょっとしたら、プロスペローは大僧正みたいな容姿の方がよかったのかもしれないな~。
また、最後にプロスペローの口上になるところ。
ここはシェイクスピアの遺言とも取れる箇所だっていう予備知識がないと、暗幕の前のプロスペローの人形の意味が引き立たない感じ。でも、繰り返すようだけど、最後だけ髪が白髪になるみたいな演出の方が、衣装チェンジだけよりよかったと思いますね~、昔話っぽくて。
というようなことで、どうも批判がましいことばかり書きましたけど、わたしも文楽には新作が必要だと思うので、僭越ながらここで幾つか提案を!
もしやるなら、シェイクスピアより、イタリア・オペラの方が文楽に合っていると思います。
というのも、イタリア・オペラの方が人間臭くて、歌舞伎や文楽なんかの「さあ、さあ、さあ~」というような、シチュエーションによる人物の追い込みパターンが生かせると思えるんですよ。
そういう意味では、ヴェルディの「アイーダ」を歌舞伎にした野田秀樹はさすがに鋭いって思えますね~。
で、よく学者やなんかで、「近松門左衛門の作品の改作は人間ドラマとしてダメだ」というようなことを言っている人がいるけど、これは文楽のよさを判ってないですよ。
近松の改作って、だいたい因果とか情念が過剰な方向に向く改作だったりするけど、そのグダグダ感こそが文楽のよさで、すっきりとした人間悲劇みたいなパターンは、残念ながら日本の庶民には支持されてこなかった。
そのことを考えれば、情念ぐだぐだ原作を翻案するか、新たに作るかしないと、よい文楽の新作にはならないんじゃないのかな~。
たとえば、国立劇場で募集した新作脚本の入選作『蓮華糸恋曼荼羅(はちすのいと こいのまんだら)』なんて、文楽にしたら凄い傑作になると思うんですけど、どうですかね~。わたしだったら、豊竹嶋大夫の語りで聞きたいところですよ~。
というわけで、ながながと書きました。でも、「文楽のよさって何だろう」って考える材料としてはとてもよかったです。
なお、今回では咲甫大夫のちゃりばっぽいところがよかったなあ~。それと文字久大夫。文楽で楽屋落ちっぽい語りが出てくるのも新作ぐらいだから楽しかった!
それと、やっぱり鶴澤清治の三味線ですね~。
あとは、呂勢大夫の見台が布袋寅泰のギターみたいな柄だってことが妙に気なった!(いままで気づかなかったなあ~。)
というわけで、くれぐれも原作を予習しとくこと。その方がはるかに舞台を楽しめますよ!
![]() | テンペスト―シェイクスピア全集〈8〉 (ちくま文庫)ウィリアム シェイクスピア,William Shakespeare,松岡 和子筑摩書房このアイテムの詳細を見る |
![]() | 野田版歌舞伎野田 秀樹新潮社このアイテムの詳細を見る |
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます