エッセイ的な何か

エッセイ的な「何か」です。
エッセイなのかコラムなのかダイアリーなのか自分でもよく分かりませんが「何か」です(笑)

武士語

2008-02-19 | 世の中の出来事
若い世代に侍言葉 メールで人気・品格魅力「お主、異なこと、面妖な」(産経新聞) - goo ニュース

どうやら最近は「武士語」というものが流行っているらしい。
時代小説や時代劇、後はゲームや漫画からの影響もあるらしいとのこと。
俺の周りでは、まだこんな言葉遣いする人や、こんなメールを受け取ったりしたことはないけど、こういう言葉を集めた本が20代~30代の女性に好評らしいですね。
俺も一応その世代だけど、俺の知り合いの女性にはまだ使ってる人は居ないな。
まあ、実際に直接目にしてないので実感は無いけど、でも流行ってはいるらしい。
流行るのは別にどうでもいいと思うし、使いたい人の間で盛り上がるならそれはそれで有りだと思う。

ただ、「知的なイメージがあって品がある」的な部分が、この武士語が受けている要因らしいけど、よくよく考えてみたら、ルー大柴の使う「ルー語」と大差無いんだよね。これ。
なんでも「ルー語等に大差を付けてトップ」とか書かれてたけど。

「ルー語」っていうのは、基本的に日本語の会話ので、単語だけ英語を使用して話す言葉。
この武士語も、本当に武士の使っていた言葉を再現するなら、特定の単語だけじゃなくてその前後も昔の言葉にすべきですよね。いわゆる高校で習った古文。
まあ、これは武士語に限らず、時代小説や時代劇もそうなんだけど、実際に江戸時代や戦国時代等は現代と言葉が違っていたわけで、時代小説や時代劇にあるような言葉遣いはしていなかったはず。
そう考えると、基本的に今の日本語の上に、特定の単語だけ古文を用いるというのは、「ルー語」と同じ構造かな?と単純に思った訳です。

いや、別に時代小説や時代劇に「きちんと昔の言葉を忠実に再現しろ」と言いたい訳じゃ無いんですよ。そんなことされたら何言ってるのかこっちも、訳分からなくなるし(笑)。「おかしいだろ?」と文句を言いたいわけでもない。
あれはあれで雰囲気は出てると思うし、分かりやすくて良い(笑)
ただ、よくよく考えたら本来武士が使ってる本当の言葉は、もっともっと違ってて、いわゆるこの「武士語」というやつは、「ルー語」のような結構いい加減な言葉なんだよなあ~。ということを、なんとなく考えた。
という「こんな風に思いました」という記事でした。

ブログに関するあれこれ

2008-02-18 | ブログに関するあれこれ

今日は色々と書きたいことがあります。
とは言っても、とりとめもない話なのでとりとめもなく書いていきますが

・トラックバックについて思うこと

トラックバックというか、ブログ間でのブログ観(駄洒落のつもりではありません)の違いというか・・・
こんなTB頂きました

「参加」という意味から派生して「エントリー」になったのではないか?

内容に関しては書かれてあるとおり、「へえ~、なるほどね~」と感じました。
それはそれで良いんです。TBありがとうございました(笑)
で、「エントリー」に掛かる話は「それはそれ」として、今回のこのTBを貰って考えたことがもう一つ
「そもそもTBに関しての考え方が違うなあ」ということ。
と言うか、実は俺自身もこういうTBの使い方を以前やったことがるんですけどね。
コメント的な使い方というか、ある記事を目にしてそれに関して思ったことや感じたこと等を自分のブログで記事にして、それを相手の記事にTBとして送る。というやり方。
ただ、俺の主観なのかもしれませんが、gooブログでは、このTBのやり方はあまり一般的では無いように感じます。と言うのも、今まで自分の記事に付いたTB等を見てもgooブログでは「関連記事の紹介」という目的でのTBがほとんどで、そう言う使い方が一般的だと思います。特に相手の記事に言及する事は無く、「俺もそれと同じテーマでこんな記事書いたよ」という感じ。
そういう環境でやってきたので、俺自身も「TBって基本的にそんなもんなんだなあ」と感じていましたし、そう認識していました。
これは、相手に感想や意見をするのならばTBではなくてコメントで十分という考えがあったからかもしれませんね。考えてみればgooブログってかなり長いコメントも送ることが出来ます。試したこと無いけど文字数制限が無いと思えるくらい。
他のブログでは、コメントに文字数制限があったりして、その違いがTBにもこんな違いを生んだのかもしれませんね。

で、こんなブログ記事も見つけました

個人ニュースサイトとトラックバック

システムとしてのトラックバックとして、一応の容認はしてますけど、TBはあくまで人と人との繋がりの方が重要であるという感じの事を書かれてますね。
gooブログ巡りではあまり感じなかったけど、他の(特に「はてなブログ」)ブログを巡ったときにTBと言うものの在り方について、色々と違うんだなあと感じました。

まあ、ただgooブログに多いように思われる単なる「関連記事の紹介」的な使い方だとしても、俺のように「そんなもんなんだ」と受ける側が納得してれば、たいした問題ではないかもしれません。(あからさまなスパムTBは迷惑意外の何物でもないけど)
でも、しっかり自分の記事そのものに対して言及してくれているTBは貰って嬉しいものだと、今回そう感じました。

・RSSリーダー始めました

今までてっきり「RSSリーダー」って有料コンテンツだとばかり思ってて、ずっと敬遠してたんですけど、これ無料だったんですね(笑)
元々は、本当に単なる勘違いなんだけど、一番最初に何故か「RSSリーダーって有料だ」と思い込んでしまって、それ以来無条件で避けていました。
だから、特に調べもせず「RSSリーダー」って言われても「そんなシステムがあるんだ」程度の認識で、具体的にどんなものか分かりませんでした。
それでも、最近結構耳に(目に?)するようになって、とりあえず調べてみたんです「RSSリーダー」というものを。
そしたら無料で使えるじゃありませんか・・・・(笑)

今まではIEブラウザの「お気に入り」を利用してブログを見てたけど、それを若干便利にしたような機能ですね。
まだ導入したばかりなので、これから色々と機能を覚えて使いこなせるようになりたいと思ってます。
でもこれ、登録できる所が限られてるんですね、gooブログは問題ないけどはてなブログ等は対応してないみたい。ライブドアブログはOKでした。

・サイト紹介

今回TBを頂いた「BLOG15.NET」のYOSHIさんから「DONTAKT」で俺のブログを知ったというコメントを頂きました。

DONTAKT

「へえ~、こんなサイトがあったんだ」
「本当だ、俺の記事が一応リンクで載ってる」
と、自分の記事を取り上げてもらってたことも嬉しかったけど、結構興味深い記事が集められていて、眺めてても面白かったです。

・最近雪が多い!困ったもんだ

え~っと、そのままです(笑)
今年は雪が少なめで推移してるから良かったと思ったら、最近多くなってきて困ったもんです(笑)
まあ、こればっかりはどうしようもないけど、ただアパートの前の道路の除雪車が除雪後の残り雪を俺の駐車場にこんもり置いていくのは、どうにかしてもらいたいと思っている。
・・・・これは何一つブログに関連してないけど(笑)


こんな空気なら読めなくていいや

2008-02-15 | 「生き方」「在り方」みたいなもの
goo注目ワード ピックアップ・・・KY式日本語(goo注目ワード) - goo ニュース

「gooニュース」からこんなニュースを目にしました。
KYに始まって、こんな事になってたんですね。
記事中の一文
>どうしよう、会話の意味がわからない。でもここで意味を尋ねたら、自分もKY?

俺、もうそう言う意味でのKYならそのままKYでいいや。
人と人との関係、コミュニケーションをとる上で、常識的に場の雰囲気を読むべき所を読めないKYはちょっと嫌だけど、KYと呼ばれたくない為にこんな略語を必死で覚えるような真似はしたくないし、そんな自分はもっと嫌だと思った。

このニュース記事の締め
>ああどうしよう、KY語が全くわからない。でも自分はAKYで行こう、振り回されずに。そんなスタンスでいるのも、時には必要なことかもしれませんね。(gooサーファー)
うんうん。これには俺も同意。
俺もAKY(=敢えて空気読まない)で行こう。

エントリー

2008-02-12 | ブログに関するあれこれ
ブログで「エントリー」という言葉がよく使われている。
俺は、ブログを初めてから2年になろうというところだけど、最近になってこのエントリーという言葉の意味を知りました。
今までは、あまり気にしていなかったというかgooブログでは「記事」という表現で使ってる場合が多い(俺の主観によるものだけど)気がするためか、あまり気にならなかったんだけど、最近特に「はてなブログ」で特に良くこの「エントリー」という言葉を目にして気になって調べてみました。

主に「記事」の意味で使われてることが多いけど、「コンテンツデータ1件単位」をエントリーと呼んでいるそうです。
ブログの記事も、それに含まれるため「エントリー」と。
使われた方の例としては
・昨日のエントリーには沢山のコメントありがとうございました
等々

しかし、俺、この「エントリー」に凄い違和感があるんだけど・・・

とりあえず、英語の「entry」に「記事」の意味は無い模様

取り敢えず「エントリー」と言われて思い浮かぶ意味は
「大会等に参加登録すること」
だと思う。他には「入っていく」とか。
正直、エントリーではそれ以外思い浮かばない。
試しに、ネット上にある翻訳サイトで和訳を試みてみた

・エキサイト翻訳 : 「entry」→「エントリー」
・Yahoo!翻訳   : 「entry」→「入場」
・livedoor翻訳   : 「entry」→「エントリー」
・OCN翻訳サービス : 「entry」→「入力」
・翻訳@nifty   : 「entry」→「エントリー」

1つだけだと信憑性に乏しいので、グーグル検索の翻訳で出てきたサイト5つで調べたらこのような結果でした。
ちなみに、日本語の「エントリー」を広辞苑で調べたところ
「大会等に参加登録すること」
とありました。
入場や入力も、この登録と繋がる部分がありますが、概ねエントリーとはそう言う意味ってことですね。

だとすると、やっぱり「記事」の事を「エントリー」と言うのには抵抗がありますし、違和感がありますね。
記事を入力する行為、コンテンツを作成する為の入力行為、それを指して「エントリー」って事なんだろうけど(「エントリー」と呼ばれる由来を検索してみたけれど、由来については解らず)「入力する行為」を指して「エントリー」なら解る。でも出来上がった記事自体を「エントリー」と言うのはどうなんだろう?
やっぱり記事は記事と言う方がしっくり来ると、俺は思う。

まあ、「『エントリー』ってのはブログ用語で、記事という意味の固有名詞だ」って言われればそれまでだけど、ブログの記事を指す為に、まるっきり新しく作られた言葉を固有名詞として使うならわかるけど、「エントリー」という言葉をそのように使うのは紛らわしいことこの上ない。
今まで「エントリー」という言葉の使い方を見るたびに「あれ?」と違和感を感じることがあって、でも「まあ、いっか」とあまり気にしないようにしてたんだけど、今回やっぱり気になって調べてみました。

まあ、でも広く一般にブログの世界では「エントリー」という言葉が認知されているらしいので、次からは「エントリー」=「記事」と置き換えて読んでみることにします。
gooブログでも、更新順に最新数件分の記事のことを「Recent Entry」と表現してるしね。
ただ、自分では使わないなあ「エントリー」は。参加登録という意味でなら使うけど。俺は「記事」と書きます。
やっぱり、違和感あるしね。

バレンタインデーは楽しく

2008-02-11 | 恋愛関連

「バレンタインデーは『女性からばかり贈る』というのは不公平だ」
みたいな事を言う女性がたまにいるんですよね。
もちろん、ごくごく一部の人の事で「たまに耳にするかな」程度のものだけど、それでも「たまに耳にする」程度の頻度では耳にする。
世の中の女性が全てそうじゃないのは十分に分かってるし、今の日本におけるこの「女性から男性へ贈る」というシステムのバレンタインデーでも十分にこのイベントを楽しんでる女性の方が多いと思います。
最近はショッピングセンター等では例外なくバレンタインデー特設コーナーがあって、多くの女性が楽しそうにチョコレートを選んでいて「ああ、楽しんでるんだなあ」と感じます。

確かに諸外国では男女ともに贈り合ったりするところもあるみたいだし、逆に男性から女性へって所もあるのかな?
ただ、それでも俺が思うのは
「べつに義務じゃないよ?」
と言うこと。
別に必ずこの日に女性は男性にチョコを贈ったり、想いを伝えなければならないというものではない。当然のことだけど。
「下らない」なんて想うのならば、こんなイベント最初から無視したっていいんだし、妙にソワソワしてる男性を見て楽しんでてもいい(笑)

つまりは、確かに「女性から男性へ」という一方的な部分もあるイベントだけど、でも別にマイナスな要素があるイベントな訳ではない。義務ではないのだから。
それに乗っかかりたい人は乗っかかって、思いを伝えるなり、またはバレンタイン特有の雰囲気を楽しんだっていいだろうし、要するにプラスになりこそすれ、マイナスにはならないだろう?ということ。
何も無しの平常は、つまりはゼロなのだから、バレンタインが気にくわないならその人はゼロでいいと思う。それでもゼロなんだから良いじゃん別に?と。
マイナスだという人は「周りは楽しんでいて浮ついてる分、ゼロで何も楽しめないのは相対的にマイナスだ」なんて言うんだろうか?でも、それってただの僻み・・・・・

まあ、それはともかく、今回たまたまバレンタインデーで関連してこう思ったんだけど、これってバレンタインデーに係わらず、結構日常いろんな場面であることだなあとも思った。
下手にプラスがあれば、贅沢に加速が付いてというか・・・そもそもゼロに対してプラスなはずなのに、「プラスで当たり前」的な感覚になっちゃって、そのプラスを嬉しく思うどころか逆に不満ばかり見つけてしまうと言うようなこと。
これって、俺自身も意外にいろんな場面でやってそうで気を付けないとなあと、改めて思った所です。

バレンタインデーに話を戻すと
「女性から男性へ贈るというシステムが気にくわない、不公平だ」
と言うんじゃなくて、
「そういうのをする為の良いチャンスだ」
というべきじゃないかな?
これは、たまたまシステムが「女性→男性」で、俺が男という立場だから、なんか俺がこういうと嫌らしく聞こえるかもしれないけど、逆に例え日本のバレンタインデーが「男性から女性に思いを伝える日」というシステムで成り立ってたとしても、俺は全く同じ主張をします。する、必ず。(笑)

でもまあ、冒頭でも述べた通り大半の女性は、素直に純粋にこのイベントを楽しんでるみたいですし、敢えて声を大にしてあ~だこ~だと言う程の事でもないんですけどね。
ただね、たまに不平不満をいう人がいるから、
「物事はプラスに捉えた方が徳だよ?というか無理にプラスに捉えなくても良いけど、最低でもゼロでいいものを、わざわざ自分からマイナスで捉えちゃったら、それこそ損をするだけだと思うけどなあ・・・」
と、思ったので、ここでひっそりと記事にしてみました。

P.S
今回の記事ですが、なにげに過去記事の
利用しているのか、されているのか
と内容が被ってる部分があったなあ・・と思ったので取り敢えず自分でリンク(笑)
まあ、何というか過去の自分の主張と一緒で良かったなあと。
自分自身で「前に言ってたことと全然違う」なんてなったら・・・・ねぇ(笑)


三権分立?

2008-02-08 | 知識・勉強的なもの

国会の予算委員会での答弁のシーンだったかな?たまたまニュースで放送しているのを目にして、何となく思ったこと。
今色々と話題になってる、道路特別財源云々とかそういうのとは全く違うことだけど「三権分立」というものについて。

「三権分立」という言葉を習うのは、確か中学の頃だと思った。
中学の公民の授業の時。
三権分立っていうのは、国家の権力を立法・行政・司法の3つに分散・独立させて、それぞれに他の権力を抑える権限を与えて、国家権力のパワーバランスを図り、権力の集中・濫用を防ぐのが目的・・・とか、こんなだったと思う。
で、一番最初に

立法権=国会
行政権=内閣
司法権=裁判所

と習うんですよね。
教科書なんかは、この3つの機関が三角に配置されて、それぞれに矢印を引っ張って、こういう権限をお互いに持ってる、というような図が載ってた気がする。

自分で言うのもなんだけど、俺は、結構純粋な少年だったので(笑)、これを素直にそのまま受け取っちゃってね~。しばらく苦労した記憶があります。
これ、そのまま素直に覚えちゃ駄目ですよね。頭なの中がこんがらかります。
どういう事かというと、要は現在の議院内閣制。
三権分立だ、それぞれに独立だ、お互いに牽制し合うだとか言ってるけど、内閣の長たる総理大臣は国会議員から指名されるし、内閣の最低でも半数以上は国会議員だし(国務大臣の過半数は国会議員から選ばれるから)
外側の殻だけ違ってても、それを被ってる中の人は同じとうか。
・・・なんだよ、国会と内閣って中身ほぼ一緒じゃん?っていう事ですよね。
これを最終的に「そういうシステムだから仕方ない」と割り切るまで、結構頭の中が「????」してましたよ。

ん?あれ?三権分立で国会と内閣って別もんだよね?
え?なのに内閣総理大臣は国会議員なの?
国務大臣の過半数は国会議員?え?なにそれ?

議院内閣制って、制度自体が、なにやら三権分立と矛盾してるように思えてしかたない。
いや、政府(内閣)が議会(国会)の信任のうえに成り立ってても、それはそれで良いんだけどね、中の人が同じってのは根本的におかしくないか?三権分立という考え方で考えた時に。

それに、「国会=立法機関」であるならば、国会議員ってのは単純に考えると本来「立法」が仕事なわけで、なのに国会議員が「政治家」と呼ばれている時点で「?」と思っちゃうし。
「政治家」ってのは行政=内閣なんじゃないの?と。
立法と行政の境界が限りなく曖昧で、三権分立なんて実は言葉だけで現状では立法と行政にあまり境は無いよ・・というのを端的に表しているのが「国会議員=政治家」という認識そのものじゃないだろうか?
それに、国会議員は選挙に立候補するときに「私はこういう施策をして、こういう社会を実現させます」って、まるっきり行政なことを言ってますしね。

あと、司法に関しても最高裁判所の裁判官は内閣が決めてるし・・・

結局実際のところ三権はそこまで厳格に分離していないということ

ああ、これって問題発言かな?(笑)

んと、別に今の日本の制度の在り方に批判を唱えてるんじゃなくて、これで今まで機能してきてるんだから、これからも(改良すべき点は改良を重ねてもらうとしても)続けていいと思ってます。
ただ、中学の公民あたりの、こういう政治関係する勉強のとっかかりの時点で、現在の議院内閣制がこんなシステムなのに
「三権分立」で「司法・行政・立法」はそれぞれに独立・分離してます。
なんて言われると、混乱しないか?普通?

俺、そのせいでシステムを理解するのに苦労しましたもん。
内閣と国会って結局中の人一緒だから実際は同じようなもんじゃねえの~、全然分権してないじゃん。って。
実際、日本の議院内閣制は全然三権分立じゃないという意見も聞いたことがあります。

こんなこと思ったの俺だけかな?とか思って書いてみました。
三権分立というものを習った後で、現在の議院内閣制の制度を、すんなりと何の疑問を抱かずに納得できてたのかなあ~。
ちなみに、「三権は実際現実には厳格に分離できてないよ~」と、当時の教師が一言でも付け加えてくれてたら、あのころ理解するのに苦労しなかっただろうになあ。

「おまえが頭悪いだけだよ」って言われたらそれまでだけど・・同じ思いした人いないかなあ?いると思うんだけどなあ(笑)


無駄と贅沢

2008-02-05 | ちょっと考えた事

休みの日、思う存分に惰眠を貪り、目が覚めてみると昼だったり既に午後だったりすると「損した~」と激しく後悔することがあります。

でも最近、「無駄に使える時間ほど贅沢だ。」と思う事もあって、眠りたいだけ眠り、ただゴロゴロ~っと、本当に「無駄」と思える時間を、無駄と知りつつあえて無駄に使う。
すると「なんか、今、俺、凄い贅沢な時間の使い方してるんじゃないか?」なんて思ったりすることがあるわけです。

考えてみたら、そもそも贅沢っていうのは「無駄に使う」という側面が少なからず伴う行為で、確かに物事すべて余分な部分を取り除いて、常に必要最小限度という生活に「贅沢」という言葉は入り込む余地は無いように思われます。
一般に「贅沢」と言って思い付く事はなんだろうと考えてみると、ブランド物の高いバックだとか、高い高級料理だとか、高い車だとかetc・・・
要するにもっと安いもので代用できる所を、敢えて高い物を用いることだったり、数限りあるものを後先考えず浪費してみたり、結局はそう言うこと。
宿泊するにも、雨風を凌いで一泊するという目的達成の為だけだったら、ビジネスホテルで十分だし、列車で移動するにも目的地に到着したいという目的達成の為だけだったらグリーン席は必要ない訳で・・・そこに出てくる贅沢というのは、「目的達成のために必要となる我慢を減らす事、その為に費用を掛ける」といった事なのだろう。

で、贅沢が必ずしも悪かというとそういう訳でもなくて、なにかしらの贅沢が生きる目標というか、生きる楽しみ、活力になっている部分もあるだろうし、「自分へのご褒美」なんて、ちょっとした贅沢をして、ちょっとした幸せを感じたりするのは、誰しもがやっていることなんじゃないかなと思います。

ちょっと話の矛先が逸れたので、元に戻るとして(笑)
無駄と贅沢というのは、そう言う意味では紙一重というか、どちらにもそれぞれの要素が含まれていて、本質的には一緒なものというか。
だから、「無駄にした」というのも「贅沢をした」というのも、実は気持ちの切り替え一つで+にも-にも受け止められたりする・・・かもしれない。と言うことです。
実際にお金が絡んだりしてくると、単純に「無駄じゃなくて贅沢だよ」とか言ってもられない状態になるかもしれないけど、今回は主として「空いた時間の使い方」について、「ああ、こんな事だったら○○したほうがナンボかマシだった~」とか後悔する前に「無駄~に時間を浪費するってのも、ある意味贅沢な事だよね~」と思うと、精神衛生上にもよろしいのではないかと。
それによって失った物と言えば、元々空いていた僅かな時間だけなんだから。

別に、たいして「考え方を変えたら物事がガラリと変わった」的な事じゃなくて、そういうのを狙ってるわけでもなくて、狙うほどの事でもなくて、単に部屋でウダウダやってる時に、ふと思い付いて「ちょっと記事にしてみようかな?」と思っていたことを書いてみました。
それだけ。


大往生

2008-02-01 | ちょっと考えた事
親戚のじいさんが亡くなりました。
その関係でちょっと色々とあって忙しかったんだけど、享年94歳ということで、大往生でした。
まさに「天寿を全うした」という事だと思う。

人が亡くなって、「喜ばしい」だとか「嬉しい」等というのは確かに不謹慎で、「人の死」と接する時の態度ではないと思うし、人としてどうだろうと思う。
だけど今回のように、寿命を全うして亡くなったような場合は「お悔やみ申し上げます」とか「ご無念の事と心中お察しします」・・と言うともまた違うような気がする。

「死」というものは、大体にしてマイナスのイメージで取られがちである。
まあ、その大体の場合は間違っちゃいなくて、確かに「死」はマイナスの感情である場合がほとんどであるのは事実だと思う。
何故「死」がマイナスなのか。何故痛ましいのか。それは多くの場合、本人の意に反して強制的に「生」を終了させられてしまうからだと思う。
悪意のある他人に殺されるといった「殺人」による「死」は最もたるものであると思うし、事故にしろ、病気にしても、「まだ生きられるのに、ここで終えなければならないのが無念でしょうがない」といった事だと思う。

ただ、これが寿命で逝った場合はどうだろう?
元々人の生は有限であって、誰しも必ずいつかは死ぬし、これは最初から定められている、どうしようもない事実であり運命。
途中の不慮のハプニングで終了する人生と違って、寿命で終える人生というのは、いわば「人生を最後までやりおおせた」と言うことであって、「死」は「死」でも、迎えるべくして迎えた「死」というか・・・

だから、今回無くなった親戚のじいさん。
確かに「亡くなった」という事実は重くて、厳粛に受け止めねばならない事ではるけど、今回の場合は「悔しい」とか「悲しい」というよりも「天寿を全うして逝けた。大往生だ」という意味で、その人をむしろ「祝ってやるべき」というか、亡くなったからといって、ただただ悲しんでばかりいるのは逆にそのじいさんに失礼にあたるような気がして。

焼香をあげ、手を合わせ一例したとき
「今までお疲れ様でした。最後まで人生を全うできたことは幸せな事だったと思います。どうか安らかに」
との気持ちを向けました。
旅立つ友を涙ではなく笑顔で送る心境というか・・それに近い感覚です。

冒頭で述べたように、人の死に対して「喜ばしい」等という言葉を使うと、「死者に対して喜ばしいとは何事だ!」となるかも知れないけど、今回のように、天寿を全うして逝くべくして逝った故人。自分の人生を最後まで全うした故人は、人間ならばいずれ必ず迎えなければならない「死」を、もっとも幸せな形で迎えることが出来たという意味で「喜ばしい事」だったのではないかとも思います。

最後まで人生を生ききる。
俺の目標でもあります。

・・・故人への哀悼の意とともに。