エッセイ的な何か

エッセイ的な「何か」です。
エッセイなのかコラムなのかダイアリーなのか自分でもよく分かりませんが「何か」です(笑)

「受け入れてみる」という姿勢

2008-05-06 | 「生き方」「在り方」みたいなもの
ionaさんがご自身のブログ内の

盗んだパンを分かち合うことギフト☆王様の耳はロバの耳

という記事で

「こう考えると、人生は変わるよ。」大越俊夫著

という書籍とその内容を紹介されていました。

『子供がパンを盗んできたら
責める前に 一緒に食べるってこと・・』

『凶悪犯罪は別にして 
子供がそうしたいと感じた動機を共有して 一緒に味わう
それから 一緒に罪を犯した事を償う

許すという形からではなくて
受け入れて 共有して そこから・・・』

・・・・そう言えば、不良の集まりだった学校に元ヤンキーの先生が赴任して更正させたという内容のドキュメント番組を前に見たことがあります。
映画(ドラマだったかな?)になった「ヤンキー先生~」とはまた別なドキュメント番組だったんですけど、その元ヤンキー先生の指導の仕方というのが、厳しく指導をするのかと思いきや、実は全くの逆で、まずは相手の立場に立ち、相手の言葉に耳を傾け、時には一緒になって騒いだりし、そうやって少しづつお互いに信頼関係を築いて行くというものでした。
その不良たちへのインタビューでも「(ヤンキー先生)は本当に俺たちの話を聞いてくれるんですよ。それが嬉しかったです。他の先生は綺麗事ばかり・・・」みたいな事を言ってました。

そうやって考えてみると、この本に書いている事とも共通項がありますね。

組織的な犯罪や、大人になってから起こす重大犯罪等は別にして、まだまだ精神的にも未熟な子供が起こす、小さな悪事というのは、要するに

「誰かにかまってもらいたい。自分を見て欲しい。受け入れて欲しい。」
という気持ちの表れでもあり、そしてその上で
「親身になって、真に叱って欲しい」
とも思ってる部分ってあるんでしょうね。
自分でも悪い事だと認識していながらも、そういう理由から起こしてしまう行動。そんなものもあるんでしょう。

だとしたら・・・・うん。
ただ「駄目だ」と決めつけるのではなくて、まずは受け入れて、共有して、そして許してやるという事は、大人としてとても大切な対応のあり方なんだろうなあ・・と。
最近

褒めるという指導

という記事を書いたのもあって、それとも関連してそんなことを思いました。


ただ、とは言っても実際に俺がその立場に立ったとしたら・・・

「甘えるな!」

と言って一刀両断してしまいそうです(笑)
教師とか親とか警察官とかに喰って掛かって、「お前らはいつも綺麗事ばっかりだ!」なんて言う不良いるけど
「教師が綺麗事・正論を言わなくて誰が言うんだ?」
「教師だからこそ綺麗事を、あるべき姿を語らないと駄目だろ?」
なんて思ったりもするんですけどね、俺は。

でも・・・うん、まあ未熟な子供を相手に一歩こちらが引いて、まずは受け入れてやるだけの大人としての度量というのも大切って事ですね。
これも気をつけていきたい事だと思いました。

2 コメント

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TBありがとうございました! (iona69)
2008-05-06 11:09:46
”盗んだパンを”・・・実は 娘が幼稚園時代 友達のオモチャを取ってきたのです。叱りましたね~! 腹が立って~!  この本を読んだ時に その時のこと思い出しました。人よりも体が小さくて 皆と同じような運動機能がなくて 悔しさ一杯抱えてた娘は無意識に『欠如感』を感じていたのかも知れない。 一緒に盗んできたオモチャで遊んで その後で一緒に謝りに行ってあげてたら 娘の中でオモチャで埋めた隙間よりも 母親と遊んで埋まった気持ちを残してくれたのでは・・?と・・・ 職業として正論を言うことに関しては同感です。仕事上では私も嫌われる覚悟で正論も突きつけますが 親子って~ 肉親の愛って やっぱり違うんですね。 ・・・長文ですいません。 
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コメントありがとうございます (卯月)
2008-05-07 00:34:40
>iona69
いえいえ、こちらこそコメントありがとうございました。
立場上とるべき対応は様々あると思いますし、一概にどれが正解と言い切るのも難しいのかもしれませんが、こういう心構えも大切だなあと思いましたよ。
実践するのはなかなか難しそうですけどね。
参考になりました。
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