乱鳥の書きなぐり

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説経節 5     劇中歌「ほうやれほう」舞台さんせう太夫より

2024年08月26日 | 説経節、幸若舞、舞の本等
  説経節 5  


劇中歌「ほうやれほう」舞台さんせう太夫より







詞章とその変遷

  詞章は全体に因果律を説く霊験物が多いが、浄瑠璃の影響を強く受ける以前と以後では、形式・内容ともに大きな変化がある。



古説経の詞章

 本地語りと古説経特有の語り口 明暦以前の、いわゆる「古説経」冒頭には、 国を申さば丹後国、金焼地蔵(かなやきじぞう)の御本地(ごほんじ)を、あらあら説きたてひろめ申すに、これも一度(ひとたび)は人間にておわします。

 … — 明暦2年刊、佐渡七太夫正本『せつきやうさんせう太夫』  というような本地語りがある。

 ここでは、神仏が神仏になる以前の姿、いわば神仏の本源(本地)である人間について語られる。

 そして、この詞章をみると、七五調あるいはその変形を単位として語られており、たとえば、丹後を信濃に、金焼地蔵を親子地蔵に入れ替えると『苅萱』の本地語りに、あるいは国を美濃、神仏を正八幡の荒人神とすれば『をぐり(小栗判官)』の本地語りになる。




説経与七郎正本『さんせう太夫』(寛永16年頃)

  人買いによって船で丹後に運ばれる安寿姫と厨子王丸。 このような定型的な文句は、他にも随所にみられ、

   「あらいたはしや○○」

   「○○これを御覧じて」

   「○○げにもと思ぼしめし」

の空欄部分に登場人物の名を挿入すると、さまざまな作品の詞章となり得る。



 古説経では、他の語りものにはみられない卑俗な日常語や方言、訛言がふんだんに用いられ、また、敬語の過剰な多用や道行における独特のスタイルなどにきわだった特徴がある。


 さらに、古説経特有の語り口として注目されるものに

   「旅装束をなされてに
 
   「かっぱと起きさせ給いてに

などにおける、おもに助詞の「て」につく間投詞の「に」の存在がある


 これは、4種の古説経の正本いずれにも共通してみられ、三都の太夫が別々に語っておりながら語り口における見事な統一性が確認できるのである。


 これについては、元来伊勢方言ではないかという説(高野辰之)、さらに加えて、説経者のなかで有力なグループ(伊勢のささら説経)が他に支配的な影響をおよぼしたのではないかとする説(室木弥太郎)などがある。



 本地語りなどにみられるこのような定型的な文句について、現在おこなわれている瞽女唄イタコの祭文などの語り方と比較すると、その詞章の特徴は、口承文芸として長く語りつがれてきた結果ではないかと推測できる


 というのも、語り手は、暗記した詞章をそのまま逐語的に語るのではなくて、多くの決まり文句をみずから蓄えていて、聴き手を前にして随時これら常套句を取捨選択し、組み合わせながら、その場で自由に物語をつむぎ出していったのであり、口演の一回ごとにオリジナルな演出をほどこしていたのである。


 20世紀アメリカ合衆国の叙事詩学者ミルマン・パリーと弟子のアルバート.B.ロードは、古代ギリシアのホメロスの叙事詩や現代ユーゴスラヴィアの口誦詩人の研究等を通じて、無文字社会における口承文芸は、このような韻律に合う決まり文句を容易に入れ替えて語られることを解明し、これを「オーラル・コンポジション」と命名した。



 古説経の詞章はおそらく、この方法で記憶され、再現され、伝承されたものと考えられる。




道行文と地名

 本地語りは、限られた日常的な時間・空間から聴衆を解き放ち、非日常的な、未知な領域へ引き入れていくという効果もあったと思われる。

 しかし、これは遠国の霊地や霊仏を実見し、それにまつわる霊験譚や因縁話を熟知していなければ語り出せない性質のものでもあった。


 それと同様に、説経節に特徴的な詞章として道行(旅)の過程を述べた「道行文」がある。


『平家物語』や『太平記』にも名所案内も兼ねた道行の場面があらわれるが、代表的な説経節といわれる『かるかや』『さんせう太夫』『をぐり』『しんとく丸』『あいごの若』もまた、いずれも道行文を含んでいる。



 また、地名については、作品の内容そのものに直接の関係が全くないにもかかわらず、具体的な特定の地名をはっきりと述べていることが注目される。


『土佐日記』『伊勢物語』以降の上古・中古の文学にあっては、歌も物語も、場所と内容とが互いに分かちがたく結びついており、能楽や軍記物における道行の下りは、たえず土地の歴史をふりかえる素材となり、また、土地情報の圧縮版のような意味合いがあった


 これは、説経節においても同様であり、人びとは地名を聴くだけで過去の出来事や歌・物語・人物などを想起し、しばしばこの部分だけの語りを演者に求めることさえあったようである。



 なお、室木弥太郎は、それが実際に語られた場所に応じて、地名を入れ替え、庶民が当該地において篤く信仰した神仏を引き合いに出すことによって、その物語のリアリティを保証する意味もあったのではないかと推定している。




 一方、道行の詞章には正本による限り、季節の描写が確認できない


 これは、説経の者たちがどの季節に語っても、聴衆にそのときどきの季節として想像してもらうためであろうと考えられる。




 浄瑠璃の影響 万治以降の正本になると、新たに古浄瑠璃の影響を受けた序があらわれ、文字によって描かれた作品に近づいていく。


 それつらつらおもんみるに、人倫の法義を本(ほん)として、君を敬い、民をあわれみ、政事(まつりごと)内には五戒を保ち… — 万治4年刊『あいごの若』 




『あいこの若』二段目(寛文10年頃刊行)

 人形劇となった影響で合戦シーンも登場している。

 こうした重々しい教訓的な言葉によって演者の威厳を示すようになり、一方、かつて野外芸能だったものが劇場芸能となったことから旅の必要がなくなり、地方の寺社や神仏が、しだいに都市の聴衆に無縁のものになっていったことから、従来の「本地物」形式はすがたを消失していく。


 また、従来は段に分かれていなかった説経が浄瑠璃同様、全体が6段に分けられるようになったが、室木弥太郎はこの変化を万治元年(1658年)以降のことと推定している。


 そして、それぞれの段末には「上下万民おしなべて、感ぜぬ者こそなかりけれ」という古浄瑠璃特有の形式句が付加されるようになり、さらに、各段のあいだには余興を入れて聴衆を飽きさせないような工夫をほどこしている。



 そのほか、操り人形が活躍するハイライト・シーンとして合戦の場面を設けるなどの工夫を加え、言葉遣いも古説経風の方言や俗語を捨てて、より標準的で洗練されたものになってくる


 これらは、いずれも劇場進出に向けた一連の改革ととらえることも可能である。



 しかしながら、このような変化は一方で、泥臭くとも庶民のための口承文芸として生きつづけてきた古説経独特の生命力やその独特な味わいを喪失していく過程でもあった


 なお、旧作品の改作や新作が急速に進み、浄瑠璃の改作がおこなわれるようになったのも万治以降のことである。



音曲的特色と聴衆 「クドキ」

  録音機器のない時代の芸能については、音声資料を欠くことから、その音曲的特色を説明するのは容易ではないが、江戸中期の儒学者太宰春台の著作『独語(ひとりごと)』には、説経節について、 其の声も只悲しきの声のみなれば、婦女これを聞きては、そぞろ涙を流して泣くばかりにて浄瑠璃の如く淫声にはあらず。



 三線ありてよりこのかたは、三線を合はするゆえに鉦鼓を打つよりも、少しうきたつやうなれども、甚だしき淫声にはあらず。

 言はば哀みて傷(やぶ)ると言ふ声なり




太宰春台『独語』  という記述がある。

 太宰春台『独語』  という記述がある。

 太宰春台 著書『独語』において、説経節の音声を「哀みて傷る」と表現した。

 春台の説くところによれば、浄瑠璃が「淫声」(「みだらな声」または「人の意表を突くような歌い方」)であるのに対し、説経節の語りは、三味線をともなってからは多少「うきたつ」ところが生じたものの、哀しみのあまり傷つき、破れてしまったかのような哀切の声(「只悲しきの声」)であるという。




 尾州家本『歌舞伎絵巻』でも、これを裏づけるかのように、説経節の聴き手のうちの何人かは顔をおおって泣いている


 古説経の節譜としては、

    コトバ(詞) フシ(節) クドキ(口説) フシクドキ ツメ(詰) フシツメ
の6種が確認されており、そのうち、
    「フシ」「フシクドキ」「フシツメ」
は歌謡的要素を含むと考えられる。



 基本的には、「コトバ」「フシ」を交互に語ることで物語を進行させていったものと考えられるが、「コトバ」は日常会話に比較的近い、あっさりとした語り方であったろうと考えられるのに対し、「フシ」は説経独特の節回しで情緒的に、歌うように語ったものと思われる。


「クドキ」「ツメ」以下はわずかしかあらわれないが、「クドキ」はおそらく沈んだ調子で悲しみの感情を込め、くどく語り、「ツメ」は拷問など緊迫した場面での語りであったろうと考えられる[27]。「フシクドキ」「フシツメ」はそれに節を付けたものであろう。


 上の6種以外に、
    「キリ」「三重」「ワキ」
という符号が付される例がまれにあるが、「ワキ」が太夫の補佐役がワキから入り、太夫と合わせ語りをしただろうと考えられるほかは、詳細がよくわかっていない。



 説経節の正本には「いたはしや」「あらいたはしや」という言葉が何度も登場するが、与七郎正本『さんせう太夫』を例にとると、フシは20カ所中14カ所、フシクドキは1カ所中1カ所、クドキは1カ所中1カ所、それぞれ「いたはしや」または「あらいたはしや」のフレーズで始まっており、ここに顕著な符合がみられる。



 他の正本では、この関係がそれほど明瞭でなかったり、
     「あはれなるかな」「流涕(りゅうてい)焦がれ泣きにける」
のような語が使われる場合もあるにはあったが、
     「いたはしや」「あらいたはしや」
の語を哀感を込めて歌い語るところに説経節の語り口における顕著な特色があったと考えられる。



 文政13年(1830年)の喜多村節信『嬉遊笑覧』は宝暦10年(1760年)刊行の『風俗陀羅尼』から「いたはしや 浮世のすみに天満節」という冠付(雑俳の一種)の句を引用し、宝永元年(1704年)頃に江戸の天満八太夫が没した後、天満節はかつての隆盛が嘘のように衰えてしまったことを詠んでいるが、ここでは「いたはしや」の語が説経の語り口をあらわすことも同時に詠み込んでいるのである。


 説経節という芸能の淵源は仏教における唱導や説経であったところから、本来的にはきわめて宗教性の強いものであったろうと考えられるが、それは決して理路整然とした仏教教義を説くようなものではなく、中世の民衆がいだいていた救済や転生などの強い願いに直接うったえかける情念的なものであった。


 中世日本における民衆生活は、商行為としての人身売買が存在しており、また、たび重なる戦乱や一揆のなかで抑圧され、蔓延する疫病や頻発する災害に打ちひしがれる悲惨なものだったのであり、人びとが現世に希望をもてないことも多かったと考えられる。

 したがって、説経節の語り手のみならず、それに耳を傾ける聴衆もまた、社会的に底辺に近い人びとが多く、主人公の悲惨な境遇や果敢な行動に共感し、身につまされては泣き、あるいは、過激なまでの復讐に溜飲を下げ、そこから自らの魂を解放させていたと考えられるのである。



(ウィキペディア)
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