乱鳥の書きなぐり

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説経節 3  操り興行の盛衰 現在、説経節は、板橋や八王子、秩父など東京近郊の限られた地域に何人かの太夫を残すだけ

2024年08月26日 | ことのは
説経節 3  操り興行の盛衰 現在、説経節は、板橋や八王子、秩父など東京近郊の限られた地域に何人かの太夫を残すだけ




説経節

操り興行の盛衰


 近世に入り、説経節は小屋掛けで操り人形とともに行われるようになり、都市大衆の人気を博した。

 戸外で行われる「歌説経」「門説経」から「説経座」という常設の小屋で営まれるようになった。

 浄瑠璃の影響を受け、伴奏楽器として三味線を用いるようになったのも、おそらくは劇場進出がきっかけで、国文学者の室木弥太郎は寛永8年(1631年)より少し前を想定している。


 また、『さんせう太夫』など正本にのこる演目は、一話を語るにも相当の時間を要し、かなり高度な力量を必要とした。


 とりわけ後述する与七郎や七太夫などといった演者は第一級の芸能者であり、もはや、ただの乞食ではない。

説経者の流派は、玉川派と日暮派が二分し、関東地方では玉川派、京阪では日暮派が太夫となったが、ともに近江の蝉丸神社(上述)の配下となり、その口宣を受けた。


大坂 畠山其山撰『色道大鏡』(1678年)巻八 (左側2行)「説経の操は、大坂与七郎といふ者よりはじまる」の文が確認できる。


 延宝6年(1678年)成立の『色道大鏡』巻八に「説経の操(あやつり)は、大坂与七郎といふ者よりはじまる」とあって、寛永16年の正本『さんせう太夫』冒頭に記された「摂州東成郡生玉庄大坂、天下一説経与七郎」と同一人物と思われる。

 これによれば、寛永年間(1624年-1644年)、大坂天王寺の生國魂神社(生玉神社)境内で操り説経を興行したと伝え、『諸国遊里好色由来揃』の説にしたがえば与七郎はもと伊勢国出身のささら説経の徒であったという。

 この「説経与七郎」の名代は幕末まで続いている。



『色道大鏡』はまた、明暦(1655年-1657年)から寛文(1661年-1673年)にかけて、説経七太夫も興行を行ったと伝えており、この七太夫が江戸の佐渡七太夫(後述)の前身ではなかったかとの推定もある。



 ほかに、大坂二郎兵衛という説経者の存在も確認されているが、その系統や所属は不明である。



 京都 京都では、日暮林清らによって鉦鼓を伴奏とする歌念仏が行われていたが、この一派から日暮八太夫や日暮小太夫があらわれ、寛永以前から四条河原で説経操りを興行したと伝えられている。

 正本の刊行などから推定して寛文年間が京都における説経操りの最盛期であったと考えられ、葉室頼業の日記(『葉室頼業記』)によれば、小太夫による寛文4年(1664年)の説経操りは後水尾法皇の叡覧に浴すまでに至っている[1]。なお、「日暮小太夫」の名跡は宝暦(1751年-1764年)の頃まで続いたと推定されている。



  説経操りは、大坂・京都を中心とする上方においては義太夫節による人形浄瑠璃の圧倒的人気に押され、江戸にくらべて早い段階で衰退してしまった。


 浄瑠璃が近松門左衛門の脚本作品をはじめ、新機軸の作品を次々に発表して新しい時代の要請に応えたのに対し、説経操りは題材・曲節とも、あくまでもその古い形式にこだわったのである。




  名古屋 上方についで名古屋でも説経操り芝居が演じられた。

『尾張戯場事始』によれば、寛文5年(1665年)、京都の日暮小太夫が名古屋尾頭町で説経操りを興行している。

 そのときの演目は
「コスイ天王(五翠殿)、山桝太夫、愛護若、カルカヤ(苅萱)、小栗判官、俊徳丸、松浦長者、いけにえ(生贄)、小ざらし物語」
と記載されており、曲目がこのように明瞭に残された記録は珍しい。




 衰退期の様相は不明ながら、三都と軌を一にしているものと思われる。

 しかし、幕末期の名古屋においては、新内節の岡本美根太夫があらわれ、説経祭文と新内節とを融合させて新曲を創始しているが、これは「説経源氏節」(または単に「源氏節」)と称されている。


 江戸・東国 江戸は三都のなかでも説経座が最もさかんであった。


 正保(1644年-1648年)の頃から佐渡七太夫が堺町(現在の日本橋人形町)で、万治(1658年-1661年)頃には初代天満八太夫が禰宜町(現在の日本橋堀留町)で興行をおこなった。

 佐渡七太夫の「佐渡」の名は、興行的に成功を収めた地の名に由来するものではないかという説がある。

 近世初頭にあって、佐渡金山を擁する佐渡島は多数の鉱山労働者が押し寄せ、娯楽の一環としての説経節には興行に対する高い需要があったと推察されるからである。




 また、天満八太夫は寛文元年(1661年)に受領して「石見掾藤原重信」を名乗っている。


 佐渡七太夫の方は、2代目が天和(1681年-1684年)の頃に活躍し、3代目の佐渡七太夫豊孝という説経語りは正徳・享保(1711年-1736年)の頃、説経の伝統を守ろうと努めて正本を盛んに刊行した。



 元禄(1688年-1704年)の頃、江戸では天満重太夫、武蔵権太夫、吾妻新四郎、江戸孫四郎、結城孫三郎らが櫓をかかげて説経座を営み、江戸における人形操りの最盛期の様相を呈しており、説経太夫としては村山金太夫や大坂七郎太夫の名が知られる。


 

 18世紀初頭をすぎると江戸の人形操りは衰退し、享保年間(1716年-1736年)にあらわれた2世石見掾藤原守重あたりを最後に江戸市中の説経座は姿を消した。

 佐渡七太夫豊孝の時代はすでに説経節は衰微しており、彼が刊行した正本には説経の古典とも呼ぶべき演目が多くふくまれる。




 有銭堂清霞の『東都一流江戸節根元集』によれば、延享(1744年-1748年)年間、説経節は江戸や地方の祭礼などでまれにみられる程度となってしまったと記されている。


 江戸ではその後、寛政(1789年-1801年)の頃、小松大けう・三輪の大けうという山伏によって説経が語り伝えられ、祭文と説経節とを結びつけた説経祭文がおこり、享和(1801年-1804年)の頃には、本所の米穀店の米千なる人物が按摩(盲人)の工夫した三味線を用いて説経芝居を再興させた。

 この系統から薩摩若太夫が出たものの、説経芝居はやがて衰えてしまった


 ただし、その流れはわずかに伝えられて、明治時代に入って若松若太夫があらわれている。薩摩若太夫の流れを薩摩派、若松若太夫の流れを若松派といい、両者を「改良説経節」と呼ぶことがあるが、ともに座はもたなかった。



 江戸時代後期以降、説経は大都会を離れ、主として農村地域における屋外芸能に回帰して、その芸能としての余命を保った。説経は、零落した牢人によってになわれることもあり、かれらは江戸で「乞胸(ごうむね)」という組織をつくって他者による口演を嫌ったが、一方、香具師もまた売薬の方便から説経浄瑠璃を語ったところから、乞胸と香具師の利害はしばしば衝突した




 現在、説経節は、板橋や八王子、秩父など東京近郊の限られた地域に何人かの太夫を残すだけとなってしまっている。
 (聴きたい)


 八王子や西多摩地方の八王子車人形や写し絵などとともに行われる薩摩派の薩摩若太夫(13代目)、板橋を中心に活動する若松派の2世若松若太夫(1919年-1999年)・3世若松若太夫(1964年- )、天満派の天満八太夫の活躍が新しい。


 なお、明治維新ののち、薩摩派の太夫が福島県会津地方に門付に入ったところ、旧会津藩の人びとが宿敵薩摩を称する者だとして太夫を迫害したため「若松」を名乗ったという逸話も今日に伝わっている。
(ウィキペディア)
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