乱鳥の書きなぐり

遅寝短眠、起床遊喰、趣味没頭、興味津々、一進二退、千鳥前進、見聞散歩、読書妄想、美術芝居、満員御礼、感謝合掌、誤字御免、

大和文華館  富岡鉄斎 ―知の巨人の足跡― 特別企画展 没後100年   2024.05

2024年05月19日 | 美術・文様・展示物

 大和文華館  富岡鉄斎 ―知の巨人の足跡― 特別企画展 没後100年   2024.05

 

 大和文華館に行く。

 富岡鉄斎の作品は、大和文華館でたびたび紹介されているが、手紙の軸などの初公開の展示品もあった。

 富岡鉄斎は筆のマメな方で、お礼の手紙などををこめてかかれていたようだ。

 またタケノコがおいしいだのとほほえましいエピソードも具体的に記されている。

 今回の展覧会で富岡鉄斎というお人柄がよく、愛妻家であったのではないかとも受け取られる作品や写真が多く掲げられていた。

 

 富岡鉄斎の絵も力強いが、字も力強い。

 そのくせ空間や行間がしっかりととられ、バランスが美しい。

 大きな屏風などは、左に文字が書かれているかと思えば、右に枝がシューッと伸び、動きがある。その屏風は、右から見れば文字のバランスが絵にはまり、左から見れば、左の文字と右端に出た枝が対称の構図を取って描かれ、見事であった。

 

 墨の色が美しく青墨の赤墨も絵に合わせて使われている。

 あまりの美しさに見とれた。そして奈良の墨屋で自分用にと、昭和47年制の古墨を購入した。

 

 さすがの鉄斎といった感じで、今回の展覧会でも朱の鍾馗さまのお軸がかかっていた。

 しかし逆さの朱鍾馗ではなく、頭が上の立像であったことを付け加えておきたい。

 

 富岡鉄斎は私としてはこれまではさほど意識してなかった。

 しかし会場を回り、改めて構図の重要性と余白大切さに気づかされた。

 

 

 

 5月17日の大和文華館の花

 

 

特別企画展 没後100年 富岡鉄斎 ―知の巨人の足跡― 

 2024年4月12日(金)~ 5月19日(日)  

 本年は、近代日本を代表する文人画家・富岡鉄斎(1836~ 1924)の没後100年にあたります。

 当館の鉄斎コレクションを中心に、豊かな学識と幅広い交友のもとに生まれた鉄斎芸術の世界をご覧いただきます。

 

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壬生狂言「炮烙割」と奈良の夜市での ほうらく灸

2024年05月19日 | 神社仏閣・祭り

  壬生狂言「炮烙割」と奈良の夜市での ほうらく灸

 

 壬生狂言「炮烙割」

 薪御能の帰り、奈良の夜市があるとのことで、こにしさくら通りともちいどの通りにたちよる。

 なんだかおもしろい景色が見られたので、気になったのが、下の写真。

 

 頭に焙烙を乗せ、急を据えていらっしゃる。

 試していらっしゃったのは、いずれさまも若人であった^^

 

 そういえば今年の京都の葵祭の斎王は、壬生寺のお嬢様だという。

 

 焙烙といえば、子供の頃に慣れ親しんだ壬生狂言。

 中でも炮烙割は二階から下に落とし、下からあれを子どもが見ていると大迫力であった。

 今はそういった鑑賞の仕方はできず、対面から見るにとどまるのかもしれないが、、、

 子どもたちはみな、【どんがらがっちゃん】と呼んでいたことを思い出す。

 

 

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法然 5  死後・嘉禄の法難

2024年05月19日 | ことのは

 

 法然 5  死後・嘉禄の法難

 アサヒクラブで法然について読んでいる。

 隙間時間を利用してのことだが、1/4は読めたような気がする。

 

 わたくしにも言えることだが、人間は自分中心に物事をとらえる。

 そこまでならば良いが、自己中心で物事が動くかの如く考えら場合、感情を爆発させることは度々みられる。

 

 集合体によっては多数が個に爆発をさせる場合があるが、例年では普通の行いに対して、白い牙を向ける場合がある。

 古参(私)と言ってしまえば聞こえが悪いし印象も悪い。が、逆に新参者が古参を脅かし,心無い言葉を投げかけてくる場合がある。

 別に気にしない風を装って気づかないふりをしてはいるが、心穏やかではない。

 集合体によって、好きな能楽が心から味わえなかったり、気分が阻害される場合があるが、集中して楽しもうと努力する。

 努力

 集中する努力。それこそが重要。

 上のような場合、何事においても気づかない風を装い、なおかつ集中する努力が不可欠なのである。

 

 日本人は傾向として宗教を持たない民族だといわれることが多い。

 その実私もいい加減なもので、かろうじて仏教、、、両親と先祖の墓は仏教だったな、、程度であった。

 その仏教知らずが、最近 仏像や仏教を学ぶ機会に恵まれている。

 理論こそあやふやなものだが、ここにきて一つ身についたことがあるので、ここで記しておこう。

 

   何事もほどほどに、そして許す心

 これは講義で教えられてないが、講義の要約の軸となることを要約し鑑みると、私が思うに宗教において大切なことは、細かな知識を身に付けることよりも、

   何事もほどほどに、そして許す心

が かなり重要であり、生きていく上で 生きやすさを感じるのではないかということである。

 聖徳太子の云う、いわゆる

   和を以て尊し

に通じるのではないかと考える。

 

 途中何度も挫折はしていたが、ブログを始めて6600日がたった。

 本日も吉日。乱鳥 健在也。

 

法然 1  京博のために、法然上人を下調べしてみる。

法然 2  生い立ちと出家・授戒

法然 3  長浄土宗の開宗 念仏すれば誰でも極楽浄土へ往生できることを知った聴衆たちは大変喜び、三日三晩、断えることなく念仏を唱え続けた。

法然 4  讃岐配流と晩年 

法然 5  死後・嘉禄の法難

 

死後・嘉禄の法難(ウィキペディア)

 法然の死後15年目の嘉禄3年(1227年)、天台宗の圧力によって隆寛、幸西、空阿が流罪にされ、僧兵に廟所を破壊される事件が発生した。

 そのため、信空と覚阿が中心となって蓮生(れんじょう、宇都宮頼綱)、信生、法阿、道弁らと六波羅探題の武士たちが護衛して法然の遺骸を嵯峨の二尊院に移送した。

 更に証空によって円空がいた太秦の広隆寺境内の来迎院に、更に西山の粟生にいる幸阿の念仏三昧院に運び込んだ。

 そして、法然の十七回忌でもある安貞2年(1228年)1月25日に信空、証空、覚阿、幸阿、円空らが見守る中で火葬して荼毘に付し、遺骨は知恩院などに分骨された。

 

天台宗 ここでは、延暦寺

コメント (4)
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