乱鳥の書きなぐり

遅寝短眠、起床遊喰、趣味没頭、興味津々、一進二退、千鳥前進、見聞散歩、読書妄想、美術芝居、満員御礼、感謝合掌、誤字御免、

 延年(えんねん)、延年舞(えんねんまい)について   安田次郎著の『自社と芸能の中世』(日本史リブレット 80)より

2019-09-15 | 読書全般(古典など以外の一般書)



  延年(えんねん)、延年舞(えんねんまい)について   安田次郎著の『自社と芸能の中世』(日本史リブレット 80)より




 延年(えんねん)とは  (ブリタニカ国際大百科事典 引用)
 平安時代中期から室町時代にかけて,興福寺や東大寺,長谷寺,延暦寺,園城寺など畿内の大寺院で,法会のあとや貴族接待などに行なわれた遊宴歌舞
 長寿を意味する遐齢延年(かれいえんねん)から名づけられたともいわれる。
 その担い手は,のちに僧兵とも呼ばれるようになる寺院内新興勢力の衆徒で,武力蜂起の際と同様の作法で延年を催すことも多かった。
 その芸能には,滑稽なことばで一山をほめ,仏をたたえて開会を告げる開口(かいこう),やはり滑稽なことばのやりとりで機知を競う答弁(とうべん),稚児による白拍子,若音(わかね),糸綸(いとより),舞楽などの歌舞や,僧による夫催(ぶもよおし),大衆舞,倶舎(ぐしゃ),連事,風流,猿楽,田楽などの演劇的所作がある。
 これらの芸能は,同時代に流行していた猿楽の芸を取り入れたと考えられているが,寺院の声明などの影響も認められる。
 室町時代後期以降,畿内の寺院ではしだいに行なわれなくなったが,地方寺院において,正月の修正会の行事として延年の芸能が行なわれるようになった。
 今日でも,岩手県平泉の毛越寺の延年や,栃木県の日光輪王寺,岐阜県の長滝白山神社(→六日祭)などで見ることができる。
 かつての延年の詞章は,多武峰延年(→多武峰)にまとまったものが残っており,興福寺には元文4(1739)年の『興福寺延年舞式』がある。

 延年(えんねん)とは (大辞泉引用)
 1 寿命を延ばすこと。長生きすること。
 2 「延年舞」の略。


 
 延年舞(えんねんまい)とは (大辞泉引用)
 寺院で、法会のあと僧侶・稚児たちが行った遊宴の歌舞。平安中期に起こり、鎌倉・室町時代に盛行。曲目は多彩で、現在は数か所でその面影を伝えるものが行われている。
 延年の舞。

 延年舞(えんねんまい)とは (大辞泉引用)
 寺院芸能の一。平安中期に興り、鎌倉・室町時代に最も栄えた。
 延暦寺・興福寺などの寺院で、大法会のあとの大衆(だいしゆ)の猿楽や稚児の舞などによる遊宴歌舞の総称。

 のちに遊僧と呼ばれる専業者が出現し、中国の故事に題材をとる風流(ふりゆう)や連事(れんじ)などは能楽の形式に影響を与えたといわれる。
 現在も地方の寺院にわずかに残っている。
 延年。

 延年舞(えんねんまい)とは (精選版 日本国語大辞典 引用)
 寺院芸能の一つ。
 僧侶、稚児たちが行なった歌舞。
 平安中期に起こり、鎌倉、室町時代に盛んに行なわれた。
 比叡山の延暦寺、奈良の東大寺・興福寺その他の大寺で、大法会(だいほうえ)のあとの遊宴の席で、余興として演じられたもの。
 伴奏楽器は銅鈸子(どうばっし)、鼓など。その種類は多く、のちには遊僧(ゆそう)という専門家も現われた。
 能楽中にもとり入れられている。延年。延年の舞。〔随筆・遠碧軒記(1675)〕



『天狗草子』という絵巻物があり、このブログでも何度か紹介させていただいているが、その中に、延年舞(えんねんまい)の場面が出てくる。

 僧兵たちが延年舞を円になって取り囲み、見てとなし無様子が細やかに描かれている。

『天狗草子』も好きな絵巻物の一つなので、その場面は覚えている。

 蔵書の絵巻物大成(上)の中には生憎『天狗草子』はないので、写真を載せられないのが残念。


 延年の後半には風流(ふりゆう)が行われたと、安田次郎著の『自社と芸能の中世』には記されている。


 維摩会の延年は、興福寺最大の法会の、藤原氏の祖である鎌足の忌日に合わせて十月の行われていた。

 こちらの様子はやはり馴染みのある絵巻物『春日権現験記絵巻』の維摩会の場面で絵が出てくる。


 延年の面子の問題などにも注目したい。


     当門跡に限り、代々に延年これあり。一乗院当職にはこれなし。
     (興福寺十二大会のししゅうえ(興福寺の法会のひとつ) 尋尊)
     (文明十五年十二月五日条)



 この跡、猿楽などに移るが、延年について調べたかったので記録はここにとどめたい。

 


 


 
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菅原道眞29 天神信仰はなぜ全国に広まったか。その理由理由にはまだ確信が持てない。今後の課題として茶を濁す。

2019-09-15 | 菅原道眞


 


  菅原道眞29 天神信仰はなぜ全国に広まったか。その理由理由にはまだ確信が持てない。今後の課題として茶を濁す。


 天神信仰の広まった理由  (ウィキペディアより引用)
 天神信仰(てんじんしんこう)は、日本における天神(雷神)に対する信仰のことである。特に菅原道真を「天神様」として畏怖・祈願の対象とする神道の信仰のことをいう。
 本来、天神とは国津神に対する天津神のことであり特定の神の名ではなかったが、道真が没後すぐに、天満大自在天神(てんまんだいじざいてんじん)という神格で祀られ、つづいて、清涼殿落雷事件を契機に、道真の怨霊が北野の地に祀られていた火雷神と結び付けて考えられ火雷天神(からいてんじん)と呼ばるようになり、後に火雷神は眷属として取り込まれ新たに日本太政威徳天(にほんだいじょういとくてん / にほんだじょういとくてん)などの神号が確立することにより、さらには、実道権現(じつどうごんげん)[1]などとも呼ばれ、『渡唐天神』『妙法天神経』『天神経』など仏教でもあつい崇敬をうけ、道真の神霊に対する信仰が天神信仰として広まった。

 

 天神信仰の発祥の地   (ウィキペディアより引用)
 北野天満宮と太宰府天満宮はそれぞれ独立に創建されたものであり、どちらかがどちらかから勧請を受けたというものではない。
 そのため、北野天満宮では「総本社」、太宰府天満宮では「総本宮」と呼称し、「天神信仰発祥の地」という言い方をしている。
 また、防府天満宮や與喜天満神社など最古の信仰発祥の地を称するところも複数ある。
 ただし「日本三大天神」などと称する場合には、太宰府天満宮を外して北野天満宮を残す例がある。

 

 各地の天神信仰   (ウィキペディアより引用)
 城の守護神として本壇に天神さまを祀っている松山城天神櫓(愛媛県)

 大名前田氏の家紋・加賀梅鉢
 北陸
 福井県や富山県では、長男が誕生するとそれ以後の正月、床の間に天神像(木彫や掛軸)を飾る。福井の一部地域では1月25日にカレイを供える風習がある。この掛軸などは、母方の実家から送られる。これは幕末の頃に教育に熱心であった福井藩藩主松平春嶽が領民に天神画を飾るよう推奨し、それを富山の薬売りが広めたという説がある。また、富山藩や加賀藩(石川県)など前田氏の他の支配地域や隣接地域でも同様の風習があった。金沢市には正月に天神と複数の従者の木像を飾る風習が昭和30年代まで見られた。前田家は菅原氏の出を称しており、その領内には天神社・天満宮が他地域に比べて大変多い。前田家の家紋が天神の神紋と同じ梅鉢紋であるのも、先祖が菅原氏であるためとされる。ちなみに前田家の家紋は「剣梅鉢」(加賀梅鉢)と呼ばれている。

 その他の地域の例
 広島県北部
 子供の初節句に、天神像等の人形を贈る。三次人形を参照。
 東京板橋区
 関東最古の天神信仰である。梅木の霊力で疫病が退散し梅木を祭祀し天神信仰が始まった。

 

 天神信仰はなぜこれほどまでに広まったのでしょうか? (Yahoo知恵袋 https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12184326462)
 ↓
 ベストアンサー
 
 天神信仰は怨霊信仰から徐々に農耕神、学問神、訴訟に勝つ神や正直な神、仏教守護神と変化します

 菅原道真は「天満大自在天神(てんまんだじざいてんじん)」という神号が授けられますが、「天満」は「天魔」、「大自在天」はインド神話に登場する破壊と再生を司る神シヴァの漢訳名です
 天魔とは仏教修行を妨げる他化自在天界に住む天人のことで、第六天魔ともいいます
 他化自在天界に住む天人は自分より下層に住む天人や人間の快楽を、自分の快楽として受ける能力があるために、そこで快楽が減るの止めさせようと、修行者を妨げるとされます
 大自在天と他化自在天は本来は別の存在ですが漢訳仏典では混同され、道真の畏怖と落雷という実害から、「天満(テンマン=”あまみつる”)」と「天魔(テンマ)」が掛けて「大自在天神」となります
 またシヴァ(大自在天)の守護獣は牛なので、天神と牛は密接にかかわります
( 今もインドが牛を神聖視するのはシヴァとの関係からですね)

 で、落雷から天候を司る、また牛は農作業にかかわるので農耕神として信仰されます

 学問神としては和歌との関わりであり、中世日本では和歌は神仏の心に通じる神聖なものとされ、寺院や神社で盛んに奉納されます
 そこで和歌の神として道真が信仰されます
 特に室町時代には臨済宗の禅僧が好んで道真を禅画(禅の心を画いた絵)の題材とし、特に道真が唐に渡って禅の教えを受けたという「渡唐天神」という伝承までが生まれ、禅の隆盛も天神信仰の拡大に寄与します

 道真は藤原氏の讒言で左遷されたことから、正直を尊ぶ神であり冤罪を晴らす神として信仰され、領主や武士にもその面が好まれ、当時は契約の際には神仏の名を列記して違約しないことを誓いましたが、天神はそこには必ずといっていいほど書かれます

 仏教守護神としては道真は生前に比叡山と近い関係があり、生前に第三代天台座主、円仁(慈覚大師)の『顕揚大戒論』の序文を書いています
 天神伝説には、天台僧の尊意の前に道真の怨霊が現れて、藤原氏を守護する祈祷を引き受けないように願い出るという話があり、また大峰の金峰山(天台系修験が主力です)には天神が大峰の守護神の一つであり、また地獄の高官として醍醐天皇に懲罰を与えているという伝承があります
 道真は生前に観音を深く信仰していたので、十一面観音の化身としても信仰されて、そこから極楽浄土へ導く神ともされます

 また藤原氏も比叡山とも深く関係があったので、その面でも道真を恐れる気持ちから天神信仰と天台宗との関係性を一層に強める方向に進んでいったと思います
 そして藤原氏との姻戚関係などもあって、中世の地方氏族は藤原氏との関係から建立する寺院は天台系が多くなったことも、天神信仰の拡大に寄与したと思います
 また天台だけでなく真言宗側でも、道真は弘法大師の生まれ変わりという信仰が生まれ、このように仏教守護神として宗派の拡大と共に信仰が広まります

 さらに強力な怨霊神ですから他の怨霊を降す力も期待され、非業の死を遂げた人がいる土地に、あえて天神を祀って怨霊を封じるということもあります

 つまり他の怨霊信仰にはない、道真という人には個人の能力だけでなく、政治的・社会的・時代状況的関係性があったことで、他の怨霊信仰にはない様々な神格が生まれたんですね

      ということらしいですが、まだ調べていません。

 

 天神信仰はなぜこれほどまでに広まったのでしょうか?(Yahoo知恵袋)という質問に対して、さらに、こういうのがありました!!!

 ZXさん   (Yahoo知恵袋 https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12184326462)
 祟りの内容が凄いほど、神として祀れば凄いご利益があると思われたから。

 現世利益と御霊信仰。


 


 菅原道眞 (道真)
 菅原道眞1 東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ
 
 菅原道眞2 秀才道真、業平と親交が深かったか…

 菅原道眞3 東風吹かば… 春を忘るな・(春な忘れそ) 『大鏡』『拾遺和歌集』

 菅原道眞4 メモ

 菅原道眞 5 大宰権帥に左遷。「日本三代実録葉」完成を報告したのは、時平と大蔵善行(901年)

 菅原道眞6 菅原道真は ろ号券 五圓紙幣にも登場していた。

 菅原道眞7 手向山八幡宮 このたびはぬさもとりあへずたむけ山 紅葉の錦神のまにまに

 菅原道眞8 北野天満宮 梅花祭(御祭神菅公の祥月命日に行われる祭典) 2月28日

 菅原道眞9 北野神社 2014年2月28日 北野梅園 梅!只今五分咲きです。(4景)

 菅原道眞10『北野天神縁起(光信本)』(北野天神 宝物殿)と、 絵馬堂の絵馬 

 菅原道真11 『北野天神縁起(光信本)』(北野天神 宝物殿)「牛が動かなくなった場面」や「雷となった道真さんから歌を教えられる場面」など

 菅原道眞12 北野天満宮 2014年2月 宝物殿 『北野天神縁起(光信本)』「長谷川等伯の大型絵馬」

 菅原道眞13 神戸 北野天満宮神社では展望台では異人館「風見鶏の館」と神戸港を見る事ができます。

 菅原道眞14 八坂神社・石見神楽『天神』 東風吹かば匂いおこせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ

 菅原道眞 15 天神祭  花火と船能 『翁』『羽衣』『土蜘蛛』観世流   2014年7月15日

 菅原道眞 16  菅原道真 16 名がわからない天満宮と、「菅原道真公」の絵馬  「稲葉そよびて秋風のふく」  (5景)

 菅原道眞 17 太宰府「梅ヶ枝餅」 元は梅の枝に栗餅を巻き付けて道真公に差し入れたらしい。 (5景)

 菅原道眞 18 仁左衛門が太宰府天満宮で「三月大歌舞伎」(歌舞伎座)成功祈願

 菅原道眞 19 仁左衛門丈が菅丞相 通し狂言『菅原伝授手習鑑』 三月歌舞伎座 チラシあり

 菅原道眞20 『決定版 番付集成』より「日本國中 天満宮鎮座」 青木美智男編 柏書房

 菅原道眞21 京都観世会9月例会〈其のニ〉 (能) 雷電 替装束 橋本忠樹

 菅原道眞22 『観世流謡曲続百番集』『雷電』(らいでん)  445頁から454頁(10枚)

 菅原道眞23(道真)菅原伝授手習鑑- 菅丞相 役も当たり役の十五世片岡仁左衛門丈が2018年、文化功労者賞を受賞

 菅原道眞24 北野天満宮所蔵『北野天神縁起絵巻〈承久本〉』「平成記録本」全9巻 京都文化博物館 京の至宝と文化 を御観覧いただいた方が昨日だけで70名を超えておりましたので、再度記録いたします。

 菅原道眞25 一月一日の初詣は散歩がてら。家から程なく近い天満宮家から程なく近い村の鎮守の天満宮に参り、菅原道眞様に祈願する。(4景)

 菅原道眞26 丹念に予習した漢文は断念っする羽目になったが、夫の配慮で京都文化博物館『北野天満宮 信仰と名宝 ―天神さんの源流―』に行くことができ、満足した。展示内容は後日記録したい。

 菅原道眞27 『北野天満宮 信仰と名宝 ―天神さんの源流―』 京都文化会館 2019年2月〜4月

 菅原道眞28 御霊信仰は私の好きな菅丞相(菅原道真)が関係有り。又、御霊会に関係部会田楽について

 菅原道眞29 天神信仰はなぜ全国に広まったか。その理由理由にはまだ確信が持てない。今後の課題として茶を濁す。



   ☆ ☆ ☆
 北野天満宮所蔵『北野天神縁起絵巻〈承久本〉』「平成記録本」全9巻 京都文化博物館 京の至宝と文化

 乱読記録2012年97:『日本絵巻大成21 北野天神縁起「承久本」』解説/ 岩波古典『菅原文草 菅家後集』

 『天神縁起の系譜』「北野天神絵巻」(承久本)から巻一、巻二 須賀みほ編




北野天神縁起絵巻 平成記録本 巻1


北野天神縁起絵巻 平成記録本 巻2


北野天神縁起絵巻 平成記録本 巻3


北野天神縁起絵巻 平成記録本 巻4


北野天神縁起絵巻 平成記録本 巻5


北野天神縁起絵巻 平成記録本 巻6


北野天神縁起絵巻 平成記録本 巻7


北野天神縁起絵巻 平成記録本 巻8


北野天神縁起絵巻 平成記録本 巻9 白描

  

『日本絵巻大成21 北野天神縁起「承久本」』解説/ 岩波古典『菅原文草 菅家後集』(7枚)

 日本絵巻大成 21 昭和54年 中央公論社より ▼



 


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