乱鳥の書きなぐり

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Tokyo 6 俳優座 音楽劇『人形の家』俳優座劇場プロデュースNo.108 作:イプセン 翻訳:原千代海 演出:西川信廣

2019年09月13日 | 舞台・芝居





  



Tokyo 6 俳優座 音楽劇『人形の家』

 俳優座劇場プロデュースNo.108
 2019年9月3日(火)~7日(土)



 作 ヘンリック・イプセン
 翻訳 原 千代海
 演出 西川 信廣
 作曲・音楽 上田 亨
 作詞 宮原 芽映

 出演 土居裕子/大場泰正/畠中 洋/古坂るみ子
     進藤 忠/長浜奈津子
     川口大地/本田玲央/納田洸太/樋山雄作
     仙崎貴子/竹本瞳子/宮田佳奈


 

 俳優座 音楽劇『人形の家』を見るにあたって、あらかじめ岩波文庫『人形の家』を読んでおいた。

 子供の頃から考えると今回読んだのは 5回目くらいであった。

 彼女の意思の強さ(幼子と彼女の行動から考えた身勝手さとも受け取れないわけでもない)から考え、ノーラのことは以下、日本語ではあえて「ノラ」と強調して表記させていただきたい。

 

 ここからは少し有名な役者が多くいらっしゃった俳優座やしない自体についても触れたい。


 音楽劇『人形の家』を見るにあたって、原作をいかに編集してあるのか、どこを膨らませてあるのかといった演出構成がされているかが楽しみであった。

 実際の舞台は、「愛」(現に会場前の舞台でも、また途中でも、クリムトのパネルが使用されていた。)を期待する部分が膨らませてあった。

 しかし、ほぼ岩波の原作の言葉のままで 7割りを演じ、芝居は進められた。

 


 初めから中場過ぎ頃(5/7位)までは三拍子で、あまりにも長い字余り。

 少し歌の部分を少なくされてもいいのかなと素人心でさえ感じた。だが、原作の翻訳の言葉に頼って、そこにこだわりを持っておられたのであろう。


 だが、はじめ部分の子供が母親であるノラにまとわりつき、
「今はダメ、あっちで待っててね(要約)」
と云った部分を省いてしまうと、ノラ自身の本質的人間性が見えてこないのでは!と脚本家に不満を覚えた。



 全体としては実際の舞台は、割合に重厚で興味深かったとも言える。

 不安定な三拍子は、ノラの心の揺れ動きや不安定さを表現されているのだろうかと思うと勝手に解釈して楽しむことにした。

 

 主役脇役中心になるの歌や言葉に合わせて、数人から八人の俳優女優たちが、内なる心の囁きの技法(?)で演じられる場面が多々あった。

 多々あったというより俳優座の養成的要素も含まれ、多用する必要があったかしらんと疑問を持った。



 こういった技法(?)は私が大学時代から多く見たことがある。

 このように描かれた舞台の表現法は、安部公房スタジオにも見られ、懐かしく感じた。

 10代後半の若かりし頃の私の微々たる感性が、私の体表面から息をこらし、少しほくそ笑む。

 
 
 後半のクライマックスの部分では4拍子に変わる。

 4拍子は力強く、安定。ノラの心の決断であったのだろうかと納得した。



 勝手な解釈で楽しむ、これぞ、素人趣味の醍醐味かもしれない。

 

 私は10代から本書のノラの生き方が嫌いである。何度読んでも、年を経ても、彼女の生き方に納得できない。

 今回、ノラに対しての拒絶的感覚は音楽劇を見て変わるのか、或いは変わらず嫌いなのかといった実験的鑑賞でもあった。


 だが結果はこうだ。

 舞台のノラを見てでさえ、過去5回ほど歳を変えて読んだ戯曲(小説)の中のノラに感じた時と同様。

 私の場合はノラの生き方自体に釈然とせず、また言い訳にしか聞こえず、原作のノラに腹がたった。

 腹がたち悶々とした気分が続き、朝までほぼ一睡もできなかった。


 結果一晩腹を立てて眠れるほど、ノラに反感を持っていた。

 そういったことを考えると、俳優座の役者さんたちや演出は大変上質でうまく、また良いお舞台であったと考える。

 ノラ役の女優さんも、医者役の俳優さんも表情や表現や間の取り方ががうまかった。

 夫が誘ってくれた俳優座であったが、見てよかったと思える舞台ではあった。何事も経験である。

 ただ、気がつけば10月には神戸があるとのこと。わざわざ東京で見なくても良かったのではないか?といった多少の動揺がちらほら、いらぬことは考えるが良きかなで心の内にしまっておこう。

 また、加藤剛さんなどの舞台を見て見たかったよ欲望は尽きない。

 

 俳優座劇場は客席から舞台がとても見やすく、良い劇場であった。


 周りを見渡すと、関係者や常連の観客の方々がかなり多かったような感じがした。

 おそらく以前は女優さんであったのでかしらんといったおしゃれな装いに身を包まれたご婦人や殿方もいらっしゃった。

 だが、梨園のお内儀の装いとはまるで違う。

 仁左衛門丈のお内儀様の装いなどを見慣れているため、カラフルなターバンなどを巻いた方々を見て、絵本『ナイルのワニくん(喰われたパリジャンヌの衣装)』を思い出してしまったのは、申し訳ない。

 私はお金持ちである方でコート(京都弁で、シック とか落ち着いた、品のあるというくらいの意味合い)からかけ離れた派手めのファッションにとんと疎い。

 

 俳優座のお舞台では、一幕が終わったあとや感動に値する役者さんの歌い終わりでさえ、拍手は全くない。



    しーん しずかだー

    おーい 誰もいないのかー        (谷川俊太郎)状態であった。


 それもそのはず、私は後方席であったが、周りには眠っておられる方々が多くいらっしゃる。


 気になったのは前方席中央席の客すら、誰一人として拍手がなかったこと。

 また、カテコも二度で盛り上がりはなかく、立ち上がるほど感激された方もいらっしゃらなかったようだ。

 無論、感動の言葉や役者名も飛び交わない。会場はお行儀よく、終わりのライトが照らされ帰りを急がされる。

  

 終わってからスタッフ(おそらく、役者さん。話す途中に、雰囲気を醸し出しておられた。)に質問させて頂いた。

 スタッフからは俳優座はいつもこんな状態だと教えて頂く。

「俳優座からはお客さんに、拍手をして下さいとも、しないで下さいともいってない状態です。俳優座はこれまで大体こんな感じです。商業演劇ではないので…」
とおっしゃる。

 舞台鑑賞にあたり、基本は拍手せよとかしてはいけないとかそういった決め事はなく、劇団や興行者からの指図はない。

 確かに俳優座からはお客さんに、拍手をして下さいともしないで下さいともい言ってない状態であるのは、一部を除けば俳優座に限らず理解できる。


 一部歌舞伎役者のようにうまい大向こうには食事を奢ったといったエピソードや、お現在でも大向こうの回まで発足されていることを考えると、例外もある。拍手をしない意味では能楽もまたしかり。


 能楽ですら、すり足の音が聞こえなくなるというのに、橋掛りを戻っていかれる途中でさえ爆発されていらっしゃる観客を見かける。

 逆に言えば、能楽で感激しすぎると、拍手がないという事実もあるのだが。その話はまた別の内容なのでここでは割愛したい。


 私は基本能楽は終了後あまり拍手はしないが、芝居やミュージカルやコンサートは商業演劇や小劇場の演劇に限らず感動すれば拍手をしてしまう。

 観客は心の内なる感動を無意識(あるいは惰性で)拍手という形を借りて役者に答え届けているのだとばかりに思っていた。

 現に小劇場でも、自主公演のような舞台であっても、わかりやすいところでは1970年代に三度ばかり見ただけの安部公房スタジオでも、拍手の渦が巻き起こっていた。

 スタッフのおっしゃる、商業演劇ではないのですから、拍手はないと言った馬鹿げた言葉は他の劇団では当てはまらないような気がするのだが、私は単なる素人観客なので実のところはわからない。

 

 東京ではお上品なのかと思い、ノリが悪いのだろうかと思っても見たが、翌日新橋演舞場のミュージカル『ペテン師と詐欺師』を見ると、関西よりもノリが良かった。

 私は音楽劇『人形の家』を見て、一夜安部公房先生は関西を馬鹿にされていたのではないかと疑ったのだが、ミュージカル『ペテン師と詐欺師』を見て
『これが安部公房先生のおっしゃっていた、関西はノリが悪いと言うことか。』
と、改めて納得したのであるが、東京の俳優座はそういった意味で、もっとノリが悪かった。

 いや、眠りながらも拍手も忘れるくらいに感動なさっておられお上品な観客が多かったのであろう事にしておこう(笑)

 

 お能のように(とはいえ、私は『観世流百番集・続百番集』を用意する程度は、能楽好きである)お行儀よく見たおられた俳優座のおなじみらしい関係者やファンの観客。

 私がスタッフに質問し納得もできずに話し終え、ロビーの夫の元へ戻ると、




       驚いた。


 出入り口近くのロビーいっぱいには多くの役者が出ておられ、お目当の役者さんたちを取り各務観客で大にぎわいであった。

 舞台作品の余韻を楽しみたいと言う感じは受け取れなかった。

 舞台では盛り上がらずの客が、送り出しあるいは交流会(?)で大盛り上がるとは、演劇も世の末と心が滅入る。

 私から見て、俳優座は不思議な劇団と観客と云った構図であった。

 芝居時代は体操内容が深く、いいお舞台であるのに、もったいないなと心底思った!!

 

 宝塚にもファンクラブがあり、親衛隊のような取り巻きがあるが、そういった感じでもない。

 舞台中は眠ったりお行儀よく見ている観客は、くらいロビーの中にごった返し、俳優と戯れておられた。

 

 小芝居をする旅役者の送り出しよりも派手であった。

 各役者への取り巻きの渦はロビーいっぱいを占領し、下品な世界もあるものだとその場を去った。

 小芝居の役者の送り出しなら各観客を一列に並ばせ、握手や写真程度で一定の秩序があり、私のようにそれがいやな客はわきから逃れられる。

 ピアノコンサートでCD購入者に一般客に邪魔にならぬように横の方で一列に並ばせて握手されるので邪魔にはならないし、逆に微笑ましい。

 
 だが、俳優座は狭い出入り口のロビーである。

 出入り口で関所状態は一般客には辛い。


 俳優座は初手から馴染みの客だけをニコニコと相手にし肩に手をかけ、接触し、満面の笑みで写真を撮らせる。

 一般客が俳優の前を通り俳優を見ると睨まれ、そっぽを向かれる。

 まぁ、所詮こういった役者なのかと、打倒の役者に今も呆れ果てる。


 上にも書いた宝塚は、会場も庭も広く、一般人の邪魔にならないところでファンを楽しませておられ、それは関所にもならず、帰っていい光景であると目を和ませられる状態なのである。

 やるなら、一般客の邪魔にならないところで楽しんでくださいと、内心叱りたいほどの、一般観客から見れば非常識な劇団であった。(笑)

 

 舞台を全うされていらっしゃるのだから、舞台で勝負されるだけでいいのではないか、あるいは、公の場ではご贔屓の方にだけ接すればいいのではないかと思ったのだ。

 舞台中は居眠りし、芝居ごに役者とフィーバすると言ったちぐはぐで後味の悪い公演を見たものだと、後悔をした。

 俳優座の先人大役者さんたちや指導なさっておられる有名大役者やスターはこの事実を知っておられるのだろうかとも疑問に感じた。

 芝居が好きで余韻を楽しみたい客向きではない本公演には唖然とした気持ちで会場を後にした。

 

 所詮、貧乏人のたわごとであると聞き流していただきたい^^


       身内は楽しんでおられたことだし
       役者も自己満足されていらっしゃったようだし
       私もある意味東京らしい舞台興行を見ることができ、
       楽しきゃそれでいいんじゃない!!^^ わっはっは


 初日は半額(歌舞伎の初日はチケット1枚で1日見られたような時代を思い出す。)
 例に見た事がないような安価な舞台といった意味が理解できた。
 確か初日はハーフといって、一枚2500円くらい?)。二日目以降でも5000円といった破格値に安い舞台のお値段であった。
 私は旅役者の小芝居ほどのお値段ですものねねと、諦め、同時に、そりゃ、この値段だわ!と納得した。


       すこーん すこーん
       こめだんご

 
 






 ノルウェーの作家イプセンは社会劇の創始者と言われ、特に1879年に発表された「人形の家」は新しい女性像を世に示し、近代劇の出発点となった作品と評されています。その「人形の家」を演出の西川信廣、作曲・音楽の上田亨、作詞の宮原芽映と共に音楽劇として2017年に上演、高い評価を戴きました。
ノーラを演じるのは、その美しく透きとおる歌声で客席を魅了する土居裕子。夫ヘルメルには大場泰正、運命の鍵を握るクロクスタに畠中洋、親友リンデ夫人に古坂るみ子。進藤忠、長浜奈津子の実力派と、オリジナル戯曲には無いアンサンブルを登場させ劇世界を拡げます。


 
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