乱鳥の書きなぐり

遅寝短眠、起床遊喰、趣味没頭、興味津々、一進二退、千鳥前進、見聞散歩、読書妄想、美術芝居、満員御礼、感謝合掌、誤字御免、

日記  ロスト・イン・トランスレーション

2006-04-29 | 映画
日記






  ロスト・イン・トランスレーション(米・03)



   スタッフ
 監督・脚本:ソフィア・コッポラ
 音楽プロデューサー:ブライアン・リエトゼル
 衣装デザイナー:ナンシー・スタイナー
 プロダクション・デザイナー:アン・ロス、K・K・バレット
 編集:サラ・フラック
 撮影:ランス・アコード
 ライン・プロデューサー:カラム・グリーン
 アソシエイト・プロデューサー:ミッチ・グレイザー
 エグゼクティブ・プロデューサー:フランシス・フォード・コッポラ、フレッド・ロス
 プロデューサー:ロス・カッツ、ソフィア・コッポラ
 フォーカス・フィーチャーズ提供
 アメリカン・ゾエトロープ、エレメンタル・フィルムズ製作


    キャスト
 ビル・マーレイ
 スカーレット・ヨハンソン
 ジョバンニ・リビシ
 アンナ・ファリス
 文浩


 
 品が良く、終わってからすがすがしさが残る。

 清涼飲料水のような映画。

 しかし各シーンは細やかでシャープな感覚で切り、仕上げられている。

 映画館に行っても良かったのではないかと思われる一作品。





 会話の身でみせる映画ではなく、二人の表情が見もの。

 心情の揺れ動き、二人をとりまく、異空間である日本。

 二品の時間的流れは、二人の周りを、二人を置き去りにしてまわり流れる。

 それは無意識の意識下における走馬灯のようなカメラアングルで、私個人としては好きな散る方であった。




 外国から日本は首を傾げる面白さと、かなり納得し感心する二面性を兼ね備えていた。

 哲学的、観念的な、どのようにでもとれる映画で、興味深い。

 湾曲された「日本」を見るのは、私にとっては新たな世界の中の日本の発見。

 ただ、この映画はセンスと品が良く、海外映画における『藤山芸者』といった低次元な表現法は、一切ない。

 むしろ普段私たちが首を傾げたくなる日本人の行動などを、鋭い裁きできっている。そしてこのことに対し、感心させられる方が多かったのも事実である。





 日本の表現としてテレビや若者、日本の遊び人など面白いと思った。

 中でも、女が小指の痛みを見てもらうために、総合病院にいったときのこと。

 待合室で有名な映画俳優であるビルとシャーロットは前列に座っていた。

 すぐ横には、神経内科にかかっておられる風の男性と臨席していた。

 男は杖を持った患者にひじで合図をして、話始める。

 杖の患者は、彼を有名人とはまったく思っていない。

 
 二人はコミュニケーションをとろうとはするものの、英語を知らない患者と日本語を知らない男。

 まったく会話にならない。

 患者は神経内科の病気のために言葉のイントネーションははおかしいものの、患者の彼なりに一生懸命だ。

 その一部始終を耳を澄まして聞きながら、二人のどぎつい化粧をした中途半端な金持ち中年女の見舞い人二人は、域を潜めながらも、露骨にクスクス笑う。

 このシーンを観て、字本の福祉的観念の低さを恥じるべきであると、私は恥ずかしい思いをしながら観ていた。

 外国からは、日本の弱者に対する対策や民間人の感覚は、このようにとらえられている点は、各自が大きく反省すべきである。


 話が通じないのは患者と男に限らず、同時通訳の不親切や病院の受付、果てはコールガールにいたるまで同様で、日本人が一方的に、スローテンポとはいえ、日本語を話す。

 ゆっくり話しても、相手には通じていないことをわかりながら、半ば強引に。


 ところが患者はどうだろう・・・

 知らない英語を次々と身振り手振れで通じさせようと努力し、果てには男の方が、
「 おぉ~ミュージック♪」
といって、患者の言葉をハミングにしてしまう。

 素晴らしい。

 コッポラ監督の女性的な感性が生きている。

 しかしながら・・・

 二人の中年女は、厚化粧な日々が入らんばかりに、笑い続ける・・・・



 日本に滞在中の二人のアメリカ人、ビルとシャーロットの現実的夫婦問題と孤独を描いた作品。

 少しなを潜めた、ハリウッド・スターのビルは、CM撮影のために来日中。

 撮影現場でのやりとり―使えない通訳、意味の通じない英語。

 脳もなさそうな、偉そうなカメラマン。

 そんな中で身の置き場に困るビル―だったり、ホテルの自室でぼんやりとテレビを見たりしている姿には、どこにもスターらしくはなく、普通の一個の人間であり、男であった。

 ただ、日本に来てもそうだが、家庭に帰っても同様。

 妻はアメリカから時差も考えずに明け方の四時頃に、平然と電話をかけてきたり、儒ータンの入りはどれにするかなど、小包まで送って来る。

 まるで夫は日本に遊びに言ったような錯覚を持っているように、自分勝手な二十五年の夫婦生活なのだ。

 哀愁漂う中年男之居場所のない、居心地の悪さが前面ににじみでている。





 一方、新妻のシャーロットはカメラマンの夫ジョンの来日についてきた。

 夫は仕事が忙しく、満足にかまってもらえない。

 一人で出歩くにも言葉が通じないため、シアンばかりで行動が取れない。

 シャーロットは華道教室にふと入り、意味もわからず花を生ける。

 京都で偶然見かけた結婚式の様子は、外国人らしい見方。

 構図や色のコントラストやシャーロットが見せる表情は洒落ていて、息を飲むほどの美しさがあった。




 私が一番印象深かったのは、ラスト。

 男はこれからホテルを出るという。

 理由をつけて女之部屋に電話。

 女はロビーに降りて来た。


 日本の仕事の関係者が集まる中、二人は互いに駆け寄るが、思うように話すこともままならない。

 一致奇の逢瀬を阻まれ、男は関係者の元に戻るが、悲しみをこらえて出て行く彼女の方ばかりを見つめている。

 本当の別れだ・・・


 男はタクシーに後、空港へと向かう。

 途中で信号待つち。

 ふと見ると小道の雑踏に毛行く彼女を発見。

 彼はタクシーに、
「少し、ここで待っていてくれ。」
という言葉を残し、彼女を追いかける。

 不利澪た彼女の目のまわりは真っ赤で、深い悲しみに襲われていたことが読み取れる。

 彼は道の真ん中で、誰にはばかる頃もなく彼女を抱きしめ、キスをする。

「今度こそ、お別れだ。」

 彼女の思いは満たされ、目には光が差していた。



                        END

                          8 BSフジ にて
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アシュラジョウノヒトミ

2006-04-29 | 映画




 asyuraアシュラジョウノヒトミ 





          土屋南北 作
          somego郎、宮沢rie、小日向、渡部atusi、樋口kanako、他
          滝田洋二郎 監督 (劇団四季)




 3/24と3/25で2回、asyura城の瞳を観た。

 気楽に楽しめるものでレンタル料金380円が損したとは感じられない作品であった。

 


 まずは江戸の町並みや橋のごった返した面白み。

 映画やドラマで見た昔の見世物小屋の中を覗き込んだろうなせわしなさで活気があり、良い。

 映画はこのまま進むと思いきや、舞台は転々と展開。

 サトミハッケンデン伝や京劇、映画の『ゾンビ』、『HERO』や『スターウォーズ』などを取り入れられており、その場面に応じてその内容を思わせる音楽が流れる。

 その恩学区は妙にマッチしており、かえっていびつな感はぬぐわれない。

 また、劇中劇はこの映画の身どころのひとつ。

 イチカワソメゴロウの魅力を再度発見。

 この映画はソメゴロウのために作られたもののような錯覚を起こす。

 ショウチク株式会社のソメゴロウに対する思い入れを感じ、カブキ界でますます彼が腕を上げ、コウシロウとニザエモンのいいとこどりといった立場になるのであろう・・・

 コウシロウとニザエモンのファンとしては、彼の存在も大いに期待できると感じた映画であった。



 このところの彼の腕の上げようは、うなぎのぼりのように感じる。

 この作品では、彼の美しさと演技に対する前向きな姿勢がうかがえた。

 劇中劇の中の彼は若かりし頃の彼の父、現コウシロウと似ている面もあり、また違った見得の切り方をしていた。

 意図的に臭い目の芝居6倍くらいの演じ方をカブキ役者として演じていた。

 その臭さは好感の持てるものである。

 劇中劇以外では、過去の苦い重いから逃れる為に、江戸の自由な若者に見せかける若者を演じていた。

 よって少し軽めのセルフの言い回しで、劇中劇での台詞と変化をもたせていて自然であった。

 

 場面の随所随所にソメゴロウのこぼれんばかりの魅力を取り入れ、思わず身を乗り出して見入ってしまった。

 特に劇中劇の後の楽屋のシーン。



 左目の隈取の化粧お年をする。

 右は隈取を残し、左は素顔・・・・

 なんてエロティックでステキな名のだろう。

 見とれていると、鏡に彼の隈取をした顔が・・・


 カブキ好きの人間にとっては、
『もうアカン。』
の状態なのである。



 今までそんなに彼のファンというわけでもなかったのに今は好きな役者にひとりとなった。

 ああぁ~、ショウチクの思惑にのっちゃったな、と一人ほくそ笑む。


 それにしても、彼はマツモトコウシロウとフジマ紀子のいいところばかりを選んで受け継いだ面。

 二枚目だ。



 彼の演じ方は空気のように気持ちが良かった。

 船に乗って鼻歌といあったシーンも、歌がじゃまにならずに好きであった。

 彼とミヤザワの自然な台詞を南北役の小日向と樋口のぴんとはずれな声色や芝居長の臭さで変化をもたせ、退屈をさせない。

 樋口の被り物を採ったシーンはしわが目立ち、少し無理を感じた。

 小日向の
「いや~いい、実にいい。」
は台詞は山椒の役目を果たしていた。
 
 上手い。



 ここで抜かしてはならないのは、アシュラ役のミヤザワ。

 美しい。

 女の私が見ていても、ステキでかわいい。

 ソメゴロウとの息はあっており、テンポも良い。

 人間の時には高い軽い口調、asyuraになってからは声を低くゆっくりと話最後のしに行く前のシーンでは、噛み含んで話していた。

 アシュラも彼女のはまり役のひとつなのではないか。

 また、普通の演劇や映画とは逆で、彼女はソメゴロウの美しさを充分に引き立てていた。

 それでいて、彼女の器の大きさは一層引き立つ。

 花と実力を兼ね備えた、素晴らしい女優である。


 少し気になったのは演出の問題であるが、彼女がsomego郎の楽屋に、かんざしを取り戻す為という理由で自分を正当化させて忍び込んだ時のこと。

 帰れ際、彼女はあわてて窓から出て行く。

 その際左のすだれは派手にちび落ち、右のすだれは右側が外れて 窓の真ん中の方向に傾く。

 その角度があまりにも計算され過ぎて、構図の遊びがない。

 彼女の心情の変化を表したいのであろうが、押し付けがましい。

 残念である。



 最後の出雲とアシュラの戦いは見ごたえがあった。

 美しい。

 剣のからみといい、二人の表情といい、エロチックだ。

 間接的表現で、カブキの手法を取り入れられていた。

 それがかえって、そそられるというものだ。


 ただ・・・

「お前の中に(この剣を)突き立てたい」
と行った台詞は露骨過ぎて、2度とも大笑いしてしまう。

 映画間ではみんなはどんな雰囲気でこの台詞を聞いていたのだろうか。

 劇場に行けばよかったと、今になって後悔する有様だ。


 

 この映画の衣装は全体に重厚さにかけた。

 ただし劇が等に出てくるような、一般うけする美しい装いではあった。

 ソメゴロウとミヤザワの衣装はあの程度でよかったのであろうが、樋口の死ぬ前の装いは いただけない。

 まるで70年代後半のグラムファッションのようなメークと衣装。

 彼女の死に際のこけるシーンは失敗。

 邪空二重ならぬようにこける場所を探し、ちゅうちょしていた。

 プロ意識を持って欲しいと思うのは私だけか。



 最後まで気になったのは、南北の作品をも薄腰強調してもいいのではないか、ということ。

 もう少しアシュラの心情や身体的変化を加える方が、南北らしく仕上がるのではないだろうか。

 ソメゴロウにスポットを当てる意図的な配慮は把握してはいる。

 しかしアシュラにスポットを当て、ふくらますべきと頃は膨らます。

 そうしないと単なる恋愛ゾンビになってしなう。



 江戸のシーンも良かったが、最後に出雲がアシュラ城に入る込んだシーン。

 地球から見たアシュラ城はさかさまに、アシュラ城から見た見える江戸もまたさかさまに・・・

 まるでエッシャーのだましえのようで、楽しかった。



 アシュラ城と江戸、阿修羅と出雲・・・・

 二人の透き通るような美しさは、一層 運命のいたずらと神秘を感じさせる。



 最後に・・・

『アシュラ城の瞳』は芝居で観てみたいと感じさせる映画だった。

 芝居となるとまた違った演出法を楽しめるのだろう。

 近日中に似て似たいが・・・

 DVDレンタルはあるのだろうか?


 芝居で観たいというジレンマにさいなまされる一本であった。
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日記  舞踏詩劇『女と影』

2006-04-29 | TVで 歌舞伎・能楽
日記 






    舞踏詩劇『女と影』 
                        



                   fukusuke
                   ポール・クローデル作


 
 kabuki舞踏と舞踏のコラボレーション。

 始まりは印象派のようなスクリーン、それを囲む水墨画とも取れるまわりの舞台は額縁の役割をも果たす。

 また、月と女二人は7~80年代に流行ったアングラ劇の動きと人形jyoururiの動きを兼ね備えている。

 ライトのアラり肩と消え方は、アングラ劇手法を取り入れられ、私にとっては懐かしいものでは合ったが、わが子においては斬新なものに受け止められたようである。

 動きのバランスは良く、舞台と一体化している。

 また役者も舞踏も魅力的であった。

 音楽も良い。

 舞台衣装も細微にわたる機の使いようである。



 では一体どこが釈然としないのか・・・・



 まずはじめに舞台天井から真っ赤な血とも感じさせる牡丹の花が落ちてきて、舞台に刺さる。
 牡丹は・・・冬から春。

 女の影(蛾)のの出現。
 蛾は・・・夏。

 女出現、猫柳の手書き友禅の装い。
 猫柳は・・・冬。

 女の帯の後ろには桜のような小枝が挿してある。
 桜のような花は・・・春。

 月の精が蛾として羽を広げる。
 蛾が羽化し、は根雨を広げるのは・・・春~夏。

 月を神秘、また特別な力としてとらえるのは全世界の傾向であるのはわかる。
 月を出すことによって、内容と神秘性は高まるが・・・。
 満月のイメージは・・・秋。

 説明では6のつく月らしいから秋とは限らない。
 ただし6は・・・冬にはあてはまらない。

 舞台のイメージが、
  yotuya怪談→kaさね→耳なし芳一
 に変化する場面がある。
 怪奇物は・・・夏。

 最後のシーンの空が冬のものではなかった。
 空の色彩が・・・秋。

 最後に雪が降る。
 雪は・・・冬。


 以上これらを考えると 冬に統一できずに、日本の四季がばらばらであった。

 ポール・クローデルという作家が日本びいきであることは伝わってはきたが、どうにも陳腐である。

 これは外人からみた日本。

『富士山芸者、侍』
の世界なのである。

 ポール・クローデルがわざわざ7~80年代にkabukiの役者のために書き下ろしたらしいが、ポール・クローデルからみた日本を描くよりも、もともと書き上げられた作品をkabuki役者などが演じる方が良かったのではないか。

 外国人から見れ場日本はああいう風に目に映るのかということを痛いほどに痛感させられるべく、一作品であったといえよう・・・。
 



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ナツノヨノユメ

2006-04-29 | 舞台・芝居
今回は辛口でごめんなさい。
好き勝手に独断で書き込んでおりますので、間違いやお気づきの点がありましたら、お教えください。


  
       『NARU no YO no yume』感想

                 

      



『ナツノヨノユメ』  シェークスピア 原作
         小池竹美    脚色
         加納幸和 脚色・演出

         ショウロク 村井國男 菅野菜保之 ハナ組他







 久しぶりにお芝居に行きました。

 この日は『ナツノヨノユメ』とあって、花道は当たり前のごとく影を潜めている。

 シェークスピアの原作とあって、心なしか教育熱心な親子の姿も多い。

 だが、加納幸和の脚色・演出であるこの芝居は、原作からは大きくかけ離れていた。

 みたい芝居とは大きくかけ離れ、芝居知らずの私の期待を見事なまでに裏切ってくれた一作品である。



 ショウチクにおける『ナツノヨノユメ』はエロ表現が露骨であった。

 もちろん、表現の自由。

 演劇界においてエロス表現は切っても切れないことは承知している。

 高尚な芸術だと皆が思っている様な演劇等においても、婉曲な表現や露骨な表現を交えて演じられていつのは、観客側も楽しい。

 以前千之丞演じる狂言会で『起き上がりこぼし』を見せて頂いたことがある。
千之丞さんは、
「さぁ、皆さんもごいっしょに~~」
と、にこやかに会場に降りてこられた。

 その会場は親子劇場の母親だけを対称にしたものであったが、みんながいっせいに千之丞さんに続いた。

 お母さん方は声をそろえて、
「京に京に流行る~~、起き上がりこぼうしやあゥ~~、合点か~、合点だ~~、合点、合点合点だぁ~~」
と合唱し始めたからたまらない。
 
 内容を把握した人間は顔を紅くしながら、まわりを見渡し、千之丞さんとお母さんたちの顔を見比べていた。

 千之丞さんのあの時の悦に浸った、かわいらしいいたずら顔は、今でもはっきりと覚えている。

 あの時の千之丞センスのエロは見事な成功例といえよう。



 何がいいたいのかというと、エロにはエロの必要性とセンスといたずら心と、最後に抜け道が必要だということである。

 芝居知らずの私においては、シェークスピアを観に行ってまで、露骨なエロを必要とはしていない。
 


 一番驚いたのは、女王にのろい(魔の花の汁)をかけて、一番初めに見たものを愛するといった場面。

 女王がおきて最初に見たものは、醜いがまであった。

 女王は麻痺うにかけられたとおりに、その醜きモノを愛することとなる。

 愛?

 言葉が美しすぎる。

 とにかくやる、やりまくる。

 お付の者どもの前で、
「あぁあぁあ~~~」
ともだえ、がまは女王にまたがり除夜の鐘状態。



 ZUDO~~N!

 お付の者ども曰く、
付き人たち:「ひと~~~つ!」
女王   :「あぁあぁあ~~~」


 ZUDO~~N!

      「ふたぁあ~~つ!」
      「あぁあぁあ~~~」

 ZUDO~~N!

      「みっつぅう~~!」
      「あぁあぁあ~~~」

 舞台はいかがわしく回りながら、全部で十一つき。
マイケルトミオカの腰の大きな動かし方は、品位にかける。


 この調子で舞台は進行するのであるから、水色のワンピースを着て、シェークスピアにつれてもらったっ小学生低学年の女の子はたまったものではない。

 どうしてもこういう表現をとりたいのであれば、『12k』なり、せめて『9k』なりの表示をするのが親切というものではないだろうか・・・。



 シェークスピアはもともとは祝典劇であり、軽やかさが必要である。

 この点において私は今回の芝居に疑問を覚える。

 膨らまして欲しい場面はさらっと流され、間延びしたダジャレや冗談揚げ足の繰り返しで時間を引き延ばしていたように思われる。

 通常繰り返しのパターンは三回であることが多く、その点では問題ない。

 ただスローテンポで粘っこい。



 佐藤エリコは背が高く足が長いことを強調。

 保田圭の背の低さや足の短さを、本人たちやまわりの男たちが強調する。

 なんとも聞き苦しい。


 
 これではショウチク座ではなく、隣の劇場に足を運んだ方が、子どもに安心してみせられる分だけ良いのではないだろうか。


 また、舞台が『夏』を表現仕切れていなかったのは誠に残念としかいいようがない。

 ライトや舞台、大道具などどれをとってもアナログ的で、今の時代にはかえって斬新な感じはしたものの、それを生かせられるだけの役者た血とはいいがたい。

 役者たちは踊りですらぴたっと合わずに、みている側はジレンマを感じる。

 みんなが違ったおどりだということを行っているのではない。

 別々の踊りであったとしても、統一感は必要である。

 みんながアップテンポでステップを踏んでいる中、佐藤eri子はまるで自分のステップに酔いしれているかのように、ゆっくりと上手さを強調していたのが、鼻につく。


 先ほど出てきた円形の舞台は、品のなさを引きずったまま右に回り続ける。

 時の流れのなかの ほんの夏の一夜、一コマの出来事に過ぎないことを現しているつもりであろうか・・・あまりにも単純であった。


 アジアンブームのさなか、東南アジアや京劇、灰色(石)の鳥居、果てはバッセーラ(?)までを思わせ、なんだかイメージの寄せ集めにすら感じる。

 また役者陣も集客を踏まえたバラエティに富んだ人材ではあったが、思いのほか女優目当ての男性は少ない。

 まわりを見渡すと、オノエショウロク目当ての芝居好きの男性が多かった。



 収集のつきにくい舞台において、ショウロク一人七五調で声も通り、演技においても見ごたえがあった。

 彼の台詞は群を抜いてリズム感があり、心地よく心に響いた。

 なかには細切れ、尻上がりの台詞の役者も何人か目につき、芝居が途切れる。

 素人芝居に迷い込んだ感が拭い去れない。


 ただ・・・

 パック役でまずはじめにイメージするのは、ジェラール・フィリップ。

 日本人ならば、藤原達也・・・といったところであろうか。

 惜しいことにあの演技の上手い松録サンの顔の表情は硬く、パック役にしては軽やかさと笑いが少なく思えた。

 ショウロクさんのこの舞台においての日々の苦悩が伺えるように感じたのは、私だけでしょうか。



 喜劇はその場で発散させて後に残らないというのがベストといったご意見があるのは知っているが、悪い意味で・・・・・。

 観ている時は楽しいのだが後に何も残らなかった。

 むしろ一万円以上の大枚を複数枚どぶにそ手たという口惜しさが、あとをひく。

 演劇を観てこんな屈辱は初めて味た。

 これもまた授業料。



 最後に、私はまったくの芝居の知らない人間のために独断と偏見により、好き勝手に自分個人の感想を述べています。

 人によっては感じ方も違われ、非常に不愉快な思いをなっさった方もいられるかもしれません。

 未熟者ゆえ間違いだらけの陳腐な感想をお許しくだされば、幸いに存じます。


 これから『ナツノヨノユメ』を観劇しようか迷っておられるか方はどうぞ劇場に足をお運びになってください。

 そして私の力量ではわかりづらかった演出や舞台の良いところを 教えていただきますように、よろしくお願いいたします。


 最後に、ショウロクさんはやっぱり魅力的であった。
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ノブナガ

2006-04-29 | 舞台・芝居
日記






『ノブナガ』


 上演中の「ノブナガ」を観ました。






「敵はホンノウ寺にあり」で始まった一幕目。


 物語はノブナガの父・ノブヒデの葬儀から始まります。


 尾張一の大うつけ。


 葬儀の場でも大暴れして、平手政秀が諫死。


「俺が乱世を終わらせてやる!」


の力強き信長の一声は、天命に従って天下統一へ・・・


 次の場面は、1553年の春。


 斎藤道三に濃姫を貰い受ける。





 1960年の桶狭間の戦いに続いて1568年、美濃制圧。


 三十分の幕間を挟んで二幕目は、1571年の比叡山焼討ちから。


 光hideは自分の心を押し殺して、女、子ども、赤子までも切り、刺し殺すが、この辺りから光秀の信nagaに対する想い が揺れ動いてくる。


 この芝居の光hideは先を読む力があるという設定になっていて、ミツヒデは『乱世 を終わらせる星=ノブナガ』であると信奉。





 ノブナガも同様、自分は神に選ばれた 男だと信じています。


 1573年 ノブナガ 対 浅井長政。


 1579年 安土城完成と話は進み、ミツヒデは、ノブナガは神に選ばれて 乱世を救う男ではなく、自らが神になろうとしている恐ろしい男だと感じ始める。」


 1582年の、「ホンノウジの変」


 ホンノウジの炎の中での立ち回割りは構図もスピード間も役者軍の技術も満足しました。





 立ち回りの祭のエビゾウさんの迫力もさることながら、障子に刀を刺した時のこと。


 障子から出てきた手が、弓矢で殺された妻の着物(ノブナガが持っていた)を握り締め一筋のライトが当たる。


 このときばかりは、正直背筋が凍りついた。

 見事な演出で、こういった表現は好きです。





 よくある神に選ばれし男・ノブナガではなく、『神に弄ばれた男・ノブナガ』を描いた芝居だったように思う。






【衣装について】



 エビゾウの装いは、焦げ茶色の地に鮮やかな色彩の羽根の模様。


 次の場面では装いもがらりと変わり、紺色の正装で凛々しい。

 最後は赤いビロードのマントに、黒い洋装+長髪を撫で付けたような西洋かぶれなノブナガ。





 この姿は一番彼に似合っていた。

 ただ・・・

 マントの色彩と質感はピアノのカバー風。


 マントをはじめとして一時が万事、この舞台の装いは全体において衣装は簡単目なのかしら。



 




 【女優の化粧について】


 女性(妻、妹)二人においては、声が高め。



 目元のラインと 口元の紅は赤。

 女性たちの化粧は念入りで、ルージュは濃い目でした。


 二人の化粧にさほどの違いがないのは、演出家の意図的なものなのでしょう・・・






 【エビゾウの目力】



 

 舞台で見る彼は目力と表情がよく、華がある。



 





 全体を通して



 かなり楽しめる舞台でした。

 役者の前向きな姿勢がうかがえる、秀作の一つ。

 一度は見たい舞台の一つ。

 芝居、舞台らしさの感じられる一作品といえるように思います。


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カナテホン  ニザエモン様

2006-04-29 | 歌舞伎
今日はミーハーな内容でごめんなさい。
間違いやお気づきの点がありましたら、お教えください。




新春大カブキ『カナテホン チュウシングラ』のニザエモンさんの死ぬシーンは素晴らしい




 ニザエモンさんは素晴らしい役者である。


 私の好きなニザエモンさんが一杯出てこられ・・・今回の新春大カブキは楽しかった。

 あまりの楽しさに、昼夜それぞれ二回、合計四回行ったが、もう少し通えばよかったという思いでいっぱいである。


  ニザエモンさんが好きといった方にとっては、満足の行く公演。 ニザエモンさんを満喫できるのである。





 【家族全員で幸せの観劇】  


 昼夜一回づつは家族四人で観た。

 一人観劇も好きだが、家族全員で見る芝居も、またおつなものである。

 近くのがんこ寿司で弁当を購入。

 芝居も上手い。

 弁当も美味い。

 家族の幸せそうな面を見るのは、楽しいものだ。


 




 【観劇感想】


 ニザエモンさんはめっちゃかっこヨカッタ。


 大向こうさんの声も聞こえてきて、活気があった。

 大向こうさんは昔から、小生のあこがれである。

 あの声を聞くとたまらないほど、魅力的に感じるのは、小生だけであろうか。




 ニザエモンさんが素晴らしくて・・・





 予約追加。




 理由はまだあった。

 ニザエモンは1/中旬に涙ながらの演技をなさっていた。

 いつも芝居によっては事務的に涙を流されているのか、はたまた感無量で感情移入なさったときの涙なのかを確かめたかったのである。




 よって私は観劇の日をつめて、二日後にどう演目鑑賞の道を選んだのである。

 結果は・・・・





 さすがにニザエモンさんである。

 事務的に素人芝居の役者のように涙を流しているわけではない。

 それが証拠に、1/中旬二日後には涙は流されなかった。

 私はますますニザエモンさんという役者の魅力に取り付かれる。



 しかし・・・

 一言で言うならば、あまりにもニザエモンさんが素敵だったので、明後日も夜の部で観劇することにしたというのが、一番の理由である。





 急遽チケットを購入・・・OK、チケットは確保できた。





 ニザエモンさんはみえを切ってもカッコイイが・・・





 死ぬシーンは絶品!の役者である。
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シンシュンカブキ センシュウラク

2006-04-29 | 歌舞伎


    センシュウラク




     シンシュンカブキ センシュウラク 観劇感想





 シンシュンカブキに行く。

 ニザエモンさんの『イザヨイ清心』の素晴らしさは声に出ない。
 アイノスケさんの『ゲンペイヌノビキ』は涙ながらの大熱演。


 彼は*日に比べて彼のみえの切り方は一層こなれ、ニザエモンさんのそれと相通じるものを感じさせてくれる。


 センシュウラクにふさわしく満足のいく公演であった。


 さすがに今日はセンシュウラクということもあり、客席も男女を問わず大向こうの方が多い。方々で始終笑いや拍手が巻き起こり、活気が感じられる。


 楽しいひと時を過ごすことができた^^
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イザヨイセイシン / カナテホンチュウシングラ

2006-04-29 | 歌舞伎




 寿初春大カブキ 


            イザヨイセイシン
            カナテホンチュウシングラ




       昼の部  二回   1/中旬 + 1/下旬   ニザエモン
       夜の部  二回   1/上旬 + 1/中旬   ニザエモン







 「イザヨイセイシン」はニザエモンの良さが充分に味わえ、ニザエモンファンの私とってはたまらない演目の一つ。



 彼の柔らかな演技と力強さの二面性を同時に味わえる秀作である。


 ニザエモンの好きな私は、家族四人で、昼夜一回を一階席で観た。

 満足!

 あまりにもニザエモンの素晴らしさを堪能できたので、急遽チケットを追加して、三階席で昼夜一度づつ、一人観劇をした。



 では・・・・

 ニザエモンの独断による見所としては・・・






 【ニザエモンのかっこよさ】


 (例)

  花道で真っ白な手ぬぐいなどをきりりと締める姿は、

 身震いするほどに美しい・・・





 【タマサブロウの・・・】


  (a)タマサブロウの変貌ぶりは見事だが、二日のうちの一日は少し男性面が見え隠れしたことが、残念・・・


 、(b)荒れた生活の身に落ちたイザヨイが身請けしてもらった白蓮拓に、金のむしんに行き、キセルをかりた前後シラナミのベンテンのようなポーズと台詞口調のパロディ。

   



 では、昼夜どちらがお勧めか・・・・



 【ニザエモンとヤジュウロウの決め台詞の連続】


 a)台詞は七五調の連続で、芝居を観ているという満足感が得られる。


 b)(2b)を受けての、シラナミを思わせる口調とツラネも素晴らしい。


  これも白波のパロディとも言え、百蓮も元は大泥棒。

  後に盗人同士、兄弟のの名乗るをあげる。




 【**演劇(小芝居)との比較】


 この芝居から色々な**演劇にシーンや台詞に取り入れられている箇所が数多くあった。


 a)**演劇も観た経験がある為、取り入れられた箇所探しが結構楽しかった。


 b)カブキと**演劇の演じ方の比較をしながら観ていると、今までとは違った楽しめ方も出来た。


  楽しめる一演目であったことは確かだ。





 【では昼と夜の部では、どちらがたのしめるか?】


こればかりは人によっての好みの問題があるのでなんともいえないが・・・





 【初めてカブキに行かれるのならば】


 初めてカブキに行かれるのならば、独断と好みの問題だが、夜の部をお勧めする。

 カブキらしさと華やかさ、あらすじやメリハリや変化がはっきりしていて、面白いかもしれない。


 ニザエモンの出る「カナテホンチュウシングラ」は申し分がないくらい素晴らしかったが、その前の「心霊ヤギリノワタシ」もあらすじの構成とヒデタロウの熱演振りが、心地よい。


 満足のいく舞台だといえよう。




 ただし「ハルノシラベ ムスメナナクサ」に関しては、独断だが、配役的に無理がみられる。







 【ニザエモンが好き!】という方にとっては

 これも単なる独断による私見に過ぎないが・・・


 ニザエモンが好き!という方にとっては、昼の部もお勧めしたい。


 理由は先ほど書いたが、

とにかく【かっこいぃいぃ~】のである。

      


 いずれにしても今回の公演は、私にとってはお年玉のように素敵な公演。


 ニザエモンの魅力を十二分に堪能できる舞台であった。





 後数回追加観劇すればよかったと後悔・・・・・
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国立ブンラク劇場

2006-04-29 | 舞台・芝居


    国立ブンラク劇場      2006/01/09  昼の部



 【演目】   

      1)  寿式サンバソウ

      2)  タイヘイキ忠臣講釈

      3)  munagi(33)参間堂棟yurai(むなぎのゆらい)




 【演目】 


 トウジュウロウの『ホンチョウ二十四考』の影響を受け、こどもの頃から苦手なブンラクに一度いってみんとて、いくなり。






 まず驚いたのは、劇場の舞台上には、字幕が現れる。

 まるでオペラ。

 日本語なのに字幕スーパーが出てくるのは、ビックリ。

 待ってましたのおなじみの演目が始まる。





 【ブンラクのジョウルリについて】


 ブンラクのジョウルリは思っていたよりもはっきりと聞こえ、カブキと変わらずに楽しめた。


 ただ違うところは、kabukiは情景を語り歌う脇役であり、ブンラクではギダユウが主役のよう。





 【ブンラクのジョウルリについて】

 ギダユウは表情豊かで、感情移入して歌い語られていた。

 私はブンラクでは人形を見たものか、ギダユウを見たものかで、少し戸惑い、興味深くみていた。


 ギダユウを見たくなり、人形を見たくなり、ときどき字幕の繰り返し・・・

 割り合いにして、

 ギダユウ:人形:字幕 = 4:5:1


 不安になりまわりの常連らしき観客を見渡すと、全員が人形の方を見ておられた。

 




 真前の幼稚園から小学校低学年らしき女の子は、聞こえないほどの小さな声でギダユウに合わせて口ずさんでいたのがかわいらしい。


 とてもかわいらしいおりこうさんの女の子は、素直に楽しんでいた。


 静かに座り、頭は左右にリズムを取っている。

 みていてほほえましい感じがこちらにも伝わってくる。

 その女の子に好感を持ち、三歳の頃からカブキに連れて行った我が子の姿を重ね合わせていた。





 【寿式サンバソウ】


『寿式サンバソウ』はアップテンポで進む。

 待っていました! の

「とうとうたらりらりら~」

という台詞は十分暗いたったところで歌われた。




 三味線がことのほか上手く、大向こうをかけたい衝動に駆られるが、まさか

「三味線」

と声をかける訳にもいかず、静かにゆっくりと流れを楽しむ。






 首の使い手は思いのほか難しそうで、驚いた。

 リズムに合わせてカブキやノウガクのように足踏みするのですが、一拍或いは二拍近くも遅れる。

 これはブンラクの特徴なのかも。

 何しろ私はブンラクのことは全く知らない・・・。





 聞きなれたリズムにのって、人形たちは踊り、みえをきりなどといった大奮闘の中、幕はおりた。









【taiheiki忠臣講釈】




 色々な意味でインパクトのあるこの作品。

 私はBUNRAKUのことを全く知らないのですが、お正月に何故この演目を選ばれたのかは、誰かにお尋ねしてみたいような気がする。

 



 
 【その理由として】


 1)夜鷹が数多く出てくる。

 2)夜鷹の言葉と内容が少しだけお下品。

 3)文化功労賞を受賞されている竹本スミダユウのジョウルリの語は大阪をイメージ。

 4)そのため京都の話だとはかなり話が進むまでは知らず、浪速の話だと勘違いしてしまっていたおばかな私。


 5) 女性(妻)が意味なく自害せねばならない境地に追い込まれることに対する不満葉のこるものの、お芝居にはこういったパターンが多い。


 注) 昔は全面的に男社会であり、妻やこの死はさほど問題視されなかったのでありましょうか。

 注) ブンラクの後にカブキが登場し、話の内容をソフトにしたのだろうか・・・近日中に図書館に出向き、調べてみよう。




 6) わが子を殺した父親に向かって、祖父(妻の父)が、

「忠義を尽くした」
「でかした」
という言葉には少々複雑な思いもいたしますが、これはお芝居にはとても多いパターンの一つのようなので、これからおいおい学んでいきたい。






 【女性用トイレ(国立ブンラク劇場)】




 幕間十分間。

 トイレは二箇所あるのでまあいいやとたかをくくっていてはいけない。




 トイレは狭く、数は観客に対してきわめて少ない。


 みんなが紳士用トイレやハンデー・子連れ用のトイレを使っても追いつかない位の人数と極少のトイレ数。


 トイレの絶対量が少ないのですが、係りの若い女性は、
「早く席にお戻り下さい」
の連発で、みんなが少しいらいらしてしまう。




 舞台開始の合図が鳴り 舞台が十分程過ぎた頃、ようやく席に戻る。

 ギダユウの語りはすでに始まっており、悲しみとショックを感じる。






 ブンラクの観客はは女性や高齢者も多いことを考えると、毎日新聞(2006/01/27?)にブンラクにきてくださいという趣旨の内容が一面に記事になっていたが、『足を運んで・・』という前に、数字的に計算して、基本的な設備くらいは整えられた方が良いにかしら・・・と、いらぬおせっかいを考えてしまう馬鹿な私。





 【ムナギ(33)間堂棟ユライ(むなぎのゆらい)】





 なぎとやなぎが枝を交わして緑という子もうけたという設定から話は始まり、思う浮かぶは『日本書紀。


 鷹狩りで足に引っかかった侍が柳を切り倒す。

 妻のお柳はもとは柳。

 この柳を切り倒されては、愛する夫とも緑(子ども)とも別れなければならないお柳。







 お柳が二人と別れるシーンの二場面は幻想的で美しい。


 1) お柳が柳の精に姿を変え、寝ている緑のはるかバックがブルーグリーンのなか、お柳が神秘性を持って、抽象的な形で現れる。


 2) 柳の葉が点からひらひらと舞い落ちてくる場面。


  ここは遠う目で立体性を自分で想像しながら観ていると、

柳の葉は来るっると舞い落ち、葉の連続性がいっそう柳らしさを感じさせる。


  ただ、木の葉に簡素手はよく見ると、熊笹の葉よりも少し短いほどに柳とは似ても似つかない代物。

  この形がくるくる回り、柳に見えやすくなるということがわかるまでに、一体どれだけの実験をしたことだろう。

  多分形だけではあそこまでは回らないはずであろうから、重みや微妙は形の変化も計算しつくされているに違いないと感じた。


 3)柳は切り倒されたが、みなの力を借りても動かして引っ張っていくことはできない。


 4)そこで夫(なぎ)は扇でで仰ぎ向かえ、緑(子)が引っ張ると・・・・動いたのである。


            めでたしめでたし

                   どんとはらい

                      すこーんすこーん米団子


 5)この演目も言葉遊びが多く笑える箇所が多かった。









 【ブンラクの大向こうについて】



 ブンラクの大向こうは義太夫に対してであり、首の使い手に対して、登場の時に限り、個人名でかけられていたよう。

 

 大向こうはあくまでも登場の時だけにかかる。

 そのかけ方は小芝居に似ている。






 前から四,五番目の席から声をかけるの方が多いのも、小芝居と合い通じており、ハンチョウという言葉が適切かもしれない。

 ちなみにカブキの場合 日により人にもよるだろうが 二、三階席の後ろからかかることが多い。

 ブンラクは世界遺産に登録されたが、舞台といい観客といい、**演劇(小芝居)に近いにおいを感じた。





 【ブンラクとカブキとの違い】



 1)ブンラクはカブキに比べ、歴史が古い。
   言い換えれば、カブキのもとになっている、

 2)ブンラクは人形、カブキは男の役者が演じる。

 3)ブンラクは聴き、カブキは観る。

 4)ジョウルリにおいて、ブンラクは主役であり、カブキはあくまでも脇役であり、状況描写に過ぎない。

 5)ブンラクは字幕スーパーが出てくる。

 6)大向こうのかけ方が違う。

 7)ブンラクは大阪仁ねずいているということがブンラクをみていて感る。

 8)カブキに比べ、ブンラクは同じ話でも残酷な内容、表現とクライマックス、表現がストレートのようです。

 9)ブンラクはきれいごとではない、人間や社会の本質までえぐりかかれているので、それはそれでまた面白い。


 10)ブンラクは舞台に溝(黒衣の歩く道)が掘られている。

 11)ブンラクには花道はない。










 ブンラクはあまり知らないので以上 上の十点くらいしか気づきませんでした。


 以上ブンラク知らずの、独断によるブンラク感想をお許し下さい。
 ブンラクを全く知らないため、言いたいほうだいで申し訳ございません。
 間違いやお気づきの点がございましたら、お教えくださいませ。




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