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2011-06-13 09:54:07 | 歴史隠れ話



歴史かくれ話と今日は何の日


2006年08月27日


白村江の戦いで大和朝廷軍が敗れる 天智天皇2年(663)

白村江というのは、現在の大韓民国の中央を流れる綿江のことである。この河の河口付近で、大和朝廷軍と、唐・新羅連合軍の戦いが行われた。

背景として、まずは朝鮮半島の当時の状況を簡単に整理してみると、まず当時の朝鮮半島には3つの勢力があったことがわかる。すなわち高句麗、新羅、百済である。

はじめ、新羅が高句麗に対抗しようとして、大和朝廷に協力を求めてきたため、大和朝廷は援軍を送って高句麗と戦い、確保した任那国に出先機関として日本府を置いた。
ところが、しばらくして、新羅はこの日本府を潰してしまう。大和朝廷はこれに怒って、今度は百済と組んで新羅と戦う。しかし、新羅は新羅で唐(中国)と結んだため、百済は滅ぼされてしまった。

しかし、百済にも忠誠の厚い遺臣である福信という男が生き残っており、再興を願って大和朝廷を頼ってきた。大和朝廷では、朝鮮半島の背後に立つ巨大な唐の影に危機感を持っていたため、百済再興に力を貸すことにする。

時の天皇は女帝・斉明天皇であったが、渡海を前にして崩御なされた。皇太子だった中大兄皇子は、すぐには即位はせず、皇太子のまま遠征の準備を進めた。周到な準備を重ね、ついに663年3月、2万7千の大軍が朝鮮半島に渡る。

これに対し、唐・新羅連合軍も動く。連合軍の水軍は、8月17日、劉仁軌の率いる170艘が白村江の河口に布陣した。そして、はじめ、半島南部で転戦していた大和朝廷の蘆原君(いおはらのきみ)の水軍が、最初にこれと激突。しかし、旗色は悪かった。万全の状態で待ち受ける連合軍に転戦で疲弊していた大和朝廷軍は苦戦させられたのである。

その後も大和朝廷軍は攻撃を繰り返したが、やがて包囲されて火攻めにあった。決定的な戦闘力の差を見せつけられて日本軍は大敗を喫したのである。

白村江での大敗により、百済にも再興の目はなくなった。やがて新羅は半島南部を統一する。

※写真は『図説韓国の歴史』。朝鮮半島の歴史が豊富な図や写真と、解説でよくわかります。活字の苦手な方には最適。
白村江の記述はほとんどないので、白村江についての本なら↓を。

※『白村江―古代東アジア大戦の謎』という本も、新書なので、値段が安いのが魅力的。私は読んだことないんですが、レビューを見るとそこそこの評価です。日本よりも朝鮮半島の歴史を知りたい人にオススメ。


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(キーワード)

●新羅(しらぎ)

4世紀ごろから10世紀ごろまで朝鮮半島南部に勢力を広げた古代国家。「しんら」ともいう。日本とは戦争もしたが、交流もあった。

成立当初は、北朝鮮の強国・高句麗の従属下だった国だが、6世紀ごろまでにめきめきと勢力を伸ばし、高句麗、百済と共に朝鮮半島の三国時代を形成した。高句麗・百済との抗争に当たっては、大陸の唐と同盟して、660年に百済、668年には高句麗と、一挙に朝鮮半島の覇権を掌握し、統一政権を樹立させた。

8世紀後半から中央貴族の反乱などで弱体化し、地方豪族も自立するようになって、935年に北に成立した高麗に降伏して滅亡した。


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素直に読めば「はくそんこう」ですが、学校では「はくすきのえ」とも読むと習った気がします。当時はそう読んだということなのだろうか…。


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