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藤原定家は、日本を代表する古典勅撰和歌集の8部作「八代集」の一つ、『新古今和歌集』の選者

2011-06-12 13:08:42 | 歴史隠れ話


歴史のウラ話&「今日は何の日」です!


2006年08月20日


藤原定家死去 仁治2年(1241)
藤原定家は、日本を代表する古典勅撰和歌集の8部作「八代集」の一つ、『新古今和歌集』の選者として知られる。

彼は16歳頃から歌道の世界に入り、歌人として高い評価を得ているが、歌道だけでなく、文学の方にも明るく、晩年は古典研究などもしている。また、彼の書いた日記『明月記』は、1180年から1235年までという長期間にわたって残されており、しかも定家が朝廷や鎌倉幕府の要人にも知り合いが多かったため、同時代のことを知る貴重な史料となっている。

天才的な才能をもって、順風満帆の人生だったろうと思ってしまうが、実は定家にも弱みはある。それは少年期に重病を二つも患っていることだ。

定家は、14歳で赤斑瘡で生死の境をさまよい、16歳では天然痘にかかった。どちらもなんとか快癒したが、後者の後は呼吸器に病をもったらしく、この病には逐一悩まされたという。

『明月記』の中でも、自分の体の衰えを嘆いて、「毎年、冬になると体調が悪くなる」などと記しているというが、定家が死亡したのは、なんと80歳のときであった。病気がちだっただけに、健康には人一倍気を使っていたのかもしれない。


※写真は岩波文庫の『新訂 新古今和歌集』。当代随一の歌人だった定家の選ぶ名歌を知りたいなら、やっぱり原典。

※『「明月記」をよむ―藤原定家の日常』は、定家の生きた時代背景もわかる明月記の研究本。私は読んだ事ないですが、この本の出版社である三一書房はいい本が多いので、一応オススメしておきます。


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(キーワード)

●藤原定家(ふじわらのさだいえ)

鎌倉時代を代表する歌人。京都中納言。俊成の子。名前は「ていか」とも読む。
定家は、少年期に二度も病で生死の境を彷徨っている。14歳で赤斑瘡、16歳で天然痘である。さらに、呼吸器にも病を得て苦しめられたという。

定家は、16歳の頃に父の影響で詠作を始め、歌人としての階段を登り始める。後鳥羽上皇にも作品を高く評価され、勅撰和歌集である『新古今和歌集』の選者の一人となった。また、九条良経らのもと新風和歌を開拓。歌人としての名声も高まったが、にわかに後鳥羽上皇の怒りを買って閉門となってしまった。

1233年出家。35年には『新勅撰集』を自分一人で撰進。晩年は古典研究など文学関係の分野にも足跡を残している。著書に『近代秀歌』、『詠歌大概』などがある他、50年以上の記録が残っているという日記『明月記』も史料として高い評価を受けている。

仁治2年(1241)8月20日死去。享年80歳。


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私は「ふじわらのていか」って覚えてましたけど、事典には「さだいえ(ていかとも)」で載っているようですね。生死に関わる病をやっていたことなどは知りませんでした。でも80歳…。
徳川家康もかなり健康に気を使っていたといいますが、死亡時の年齢は75歳です。うーむ…。


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