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比企能員は、源頼朝の乳母である比企禅尼の甥であり、養子である。

2011-06-15 10:53:06 | 歴史隠れ話

歴史かくれ話と今日は何の日

2006年09月02日


比企能員殺される 建仁3年(1203)

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比企能員は、源頼朝の乳母である比企禅尼の甥であり、養子である。さらに、能員自身、頼朝の挙兵以来数々の功のあった男であり、それだけに頼朝の信任も厚く、能員の妻が頼朝の嫡子・頼家の乳母に任ぜられるほどだった。

さらに、能員は自分の娘(若狭局)を頼家の妻とし、しかも頼家の子・一幡を産んでいたから、鎌倉御家人のなかでもその地位は抜きん出ていた。

しかし、出る杭は打たれるのが世の常である。例外ではなく能員も打たれることになる。

初期の鎌倉幕府は、御家人の権力争いの激しい組織だった。力を合わせて平家を滅亡に追いやると、今度は仲間だった者同士で、一番になろうとする。頼朝もこれをまとめきらないうちに死んでしまったから、争いはますます激化していった。この比企能員殺害事件はその中でも初期に起こった事件であった。

能員を討ったのは、北条時政である。時政は頼朝の妻・政子の父親で、まさに能員と権力を二分する地位にいる男だった。もともと能員を出し抜いて、トップに立ちたいという意欲の旺盛な男であったと思われるが、都合よくその機会が転がり込んできた。

それは頼家の病である。病は重く、一時は助からないとさえ思われた。そこで、時政は早急に次の幕府のトップを決めてしまう。通常であれば、頼家には一幡という子供がいるのだから、この一幡が将軍職を継ぐのだが、北条時政は、娘の政子が頼朝の未亡人であることを利用して、関東28ヶ国の地頭職と惣守護職を一幡に、関西38ヶ国の地頭職を千幡(実朝:頼家の弟)に譲ると発表した。将軍権力を2分しようとしたのである。

当然ながら能員はこれに不満を持った。そこで、娘の若狭局を通して奇跡的に病が快癒に向かいかけていた頼家に、事の次第を訴えた。頼家もこれには怒り、ただちに時政を追討するよう命じた。ところが、これを隣室で北条政子に聞かれていた。

政子はすぐに父・時政にこのことを報告。時政は一計を案じた。「頼家の病気平癒祈願のため、名越の北条屋敷で供養を行うから参加してほしい」と能員を呼び寄せたのである。能員の子息らは、「罠に相違ありませぬ」と能員を止めたが、能員は「供養の席で罠もあるまい」と言って、出かけていってしまった。

北条屋敷で部屋に通された能員は、突然天野遠景に抱きつかれて身動きが取れなくなったところを、仁田忠常に刺し殺された。

さらに時政は、これと同時に能員の屋敷に軍勢を派遣しており、若狭局、一幡他比企一族100余名が一網打尽に殺害されたという。

⇒比企一族の墓がある妙本寺周辺の墓(livedoor地図情報)



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(キーワード)

●比企能員(ひきよしかず)

生年不詳。鎌倉時代前期の武将。通称藤四郎。源頼朝の御家人。阿波国出身。

比企能員は、頼朝の乳母をつとめ、伊豆に頼朝が幽閉されている時も傍に付き従った比企禅尼の甥であり、養子である。そして、自分も頼朝の挙兵に参加して、平家追討に尽力した。

頼朝の信頼も厚く、寿永元年(1182)10月に頼朝の嫡子・頼家が生まれると、能員の妻が頼家の乳母に任命されている。能員自身は、主に源範頼(頼朝の弟)に従って、平家追討戦で転戦した。さらに、奥州藤原氏の追討の際には、北陸道大将軍となり、出羽を平定。建久元年(1190)には、出羽で叛乱を起こした大河兼任を鎮圧した。

同年12月に右衛門尉に任じられ、頼朝の側近として大きな権力を得る。

娘・若狭局が頼家に嫁いだため、頼家の舅となり、その発言力はさらに強まったが、これを快く思わない者がいた。北条時政である。

やがて時政は、能員を除く計画を実行に移す。能員が頼みとしている頼家の病気にかこつけて、頼家の弟・千幡(のちの実朝)と頼家の子の一幡の2人へ将軍権力を分断しようとしたのである。能員は当然これを了承しなかった。

そこで、時政は「頼家様の病気平癒祈願」と称して能員を自邸に呼び出して殺害した。
比企一族は、一幡や若狭局も含めて、これに連座してのきなみ殺害されてしまったのである。


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鎌倉時代初期の権力闘争はどろどろしすぎです。特にこの北条時政ってヤツがやることえげつないんだよねぇ。下手すると、こいつさえいなければ、もう少しまとまっていたかもしれないのになあという気さえするほど。あと政子様ね。

頼朝も意外と優柔不断な面があったといいますが、とにかく政子に頭があがらない。これがいかんですよね。政子の親父の時政は、自分の家来のはずなのに、やっぱり政子の地位を利用して大きく出ようとしてくるんだから。
でも、北条一族がいなかったら幕府はどうなっていたんだろう…。


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