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歴史のウラ話&「今日は何の日」です!

2011-06-04 16:29:51 | 重大ニユース


歴史のウラ話&「今日は何の日」です!


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2006年07月13日

福島正則没 寛永元年(1624)

福島正則は戦国時代~江戸時代初期の武将。

福島正則の名を聞いてすぐに思い出されるのは賤ヶ岳七本槍の1人ということではないだろうか。正則は、確かに戦働きに長けていた。だから、主君・豊臣秀吉の天下統一戦や、朝鮮出兵では大活躍した。また、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、西軍の石田三成憎しの思いもあって、東軍についたが、決戦当日はもちろん、当日までの岐阜城攻めや小競り合いなどでもなかなかの働きぶりを示していた。

だが、徳川家康により、江戸幕府が成立してからは当然戦はなくなった。代わりに幕府は支配体制の強化を推し進め、様々な政策を実施して大名たちにそれを課した。正則などは、尾張国(愛知県)名古屋城の建築の時に、加藤清正に愚痴を言って、清正から「そんなに嫌なら戦の準備をすればよい」などとあしらわれている。

正則は、元々秀吉子飼いの武将で、豊臣家への忠誠心にも厚い男だったため、徳川家からは常に警戒を受けていた。だからこそ1615年の大坂の陣の時も、江戸城留守居役として、合戦には参加させてもらえなかったのである。

正則は、関ヶ原後、安芸広島49万8千石余を与えられた。そして数年過ぎたある時、壊れた石垣を修理しようとして、規則に従って正則は、幕府に石垣修理の許可を求める。当時「城の無断改築・修理は禁止。まず申し出よ。」という命令が幕府から出ていたので、正則はそれに乗っ取って申請をしたのである。しかし、一向に幕府からの返答はなかった。

そこで正則は、やむなく許可を得られないまま工事を始めてしまった。「たかだか石垣だけ」、「申し出はしているのだからいいだろう」という油断がこうさせた。だが、工事を始めて間もなく、正則はこの無断工事を「規約違反」として指摘され、改易となってしまった。この事件については、福島家を改易にしたい幕府の陰謀であったといわれている。

福島家の家臣たちは、この改易命令に納得せずに、「一戦あるべし」といきり立つ者もいたが、正則は少し考えてから、「大御所(家康)後健在ならば、申すべきこともあろうが、ご当代(秀忠)には申すことはなし。仰せに従おう。」と言って、家臣たちをなだめて神妙に沙汰に伏した。

正則が異論を唱えず、神妙に沙汰に伏す態度を見せたので、罰の悪さを感じたのか、幕府は当初福島家を改易としていたところを、信濃国(長野県)川中島に4万5千石を与えて、家名の存続も許した。

正則はそのまま不遇のうちに寛永元年に没した。享年64歳。

⇒福島正則の霊廟がある長野県上高井郡小布施町の岩松院付近の地図(livedoor地図情報)

※写真は学研の図説シリーズ『図説・戦国武将118―決定版』。福島正則も載っています。武将の甲冑や家紋、旗印、肖像などあらゆるデータを人物解説付きで網羅した見て楽しい本です。オススメ!
あと、正則についてのみの本は『福島正則―最後の戦国武将』というのがあります。福島正則個人の一生を追っている著作は意外と少なめで、この本なんかは貴重ですが、内容は専門的というかオカタイ。


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豪傑タイプのようなイメージのある福島正則。晩年は上記のように不遇な人生となってしまいました。正則改易事件については、本多正純が正則から「石垣修理したい」という依頼を何回か受けて、何回目かに「福島どのなら石垣くらい許可なしで修理してもいいでしょう。」と言ったとかいう話しもあります。こちらの場合は完全に騙してますね。幕府はこういう汚いことを初期段階で数回行って、ようやく支配体制を磐石にしたんですなあ…。

これだけ書くと幕府が嫌いになりますね…。


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