日常

ひとりの人間

2012-03-27 19:58:39 | 考え


人と話すことで、自分の考えはまとまってくることがある。

流水に小舟を浮かばせるように、脳内のフローに想念を流す。それは単なる移りゆく考えごとになる。
形を与えられずに流れたものは地下へと沈澱してゆく。それも過去の考えごとになる。


言語というひとつの論理体系がある。コードのようなものだ。
日本語という言語体系を利用して、その沈殿していこうとする流動物を日本語というひとつのコードに従って束ねてゆく。そしてゆっくりひきあげてくる。
すると、それは言語として浮上してくる。言語体系を中心軸とした形や形相を帯びている。


思っている事を表現する時、常に言い足りないし、常に言い過ぎる。
思いを適切な言葉で置換することは困難だ。

異なるふたつの世界を、ひとつのコードで重ねてつなぐことだから、きっとそういうことが起きる。

ただ、言語化されることで想念はある質量を持ち、振動数を持ち、帯電をし、磁場を持つ。
そうして、想念や思い、というものは形や輪郭を与えられる。



人と話すとき。
お互いが虚空に詩を放つように、ひとりごとを放ちあう対話もある。
ただ、人と話すことの基本には、互いが互いを伝えあう事を基礎としている。
互いの間に目に見えないものが交互にやり取りされて互いに浸透していく。



言語法則に従い、脳内の想念は言語化される。
言語はまだやわらかく、粘土のようにこねられる。そのかたまりを相手に手渡すと、相手が受け取る。
相手はさらに粘土をこね、再度こちらへと手渡される。

その作業の繰り返しは何十回も何百回も。時には何億回もやり取りは続く。
そして、互いが納得いくような形へと整えられてゆく。



その出来上がった形から、互いは自分が好きなように意味を読みとる。
イメージを媒介としてシンボリックに多層的な意味を読みとる。


シンボルは、互いのイメージ世界が深く広いほど、深く広いものとなる。
時には何も読み解けずに謎として終わることもあり、無限に尽きることない情報源として機能することもある。


・・・・・・・・・・

さきほど、自分の脳内の考え事を見よう、見よう、と頑張って念じていいたら、こういうイメージが湧いた。





自分は、「にんげん」と「いのち(せいめい)」にこそ興味があるのだ、と。人と話していて改めて気付いた。
人と話すことで、自分は自分をより深く実感できる。


宗教という体系や想念に興味があるのではなく、宗教をつくりあげたひとりの人間に興味があり、それを信仰するひとりの人間にこそ興味がある。ある宗教を批判する宗派に興味はなくて、その宗派を信仰し他者を批判するひとりの人間にこそ興味がある。

精神に興味があるのではなく、精神を持つひとりの人間に興味がある。
こころに興味があるのではなく、こころを持つひとりの人間に興味がある。
狂気や「神がかり」(ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟に執拗に出てくる)に興味があるのではなくて、狂気や「神がかり」と称される状態にならざるを得なかったひとりの人間に興味がある。
医学や健康に興味があるのではなくて、治癒と言われる状態へと至っていくひとりの人間のプロセスにこそ興味がある。


自分はひとりの人間に興味があり、そのひとりの人間のひとつの人生に興味がある。





何かを伝えること。
集団催眠のように多数の人に同時に伝えることには興味がない。
そこには何らかの欺瞞があるように思えてならない。
そうではなく、ひとりの人間に伝えることに興味がある。


効率性という意味では、ひとりを相手にするよりも多数を同時に相手にする方が効率的かもしれない。
ただ、効率性や利便性は、ひとつの集団幻想のように思える。
集団催眠が解けると、同時にその魔術も解ける。
そして、少ない得たものより、多くの喪失したものに気づく。

何を選択するかは個人の自由に任されている。生き方もそう。
だから、自分はひとりに伝えること、それを積み重ねること、を選択する。


効率よりもひとりの人間に伝えるという事が、自分の中でのコミュニケーションのはじまりだったように思える。
ネットが出来て、ブログができて、同時に複数の人に伝えることができるようになっても、自分が自分で錯覚してはいけない。

はじまりは、ひとりの人間に伝えること。そのことに尽きる。

結果論として効率よく利便性のあるものとしても応用できる場合がある、ということに過ぎなくて。



観念や想念そのものなんかよりも、観念や想念をつくり、いだき、たもち、しんじ、はっしようとするひとりの人間にこそ、興味がある。
だから、話すときも同じ。ひとりの人間と話すことにこそ興味がある。


手間はかかる。確かに手間はかかる。
でも、たいていのものには手間がかかるものだ。
別に気にしない。


いまという時間が、与えられている。
誰にも平等に与えられているのが、いまという時間。それはほんの一瞬。

過去は記憶だし、未来は希望や不安。
時間はいま。いまという時間が平等に与えられている。

だから、手間がかかるとかなんて、本質的には気にする必要なんて何もない。
その人にとっての寿命が来るまで、今という時間を果てしなく重ねてゆく。シンプルなことだ。

ひとりの人間をひとりひとり根気よく数えていくと、地球上には60億人以上のひとがいる。
なんともすごいことだ。
だから、大切なのは、ひとつひとつだし、ひとりひとり。
自我を肥大させずに、ひとつひとつ、ひとりひとり。

一は多となり、多は一となる。

2 コメント

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一、十、百、千、万、億・・・ (いなば)
2012-03-29 22:31:32
>>キヌカさま
コメントありがとうございます。

「ひとりの人間」「ひとつの人生」・・・数えるときって、簡単に十、百、千、万、億・・・ってどんどん単位をあげていくことができると思うんですが、おおもとにあるのはすべて「ひとつ」って概念だと思うんですよね。この積み重ねで、十、百、千、万、億・・・っていう単位があって、常にいろんなものを省略しています。

省略して数えることで時間を節約できるという利便性を得ることができるわけですが(1000人を1人1秒ずつ数えると1000秒かかるけれど、1000人をひとまとめにして数えると1秒ですむので、999秒は効率がよくなるわけで)、ただ、そんな風にして得た効率性とうらはらに、そこに潜む1000人の1000様の人生のバリエーションを失ってしまうんですよね。

難しく言うと「普遍性」と「多様性」との間とでも言いましょうか、「同じ」と「違う」の間とでもいいましょうか、そういうことかもしれません。
じゃあ、自分はどちらの側につきたいかと言えば、やはり面倒くさくて時間がかかっても、ひとりひとりを丁寧に着実に扱うことを選択したいと思うんですよね。
もちろん、人間の集団の動きっていうのも面白いんですが、やはり感情移入できませんよね。日本人1億2000万人というのをひとまとめにしたところで、感じられることはたかがしれてるというか・・


キヌカさんがおっしゃるように、自分の内面も、そうですよね。

それぞれがひとつひとつの広大な内的宇宙を抱えていて、それはひとつひとつ同じものはないと思うのです。それは一卵性双生児であっても、内的世界が寸分たがわず同一、っていうことはありえないと思いますしね。

僕らは、そういうひとりひとりがひとつひとつの内的宇宙を大切にしながら、外的世界での与えられた仕事を責任もって遂行していって、そのことで再度内的世界を深めていく。そういうことの繰り返しのような気がしています。【内と外
】っていうところで書いた内容はそういうところもあるんですが、あまりに内省的過ぎると、コメントを書きにくいのかな・・・とも思ったりして。苦笑



そうして読んでいただけていると知ると、とてもうれしいです。
ありがとうございます。今後ともよろしくお願いします。
ふと気が向いたらコメント残してくださいませ。
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ひとりひとつ (キヌカ)
2012-03-29 11:26:33
「ひとりの人間のひとつの人生」…
大切にしたいフレーズです。

「ひとりの人間に伝える」こと…
忘れずにいたい姿勢ですね。

そして、自分の内面も。
人と会話しかかわりあいながら、
優しく見つめ続けていけたらと思います。

伝わるものがあります、いつも。
吾さんの文章には。
楽しみに、読ませていただいています。
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