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平安時代の歴史紹介とポートレイト (アフェリエイト説明 / ちょっと嬉しいお得情報を紹介)

古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

村上海賊の娘-12 淡路水軍衆の党首は安宅信康

2014年05月19日 | 戦国時代

 毛利、村上水軍約1000艘(資料によりまちまちのようである)が圧巻の大群となって大坂本願寺への水路入口、つまり木津川河口を目指している。途中立ち寄ったのは淡路の北端にある岩屋城である。瀬戸内でも最も潮流の激しいと言われる明石海峡を挟んで北が明石、南が岩屋である。この一帯は戦国時代から安土桃山時代にかけて淡路水軍が支配していた。その総指揮官となるのが安宅信康1549-1578で、三好長慶の弟・安宅冬康の長男として生まれたが、父・安宅冬康が三好長慶に殺されたために家督を継ぐこととなった。その安宅信康の立ち位置はというと、本願寺側でもなく織田側でもない中立的立場といってよい。そして播磨の各城主が毛利と織田を天秤にかけていたのと全く同じような状況にあったのである。そこで毛利家は安宅家から岩屋城を借りうけることで、毛利側に引き込むと同時に、この輸送作戦での応援を持ちかけていたことは言うまでもない。安宅のような海賊の老舗は、村上水軍と同じように大名の家臣となるような気性は持ち合わせていない。だから岩屋城でつかの間の逗留をする間も安宅氏に気を許すことはできないのである。

 さて翌日には、毛利と村上の水軍が一気に木津川へと攻め寄せる作戦であったかというと実はそうではなく、織田側を上杉謙信勢力と挟み撃ちにするというのがこの戦いの作戦であった。これは策士・小早川隆景1533-1597の考えでもあり、小早川隆景と同い年の村上武吉1533-1604の考えと一致していた。従って岩屋城からの出撃の条件は上杉謙信の勢力南下であった。何故なのか?解説するとこうなる。そもそも織田信長と相対する足利義昭15代将軍は上杉謙信と毛利を取り込もうと働きかけをしていたが、益なし義なしゆえに動く必要なしという判断を謙信はしていた。毛利家も同様であったので互いに様子を見ていたというところである。因みに村上水軍の本拠地である海道に福山・鞆の浦という風光明媚なところがあるが、将軍足利義昭はわざわざ鞆の浦まで参上して毛利家および水軍を見方につけようとしていたのである。この時、「上杉謙信も、わちきの意向に合意したゆえ、毛利も援護の意思を固めよ」 というようなことを持ちかけたにちがいない。しかしそんな上杉の合意など恐らくない。そんなことは百も承知の毛利、村上軍団であるから、いつ出撃できるのかと岩屋城にてやきもきすることとなる。しかし実は毛利・村上の長はやきもきなどしておらず、折を見て引き返そうと思っていたのである。

 それともうひとつ、毛利、村上水軍の勢力は確かに最強である。眞鍋水軍を中心とする泉州側300艘にくらべると1000艘ではないか・・・・。しかしこれは10万石の兵糧を運ぶ兵糧船を含んでの数であって戦闘可能な舟の数ではない。10万石の兵糧を運ぶのに必要な船は、江戸時代に淀川などで物資を運搬した30石船なら350艘必要である。毛利、村上の主力船は「小早」といって小回りの利く小型の船であるから、30石船の半分しか積載できない。従って10万石、25万俵を運ぶには小早700艘が必要なのである。よって戦闘用の小早は1000-700=300艘となる。岩屋から木津川にむかって出撃するのに300艘使えるかというとそうではない。岩屋城城主・安宅信康という淡路水軍の長は、まだ信用できる人物ではないから、兵糧を守る100艘の小早護衛を岩屋に残す必要があったから、実質的な戦闘数は200艘ということになり、泉州の300艘を下回ることになるのである。これを知る小早川隆景、村上武吉にしてみれば、泉州に対抗するにはどうしても上杉謙信の力が必要だったのである。そしてそれは期待できない。従ってしかるべきタイミングで引き返す・・・なのである。

 ところで、現在の岩屋城は関が原の戦い以降に池田輝政により築城されているから、ここでいう岩屋城は別であるが、両者はさほど離れてはいない。また岩屋城とは淡路島の反対側にあたるところに淡路城がある。実はむかし淡路島の八箇所に築城されたのであるが、熊野水軍の頭領である安宅氏により最初に築城された洲本城を本拠にして各地に増築されたのである。三好氏の重臣・安宅治興が築城した後は三好長慶の弟・安宅冬康、そして嫡男・信康へと受け継がれた。

安宅信康が支配した淡路城

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村上海賊の娘-11 来島村上水軍衆 

2014年05月18日 | 戦国時代

 ここ四国今治にある糸山公園から大島に向かって架かっている橋により、来島海峡を越えることができる。来島海峡に浮かぶ小さな島が来島で、このあたりを支配していたのが来島村上水軍である。 当時の水軍党首は来島通総、年はまだ若く実質的には村上通康が来島水軍をまとめていたと思われる。また村上吉継という家老が当主補佐をしており、かなりの実権を握っていた。村上吉継の本拠は甘崎城で、瀬戸内海一帯の水軍城の中では一番古く、古城島に建設された。古城島は、この一帯では一番霊験あらたかな大三島の東に近接して浮かんでいる。したがって村上水軍の中では来島水軍が歴史的には一番古いのかもしれない。ということで大三島についてもう少し詳しく触れる必要があるが、それは後ほどにして、その昔由緒のあった来島に代わって能島水軍が村上武吉の功績によって繁栄したということは、最初に記した。しかし系図にも現れているように、来島城主・村上通康の娘が村上武吉に嫁ぐことによって元吉、景親、琴姫を生んだことから、元々は来島水軍のほうが能島水軍よりも上位にいたと察する。能島が古来より上位にいれば、これはありえない。また、村上通康は河野通直の娘を娶っている。以前紹介したが、河野通直は河野水軍の党首であり、村上水軍は元々河野水軍の家臣なのである。その河野氏の娘を来島が娶っていることからも、昔の来島勢力のほどがわかる。村上通康は当時43歳の村上武吉よりも15歳年上である。従ってこの15年の間に両者は逆転したのだろう。村上水軍の因島、能島、来島を説明したところで、毛利兵糧輸送に戻ることとする。

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村上海賊の娘-10 能島村上水軍衆 

2014年05月17日 | 戦国時代

 因島の次は能島村上水軍である。大坂本願寺への兵糧輸送作戦の護衛の棟梁は因島水軍・村上吉充であるが、本来は能島の村上武吉である。能島水軍は、もともと毛利方に加勢をする意思はなかった。この男、毛利家の家臣ではあるが毛利氏の周防・長門の平定に協力し瀬戸内海一の水軍勢力となった。誰もが一目置く存在であった。塩飽諸島など瀬戸内の他の水軍衆とも手を結び、通行する船から帆別銭という通行料を取り立てることで栄えた立役者である。そんな人物を毛利家が放っておくはずもなく、1570年に毛利元就・毛利輝元・小早川隆景の三者が起請文を武吉と交わしたことで、村上水軍における村上武吉の立場を確立する。石山合戦で毛利が織田信長と戦うと決すると、村上水軍は小早川・児島・乃美水軍などと共に毛利方水軍として戦うことを決めた。かくして1576年7月13日の第一次木津川口の戦いに向けて始動したのである。この戦いの目的は兵糧10万石を大坂本願寺の長期篭城に備えておくること。その為には途中織田側の勢力と木津川河口にて大戦となるのはわかっているため、兵糧輸送船団を護衛する必要がある。能島村上水軍を率いたのは村上武吉の嫡男・元吉、毛利元就から一字を拝領した名である。サポートしたのが次男の景親、主君・小早川隆景より偏諱を賜った名である。

 さて、毛利水軍と村上水軍が大坂本願寺に兵糧を輸送開始した1576年7月の約2年後はというと、播磨三木氏の別所長治が大坂本願寺の信徒を数多くかかえて篭城作戦に入った。というのも1578年4月18日の上月城・城主(黒田官兵衛の義兄弟)が毛利と戦って、尼子勝久とともに惨敗した(この時毛利軍として村上水軍が参戦している)のをきっかけに、播磨の数多くの城主が毛利側へとなびき、織田信長に相対することとなる。播磨野口城、志方城、神吉城が次々と陥落したことで、三木氏の篭城作戦が始まったのが1578年5月5日。また、織田の家臣・荒木村重が謀反を起こして始まった有岡城の戦いが1578年7月、そして竹中半兵衛が三木合戦の途中亡くなったのが1579年7月6日ということも併せて踏まえながら、これから始まろうとする木津川の戦いを見るのは面白い。 

  北畠親房              乃美宗勝の妹
     ┗北畠師清(信濃村上氏)    ┣景隆
            ┣義顕:因島 ┏村上吉充?-? 青影城主
            ┃      ┗村上亮康?-1608
           ┣顕忠:能島 村上武吉1533-1604
           ┃       ┣元吉1553-1600
           ┃       ┣景
           ┃       ┣景親1558-1610
           ┃       ┣琴姫(養子:実父は村上通康)
           ┃       ┃┣秀元(毛利輝元養子 長府藩祖)
           ┃   (来島城主)┃毛利元清1551-1597(穂井田家)
           ┃   村上通康┃
           ┃  1519-1567┣娘 
           ┗顕長:来島  ┣得居通幸1557-1594        
                           ┣来島通総1561-1597当主
                  ┃・・村上吉継? 当主補佐 甘崎城本拠
                         河野通直の娘 

巨大な大島と伯方島の間にある能島は実はこんなに小さい

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吉野マリアさん

2014年05月16日 | 吉見麻里絵 流川しおり 吉野マリア りお 陽香

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吉野マリアさん

2014年05月16日 | 吉見麻里絵 流川しおり 吉野マリア りお 陽香

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吉野マリアさん

2014年05月16日 | 吉見麻里絵 流川しおり 吉野マリア りお 陽香

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村上海賊の娘-9 因島村上水軍衆 

2014年05月16日 | 戦国時代

 毛利水軍による大規模兵糧輸送を護衛した村上水軍の中心となった村上因島水軍、これを率いたのは党首・村上吉充である。因島は「しまなみ海道」の向島と生口島に挟まれた大きな島で、因島北ICを降りて南東に1kmほど走ると因島水軍城(青影城ともいう)が現在も残されている。ただし昭和になって再建されたものである。城主・村上吉充は小早川家海賊衆の党首・乃美宗勝の妹を娶っているから、毛利庶流の小早川家とは結びつきが深い。兵糧輸送船団を率いるのは小早川家海賊衆の党首・乃美宗勝が中心人物であるから、乃美宗勝と村上吉充は最高のコンビといえる。数年前に訪れた因島の村上水軍城は、再建されたというものの立派である。城への登城はかなり急な坂道をかけあがる必要があり体力に自信がないと楽にはのぼれない。また村上水軍の菩提寺ともいえる金蓮寺には多くの墓所が並んでおり、因島村上水軍の勢いが強かったことが偲ばれる。党首・村上吉充は乃美宗勝の妹を娶ったが子供には恵まれなかった。そこで弟の村上亮康の子景隆を養子にした。こういう背景があったためだろうか、村上海賊の娘では主人公・景と村上吉充は結婚するのかな?という描かれ方もなくはなかった。景は男勝りの戦士である。そんな景が考えていた結婚相手は、海賊のなかの海賊である。したがってこのような男として描かれてはいるが、少し物足りなさを村上吉充に感じていた。一方村上吉充は嫁に景を考えるなど眼中にない。景のような当時の姫には似つかわしくない女は村上水軍の海賊からは相手にされない状況である。そのような描写を挟みつつ、村上吉充の描写は海賊の勇士であった。なんだか、今気づいたが歴史の状況を淡々と記載するのに比べると、男女の人間模様を書くのはダメな自分に気づいた。

金蓮寺(村上家の菩提寺)にある因島村上水軍の墓 

因島水軍城二の丸にある展示館

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村上海賊の娘-8 村上水軍衆 

2014年05月15日 | 戦国時代

 毛利水軍による大規模兵糧輸送を護衛したのが村上水軍、その数700艘。小説「村上海賊の娘」では300艘とあったが、実際には700艘以上あったと考えられる。その中心となったのが村上因島水軍率いる村上吉充である。この輸送作戦では、村上能島水軍の党首・村上武吉は参加していない。また来島水軍党首・来島通総も年若のため参加していない。ではそもそも村上水軍全体を取り纏めていた村上能島水軍の党首・村上武吉は何をしていたのか?当然の事ながら、これが謎である。実質の党首不在の戦いというものは士気が上がらないから、ふつう党首不在は考えられないことなのである。党首が若い場合には、お飾りであったとしても戦いに参加するものである。この謎にヒントを得て書かれた小説が和田竜氏著の「村上海賊の娘」と考えられる。(この辺は私の勝手な想像であるから真実はわからない) では村上海賊の娘とは誰かというと、能島村上水軍衆の党首・村上武吉の娘である。名前は景、小説では慎重180cmのがっちりした体躯の20歳の大女で、真っ黒な肌色にギョロっとした目つきのこの娘、まるで村上武吉を女にしたような娘である。そしてこの娘が10万石兵糧作戦では大活躍することとなるのである。従って村上武吉の代わりに娘・景をこの作戦に参戦させた。小説であるからここのところは史実ではない。また私の知る限り景という娘は村上武吉にはいない。しかし著者・和田氏は、この小説の末尾で、景の戦後について触れている。伊予の黒川氏に嫁いだあとは云々とある。この戦いおよび景のその後についてはあとで触れるとして、ここでは村上水軍の話に戻る。

 村上水軍が活躍の場としたのは、下記の地図で示した四国愛媛と本州尾道に挟まれた瀬戸内海に浮かぶ大小数多ある島一帯である。現在では「しまなみ海道」として知られ、7箇所の大橋で結ばれたために、交通の便は格段によくなった。じつはこの場所に私は3回行っていて、2回はお泊りだったので、総計かなりの歴史の散策を行った。当時のメインイベントは河野通信を勉強することであった。河野通信は平安時代の伊予の水軍で、源義経が平家と戦ったときの援軍の総大将なのである。だから当時は村上水軍は存在しない。河野通信は村上武吉の時代を遡ること600年くらい前のことである。では河野氏は戦国時代にはどうなっていたかというと、脈々と続いていて、1576年当時は河野通直が伊予守として党首を務めていた。そして村上水軍の系図に描いている村上通康、来島通総、村上武吉の面々は、実はこの河野氏の家臣だったのである。つまり、河野氏は伊予の大名として君臨していた。因みに愛媛松山に行くと良く見かける正岡子規、幕末の伊藤博文、慰安婦問題で話題となっている河野談話で有名な河野洋平氏などはすべて河野水軍の末裔である。

河野親清
  ┣河野通清-1181
河野親経娘┣河野通信-1223
      ┃  ┣通俊
     ┣通孝┣通政
      ┗通経┣通末
        ┣通久(母は北条時政娘・やつ) 
        ┃┣通時 
        ┃┣通継━通有 
        ┃┣通行 
        ┃┗通盛 
        ┣通広(母は二階堂行光娘) 
        ┃┣通朝 
        ┃┣通尚 
        ┃┗通定 
        ┗通宗  

北畠親房                     乃美宗勝の妹
     ┗北畠師清(信濃村上氏)    ┣
            ┣義顕:因島  村上吉充?-? 青影城主
           ┣顕忠:能島 村上武吉1533-1604
           ┃           ┣元吉1553-1600
           ┃           ┣景
           ┃           ┣景親1558-1610
           ┃           ┣琴姫(養子:実父は村上通康)
           ┃           ┃  ┣秀元(毛利輝元養子 長府藩祖)
           ┃   (来島城主)   ┃毛利元清1551-1597(穂井田家)
           ┃        村上通康 ┃
           ┃  1519-1567  ┣娘 
           ┗顕長:来島      ┣得居通幸1557-1594        
                                 ┣来島通総1561-1597当主
                         ┃・・村上吉継? 当主補佐 甘崎城本拠
                              河野通直の娘

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村上海賊の娘-7 毛利水軍衆 

2014年05月14日 | 戦国時代

 織田軍の大勝で天王寺砦の戦いは1576年5月7日に幕を閉じた。この戦いで大敗した大坂本願寺軍は徹底した籠城戦に持ち込んだのである。こうなると必要なのは長期戦に備えた兵糧であるが、底をつくまでの期間は3ヶ月であったようだ。従って大量の兵糧を何とかしなくてはならない。しかも木津川河口などの海路は泉州和泉を中心とした水軍衆によっては固められている。そこで大坂本願寺が頼ったのは毛利の水軍による兵糧輸送作戦で、その量は10万石という莫大な量であった。これだけの兵糧を運ぶためには約1000艘にも及ぶ大輸送船団が必要となる。毛利家がこの要請に呼応したのには理由がある。しかしここでは割愛させていただくとして、毛利輸送船団の成り立ちについて解説する。もともと安芸武田氏直轄の水軍衆や譜代家臣であった児玉氏の水軍衆を毛利家が取り込んだことから毛利水軍が始まったという。また、安芸国の豪族・竹原小早川氏へ毛利元就・三男の隆景を養子に送り込み、小早川氏は毛利家に取り込まれた。小早川氏直轄の水軍が毛利氏直轄になり誕生した水軍が毛利最強の小早川家海賊衆で、その党首が乃美宗勝である。従って乃美宗勝の本拠地は竹原忠海町で、賀儀城城主でもある。ところで、村上水軍はというと、小早川氏と姻戚関係を結んでいた河野氏の被官で、瀬戸内海の芸予諸島を中心に活動していたことから、当然のことながら毛利家とも深く結びついていたのである。系図を見れば毛利小早川家海賊衆・乃美宗勝が最強であったゆえんがわかる。毛利家をここまで巨大にした毛利元就の側室に乃美大方がいることでもわかる。

 さて、大坂本願寺が織田勢と交戦するに際して篭城を決め込み、毛利家は兵糧10万石の輸送を決めた。船団数は1000艘、その護衛に必要な水軍船団は300艘である。実質的な総大将は、小早川家海賊衆であり賀儀城主の乃美宗勝ではあるが、形式的な総大将は毛利家海賊衆の棟梁・児玉就英となる。毛利家宗流に仕える児玉就英のほうが、小早川家庶流の乃美宗勝よりも上位であるから乃美宗勝としてはやりにくい。それぞれの本拠地から続々と集まった1000艘の大船団は、兵糧を積むべく乃美宗勝の本拠地である竹原忠海町・賀儀城に程近い港にひしめいている。ところで、竹原忠海町というのはその昔、平家の棟梁・平忠盛(平清盛の父)ゆかりの地で、平忠盛が瀬戸内海の海賊退治の功績を称えられこの地一帯を賜ったことから忠海は忠盛の名を冠して付けられたと云われている。今やその乃美宗勝という海賊が忠海一帯を支配しているのだから歴史は皮肉なものである。10万石の兵糧を積み終えた船団は難波目指して出航した。そしてこの船団を護衛するのが村上水軍300艘なのである。実はこのとき、毛利水軍に対して播磨の英賀衆も援護をしている。英賀は一向宗勢力が根付き寺内町が形成され、堺と同じく町衆による自治が行われ河川交通・海上交通の要所として商工業が繁栄していた。時の英賀城主は三木氏9代目・三木通秋で、妻は黒田職隆女というから黒田官兵衛とは兄妹となる。黒田官兵衛はもちろん織田側に就いており、英賀城主は毛利側に就いているのであるから、戦国の世は悲しい運命を背負うことが、ここからもわかる。

乃美隆興1513-1598
┗乃美大方?-1601
  ┣毛利元清1551-1597
毛利元就1497-1571  
  ┣毛利隆元1523-1563       
  ┃    ┗輝元1553-1625             
  ┃ 児玉就方1513-1586
  ┃  ┗児玉就英1534-1612(毛利家海賊衆)
  ┃
  ┣吉川元春1530-1586       
  ┣小早川隆景1533-1597    
  ┃ 乃美賢勝
  ┃  ┣?村上吉充室
  ┃  ┗乃美宗勝1527-1592(小早川家海賊衆:賀儀城主) 竹原忠海町豊臣秀吉の文禄の役で宗勝も朝鮮へ出陣
  ┃    ┗嫡男の浦盛勝
吉川国経女

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村上海賊の娘-6 天王寺砦戦 

2014年05月13日 | 戦国時代

 この天王寺砦の戦いでは織田側の総大将・原田直政は討ち死にした。大坂本願寺側の大勝利というのが天王寺砦戦の前半戦である。総大将・原田直政が泉州和泉水軍衆・眞鍋七五三兵衛率いる眞鍋水軍、佐久間信盛率いる沼間任世の沼間水軍、寺田又右衛門・松浦安太夫兄弟率いる松浦水軍、をもってしても大坂本願寺の軍勢1万と雑賀衆鉄砲隊を崩すことはできず、明智光秀の天王寺砦までが苦戦を強いられていた。明智光秀の救援要請に立ち上がったのが何と織田信長本人であった。事は急を要していただけに、信長側軍勢がほとんど集まらなかったにもかかわらず、わずかな手勢で本願寺勢を強襲、翌7日には信長は3000ほどの兵で本願寺勢1万5千に突撃したという。先陣は佐久間信盛・松永久秀、2番手は滝川一益・羽柴秀吉、3番手は信長の馬廻りで、信長自身は先手の足軽に混じって指揮を取ったのである。本願寺勢は多数の鉄砲で防戦したが、織田軍はこれに突っ込んで敵陣を切り崩し、天王寺砦の守備隊と合流した。

 合流された本願寺勢も退却せず、陣形を立て直しつつある。信長の再度攻撃に、家老たちは多勢に無勢であるとして止めたが、信長は「今が好機」とばかりに、本願寺勢を撃破して2700余りの敵を討ち取ったという。こうして織田軍の大勝で天王寺砦の戦いは幕を閉じた。この戦いで大勝した織田軍は、摂津方面での陸戦での優位を確立すると、本願寺軍は徹底した籠城戦に持ち込んだのである。こうなると必要なのは長期戦に備えた兵糧であるが、陸路は固められ、海路も泉州和泉を中心とした水軍衆によって木津川河口は固められている。そういう状況下で、本願寺は毛利からの兵糧に期待を寄せながら篭城していたのである。天王寺砦は現在の四天王寺のすぐ北側にあります。因みにこの一帯は大坂冬の陣に際して真田幸村が真田丸を設け、徳川軍と激戦を交えた地でもある。

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村上海賊の娘-5 雑賀衆・鈴木孫市  

2014年05月12日 | 戦国時代

 石山本願寺を取り囲んだ荒木村重の野田砦、明智光秀の守口砦、原田直政の天王寺砦に対して、楼の岸砦から出陣した本願寺勢・約1万の援護をしたのは数千丁の鉄砲を所有する最強鉄砲隊の雑賀衆、率いるのは鈴木孫市である。原田直政の軍勢はこの攻撃に耐えられず、一族と共に討死し原田軍は崩壊し、織田信長側・天王寺砦も危機に瀕した。「雑賀衆を味方にすれば必ず勝ち、敵にすれば必ず負ける」というのはこの国時代に実際に言われていた言葉である。戦国最強の鉄砲傭兵集団 「雑賀衆」は 大名家とも寺社勢力とも異なる特殊な集団で、それを率いた鈴木孫市は伝説の鉄砲使いとして恐れられた。雑賀衆は、紀伊半島の南西部を支配していた勢力で、大阪の南の一帯には肥沃な土地が広がり、瀬戸内海と太平洋を結ぶ海運に適した土地でもあったため多くの人々が住んでいた。この人々が、「雑賀衆」 と呼ばれる集団である。その 「最強の戦力」 ゆえに、戦国時代の荒波に翻弄される運命となっていく。雑賀衆は、近畿地方の大名 「三好家」 と 「織田家」 が戦う時に、織田家軍勢として戦った事もあったが、織田信長は、当時強大な権力を握った 「一向宗」 の総本山である 「本願寺」 と対立していった。雑賀衆 にはこの 「一向宗」 の門徒が多く、もともと本願寺とは友好的な関係にあったため、やがて織田軍勢と戦う事になるのである。伝説の鉄砲使い 「雑賀孫市」 率いる雑賀鉄砲衆は鉄砲隊を2列に並べ、前列が撃っている間に後列が弾を込め、交互に前に出て連続発射するという戦法を取っており、これは後に長篠の戦いでの織田信長による「三段撃ち」へと姿を変えることとなった。ところで、この鈴木孫市という人物は以下のように複数存在するようで、雑賀衆の棟梁になると鈴木孫市との名を受け継いだのかもしれない。

 鈴木孫市1534-1589 
 ┣鈴木孫六
 ┗鈴木重意1511-1585
   ┣鈴木重兼1540-1589
   ┣鈴木重秀1546-1586
   ┗鈴木重朝1561-1623

     ┗鈴木重次1598-1664

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村上海賊の娘-4 泉州眞鍋水軍 

2014年05月11日 | 戦国時代

 1570年の石山合戦開戦以来、本願寺と織田軍は一進一退を繰り返していたが、顕如の義兄である武田信玄の死や長島一向一揆滅亡などで大坂本願寺は追いつめられていく。しかし1576年2月、足利義昭の呼びかけに応じた毛利輝元が大坂本願寺に援助を始めたのである。士気を取り戻した顕如率いる大坂本願寺は信徒を総動員して5万の兵力集めたという。これによって大坂本願寺と織田信長側の戦闘が本格化していくのである。信長は大坂本願寺を一気に包囲する。荒木村重には本願寺の西に野田砦を築かせ、明智光秀には本願寺の東に森河内砦、北東に守口砦を築かせた。また原田直政には真南に天王寺砦を築かせ、完全に本願寺の包囲を固めたのである。1576年4月末までに3方向包囲網を敷くと、信長はこれを一気に打ち破ろうというのである。一方、本願寺側はすぐ西に楼の岸砦、南西の木津川河口から木津砦・三津寺砦・難波砦・崎砦など4箇所に砦があり、本願寺への水路を確保していた。木津砦の攻撃には眞鍋水軍という和泉衆や松浦水軍という岸和田衆、また原田直政率いる大和衆があたった。しかし、楼の岸砦から本願寺勢・約1万が討って出てきて、織田軍を包囲しつつ数千丁の鉄砲で銃撃を加えたのである。銃撃に参加したのはかの有名な精強鉄砲隊の雑賀衆、率いるのは鈴木孫市である。原田直政の軍勢はこの攻撃に耐えられず、一族と共に討死し原田軍は崩壊した。本願寺勢は勢いに乗じて天王寺砦を攻撃する。このとき窮地に陥った明智光秀は、京都に滞在していた信長に援軍を要請したのである。この戦いを天王寺砦の戦いといい、1576年5月3日織田信長側が木津に対して仕掛けてきた。本願寺優勢の中、天王寺砦を一気に攻めようとしたのは3日後のことである。

 この戦いで討ち死にした原田直政は織田側の総大将である。従って大坂本願寺側の勝利というのが天王寺砦の戦い前半戦となる。では後半戦は?それについては次回解説するとして、ここでは泉州和泉水軍衆の長・眞鍋七五三兵衛について記す。眞鍋七五三兵衛率いる眞鍋水軍は元々は瀬戸内の塩飽諸島にある眞鍋島の出身であるらしい。塩飽諸島は現在では笠岡諸島といって、福山市から香川県多度津市に延びる諸島をいう。因みにこの眞鍋島の隣にある北木島はお笑いの千鳥の大悟さんの出身地である。この眞鍋島に眞鍋島城があり水軍の本拠地となっていたが、そのずっと南西に位置する愛媛県新居浜にも眞鍋城があり、真鍋氏が移住した伝承が残っているらしい。1576年当時眞鍋の長が眞鍋七五三兵衛、その父親が眞鍋道夢斎。彼ら眞鍋水軍は泉州に活路を見出して、佐久間信盛軍の与力的存在となっていた。実は泉州の水軍として元々名を馳せていたのは、同じく佐久間信盛に仕えた沼間任世率いる沼間水軍と寺田又右衛門・松浦安太夫兄弟率いる松浦水軍であった。ところが眞鍋七五三兵衛、眞鍋道夢斎親子が眞鍋水軍としてのし上がり、沼間、松浦両水軍を追い抜き、友が島水道を支配していたようである。さて村上海賊はというと、この戦いには参加していない。基本的には村上海賊の党首・村上武吉は中立的な立場をとっていて織田信長、大坂本願寺いずれにも恩があるわけではなく、敵対するでもない。しかしながら大坂本願寺は毛利家には兵糧物資の輸送を求めており、村上海賊は毛利家とは極めて縁が深いことから兵糧運搬の護衛に一役買おうということにはなっていた。

原田直政?-1576(天王寺砦の戦い総大将) 
 ┗佐久間信盛1528-1582
   ┃  ┗佐久間信栄1556-1632
   ┣(和泉衆)眞鍋道夢斎
   ┃     ┗眞鍋七五三兵衛-1576 泉州海賊衆和泉水軍
   ┣(和泉衆)沼間任世和?-?(泉水軍衆・佐久間信盛の配下)

   ┃     ┗沼間義清?-1576 
   ┃   
   ┗┳(和泉衆)寺田又右衛門 岸和田城主 岸和田水軍松浦肥前守に仕えていた
    ┗(和泉衆)松浦安太夫 松浦肥前守を謀殺し松浦姓を名乗る

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2014年05月10日 | 古川明日香 古川未来 古野あきほ 早川完奈

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