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黒田官兵衛30 別所長治・照子の最期 

2014年05月29日 | 戦国時代

 別所照子というのは三木城主・別所長治の正妻である。二人の首塚は三木城のすぐ南にある。別所照子1558-1580は波多野秀治の妹・照子は十代後半長治に嫁ぐと、毎年一人ずつ四人の子供が生んでいる。これは1576年、毛利・村上水軍と泉州眞鍋水軍が木津川河口にて戦闘を繰り広げていた頃のことである。播磨には大坂本願寺の門徒も多く、本願寺だけではなく毛利・村上との繋がりが強かった。そこへ織田信長による播磨平定方針が示され、毛利氏と対立したことから、別所氏はどんどん巻き込まれていくことになる。そこに拍車をかけたのが黒田官兵衛とも言える。毛利につくか織田につくかの選択を迫られた播磨は、完全に分断された。結果、由緒ある別所氏は滅びることになる。ここで、別所氏の祖を記載する。別所氏は播磨の名門・赤松氏の系統である。元を辿れば後醍醐天皇が鎌倉幕府の打倒を掲げて挙兵したときに、後醍醐天皇の皇子・護良親王に従って吉野・熊野を転戦したのが赤松則祐である。その子・赤松持則の別名が別所持則であり、時の第4代室町将軍・足利義持の諱を一文字受けていることからも赤松氏、別所氏の播磨における威厳の大きさが伺える。

 別所長治が16歳の時に父・安治が死去したため、それ以降長治は叔父の別所吉親と重宗の後見を受けることとなる。決断権のない長治にとって、この後見を受けていたという構図が別所氏崩壊に繋がるのである。やがて信長の家臣・秀吉が播磨平定に乗り出すと、別所氏と敵対するようになり、この夫妻の運命の暗転が始まる。初め別所氏は信長側に味方していた。天正五年に毛利氏攻略を信長から命じられた秀吉を、長治は吉親らに命じて加古川城に出迎えさせる。しかし、伯父の保守的体制に押し流されるように別所氏の意思が変わる結果となる。毛利方に寝返る事にした別所氏は百三十もの支城を整備して、ゲリラ戦で秀吉を悩ませた。一方秀吉は信長の援軍を加えた 総勢三万の軍勢で次々と支城を陥落させ、兵糧攻めに苦しめられた別所側はついに降伏。別所長治から持ちかけた条件は籠城の兵士・女性・民衆達は助けるとのもの。かくして城主一家は次々と自害する事になった。敵ながら賞賛を与えた秀吉は、食料が尽きた城内に酒と肴を贈っており、別所一族や家臣達は秀吉からの差し入れで、別れの宴を開いている。そして宴の翌日、照子は死の旅を整えると四人の子供達にも白小袖を着させ、大広間に夫の長治と並んだ。別所長治の叔父吉親・正室の波が自分の手で三人の子供の命を奪うとその後自害。長治の弟・友之の正室17歳も照子に促されて自害。そして長治の長女で5歳の竹姫、二女で4歳の虎姫、嫡子で 3歳の千代丸、二男竹松丸2歳の子供達を照子は次々と引き寄せると、自らの手で奪っていった後自害。その後、長治は三人の女性と七人の子供達の遺体に火を放って自身も自害してその首は信長の許へ送られたという。

赤松則祐1314-1372後醍醐天皇の皇子・護良親王に従って吉野・熊野を転戦 
┣赤松義則1358-1427  
┣赤松時則  
┣赤松満則1366-1392  
┗赤松持則  
  ┗持祐-別所祐則-別所則治-別所則定  
┏━━━━━━━━━━━━━━━━┛
  
別所就治1532-1570別所則定  
  ┣別所安治1532-1570  
  ┃ ┣別所長治1558-1580

 ┃ ┣友之1560-1580 ┣竹姫竹-1580
 ┃ ┣治定1561-1579 ┣虎姫 -1580  
 ┃浦上氏        ┣千松丸-1580

 ┃           ┣松丸 -1580

 ┣吉親    -1580    照子1558-1580波多野秀治の妹
 ┣重宗1529-1591
 ┗女子
   ┣
   淡河定範1539-1579 

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