東京からの参戦 Kubo Amyさん
どう見てもハーフの23歳
一向宗というのは大坂本願寺のことである。しかし当時は石山本願寺といったほうが良いかもしれない。本願寺第8世の蓮如は法主を実如に譲り、自身は京都山科にある本願寺の南殿に隠居した。ここを山科本願寺という。その頃から大坂への布教活動は定期的に行われており、大坂に坊舎の建設が開始され、これが後に石山本願寺となる。実は当時大坂という名称は存在せず、難波という呼び方が一般的であった。後にこの地を大坂と名づけたのは石山本願寺の蓮如なのである。蓮如の時代から約70年経った頃の本願寺座主が顕如・第11世である。このときには大坂本願寺と呼ばれ、難波の真ん中に位置し、そこは大阪城の跡地にあたる。現在も大阪城内には蓮如の石碑がある。ところで、この本願寺派はもともとは親鸞の教えに従う門徒であったが、蓮如の後継者である実如の時代に摂津、河内の門徒衆の反対を押し切るかたちで、武装集団へと変貌していく。
経緯を少し解説する。細川勝元の嫡男・細川政元1466-1507は守護大名・管領の足利氏の庶流であったが、将軍をしのいで事実上の最高権力者となっていった。このとき足利将軍・義材は畠山政長と共に畠山義豊討伐のために河内国へ出兵する。一方京都に残留していた政元は日野富子・伊勢貞宗と組んでクーデターを起こしたのである。つまり以前に将軍候補に推げた清晃を第11代将軍に擁立しようというのである。この1493年に起きたクーデターを明応の政変という。かくしてクーデターは成功し、畠山家の勢力は衰え、足利義材は京都・龍安寺に幽閉された。一方石山本願寺法主・顕如の義兄に当たる細川晴元は細川氏本家京兆家当主である。
蓮如の後継者実如は明応の政変以降、細川政元から参戦を求められるようになる。やがて本願寺は武士勢力という位置づけが濃厚になり、実如の後継者・証如の代では兵数10万まで膨れ上がったという。強大な力を蓄えた本願寺に対して恐れをなした細川政元は、三好長慶を擁して石山本願寺の制圧にかかる。この頃本願寺の指揮官として赴任したのが下間頼盛、「村上海賊の娘」に登場する坊官の下間頼龍とはもちろん縁がある。細川晴元らとの抗争の中で寺領を拡大していった石山本願寺は顕如の時代となり莫大な財力を誇ることとなる。ここに立ちはだかったのが織田信長なのである。1570年石山本願寺の明け渡しを要求したことから石山合戦は始まる。この合戦は10年以上も続くことになるが、開戦6年後の1576年が「村上海賊の娘」の舞台となる。
藤原不比等-房前-真盾-内麻呂-真夏-濱雄-家宗817-877-□-資業(日野薬師)-□□-経尹
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┗日野有範?-?(崇徳天皇の侍講)
┣親鸞1173-1263(日野忠範)
吉光女┣範意
┣小黒女房 ┏如信1235-1300(本願寺第2世)
┣善鸞1217-1286
┣明信
┣有房 小野宮禅念
┣高野善尼 ┣唯善1253-1317
┣覚信尼1224-1283
恵信尼1182-1268 ┣覚恵1239-1307
┣光玉尼 ┣覚如1271-1351(本願寺第3世)
日野広綱 中原某娘┗善如1333-1389(本願寺第4世)
┗綽如1350-1393(本願寺第5世)
┗功如1376-1440(本願寺第6世)
┗存如1396-1457(本願寺第7世)
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┗蓮如1415-1499(本願寺第8世:中興の祖)
┣順如1442-1483
┃
┗実如1458-1525(本願寺第9世)
┗円如1489-1521
┗証如1516-1554(本願寺第10世 九条家猶子)
┣顕如1543-1592(本願寺第11世) ⇔ 織田信長
庭田重直娘┃大坂本願寺・一向宗 1570-石山合戦
┃下間頼龍1552-1609(顕如の坊官-寺侍)
┃┣播磨新宮藩主・池田重利
┃池田恒興の養女
┃
┣教如1558-1614(東本願寺第12世)
┃ ┣尊如
┃ ┣観如
┃ ┗宣如1602-1658(東本願寺第13世)渉成園は隠居所
┃ ┗琢如1625-1671(東本願寺第14世)大谷大学を創設 九条道房養子
┃ ┣常如1641-1694(東本願寺第15世)
┃ ┃┗真如1682-1744(東本願寺第17世)
┃ ┃ ┗乗如1744-1792(東本願寺第19世)
┃ ┃ ┗達如1780-1865(東本願寺第20世)
┃ ┃ ┗厳如1817-1894(東本願寺第21世)
┃ ┃ ┗現如1852-1913(東本願寺第22世)
┃ ┃ ┗彰如1875-1943(東本願寺第23世)
┃ ┃ ┗闡如1903-1993(東本願寺第24世)
┃ ┃ ┗興如1925-1999(東本願寺第25世)
┃ ┃ ┗聞如1965- (東本願寺第26世)
┃ ┗一如1649-1700(東本願寺第16世)
┃ ┗海彗
┃ ┗従如1720-1760(東本願寺第18世)
┃冷泉為益娘(元誠仁親王妃)
┃ ┣准尊1585-1622(室:毛利輝元養女)
┣顕尊
┣准如1577-1631(西本願寺第12世)
┃ ┣良如1613-1662(西本願寺第13世)
┃准勝┗寂如1651-1725(西本願寺第14世)
┃ ┗住如(西本願寺第15世)
┃ ┗湛如(西本願寺第16世)
┃ ┗法如1707-1789(西本願寺第17世)
┃ ┗文如(西本願寺第18世)
┃ ┗本如1778-1828(西本願寺第19世)
┃ ┗広如1798-1871(西本願寺第20世)養子
┃ ┗明如1850-1903(西本願寺第21世)
┃ ┣九条武子1887-1927
┃ ┣大谷尊由
┃ ┣鏡如1876-1948(西本願寺第22世)室:籌子
┃ ┗浄如
┃ ┏籌子 ┣勝如1911-2002(西本願寺第23世)
┃ ┣九条紝子┗即如1945-(西本願寺第24世)
┃ ┗節子(皇后) ┣専如1977-
┏如春尼(三条公頼娘) 範子┣
┗三条の方(武田信玄室) 古川流豆美
石山本願寺の祖・蓮如の石碑は大阪城跡地にある
村上海賊の娘、この物語は村上海賊の説明から始まる。ここで簡単に系図を紹介すると以下となる。村上水軍の祖は源頼信の次男・頼清が村上天皇の皇子・為平親王の子源憲定の娘 婿として村上姓を名乗ったという説があるが、平安時代に活躍した村上為国の弟・定国が保元の乱後に淡路島を経由して塩飽諸島に居を構え、その後越智大島移って伊予村上氏の祖となったという説が主流のようである。そして信濃村上氏である北畠師清の息子がそれぞれ因島、能島、来島水軍に枝分かれていったという。時代は流れ、この小説に描かれている時代は、村上水軍全盛期、織田信長が大坂本願寺と対峙していた1576年頃である。大坂本願寺というのは親鸞を祖とする一向宗の顕如を座主とした浄土真宗の勢力であり、織田信長が浄土真宗本願寺勢力、つまり一向宗に合戦を仕掛けたのが1570年であるから、それ以来6年も経過して今なお合戦は続いていたのである。これを石山合戦という。この時村上水軍の中でも能島水軍が圧倒的支配権を持っていた。能島村上水軍の当主は村上武吉、当時43歳である。また因島村上水軍の当主は村上吉充、来島村上水軍の当主は村上通康といって娘を能島村上水軍の当主村上武吉に嫁がせていた。年齢では村上通康が最年長であったがなにしろ57歳という高齢であるから息子に当主の座をゆすりたいところであったが息子はまだ19歳。かくして能島村上水軍の当主・村上武吉が村上水軍全体を取り纏めていたのである。さてこの小説での主役・海賊の娘というのは能島村上水軍の当主・村上武吉の娘なのである。名前は景。村上武吉には琴姫という娘がいるが、毛利家に嫁いでいて主人公ではない。しかし村上武吉には他に娘はいないはずである。さてこの娘は誰なのか。
源満仲━頼信┳頼義
┣頼清━仲宗┳惟清
┗頼季 ┣顕清┳宗清
┣仲清┣為国 ┳信国(木曾義仲側)
┗盛清┃(崇徳)┣泰遠
(配流)┃ ┣安信
┃ ┗明国
┃(伊予村上氏)
┣定国┳清長━□□□□━義弘┓
┗業国┗正季 ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┗━━北畠親房 乃美宗勝の妹
┗北畠師清(信濃村上氏) ┣景隆
┣義顕:因島 ┏村上吉充?-? 青影城主
┃ ┗村上亮康?-1608
┣顕忠:能島 村上武吉1533-1604
┃ ┣元吉1553-1600
┃ ┣景
┃ ┣景親1558-1610
┃ ┣琴姫(養子:実父は村上通康)
┃ ┃┣秀元(毛利輝元養子 長府藩祖)
┃ (来島城主)┃毛利元清1551-1597(穂井田家)
┃ 村上通康┃
┃ 1519-1567┣娘
┗顕長:来島 ┣得居通幸1557-1594
┣来島通総1561-1597当主
┃・・村上吉継? 当主補佐 甘崎城本拠
河野通直の娘
武吉の小早
本屋大賞を獲得したのは「村上海賊の娘」著者は和田竜である。本屋大賞・・・直木賞などと違って少し威厳が低い賞なのか?と思いきや決してそんなことはない。評論家、書店員など本読みのプロが選んだ一番売りたい本を選ぶというのだから、かなり価値があるそうな。実際本屋大賞に選ばれると、売りたい本!というのが賞のコンセプトなだけに、著者にとっては労せずして売れる!というおいしい賞であることはいうまでもない。上下併せて百万部間近らしい。さてこの本のタイトル村上海賊の娘、というくらいだから村上海賊の娘が活躍する話だな・・・ということはわかる。しかしどこの海賊がどの戦いで?とついつい思ってしまう。早速購入してこのGWに読んでしまおうと思ったのである。何故村上海賊について反応するかというと、約7年前に村上水軍に興味を示し、本拠地まで泊まりで旅行に行ったことがあるからだ。ここであえて海賊ではなく、水軍と記載したのには理由がある。瀬戸内海を牛耳っていたのは海賊ではなく水軍だからだ。しかし”カイゾク”という場合もあるが、それは海族であって海賊ではない。つまり海を支配した一族であってパイレーツではないのである。その本拠地というのは広島県竹原と愛媛県今治に挟まれた瀬戸内海に広がる小島一帯である。現在では簡単にその小島の全貌を見ることができる。何故なら瀬戸内しまなみ海道という全長70kmにも及ぶ高速道路になっていて、7箇所に架かる大橋からは因島、伯方島、大三島だけではなく、まさに村上水軍の本拠地を眼下に一望しながら通れるからである。村上水軍はこの一帯を治め、船の通行料により得る収入で繁栄しただけではない。村上水軍は能島水軍、因島水軍、来島水軍を総称して言うのであるが、それぞれに立派な武力を有していた。そしてこの武力に頼っていたのが毛利家である。さてこれら3-水軍の詳細、時代背景、そして村上水軍の娘を含めた系図については次回紹介する。
但馬国出石藩主・小出吉親1590-1668は吉親系小出家初代である。徳川家康から4代将軍・家綱まで仕えた大名で、父・吉政が没すると兄・吉英は和泉国岸和田藩に移封されたために吉親が但馬出石3万石を領することとなる。しかし1619年に兄・吉英が出石に再封されたため吉親が丹波国に園部藩を2万8000石で立藩した。
兵庫県加古川市にある神吉城は、赤松氏一族の神吉氏が築城したものである。赤松範次の子・元頼が神吉城主となり神吉氏を称したという。加古川城での毛利討伐の軍議により、別所氏が秀吉側と決別したときに城主・神吉頼定は、同じ赤松氏一族の別所氏に就いた。これにより始まった秀吉との戦いが神吉合戦である。神吉頼定は兵約二千で、秀吉勢の織田信忠、明智光秀、荒木村重ら約3万に立ち向かったが善戦むなしく、また神吉頼定の伯父が秀吉の調略にも会い、神吉頼定は暗殺されることとなる。神吉、秀吉の軍勢は2千対3万であるから秀吉勝利は決まっている。こういうときにも秀吉は調略作戦にでる。もちろんこれにより和睦にもっていき、少しでも犠牲者数を減らすことが目的である。神吉だけではなく播磨一帯には浄土真宗の信徒が数多くいた。親鸞上人を祖とする大坂本願寺の信徒であり、この時代に権勢を振るっていたのは第十一世・顕如である。もちろん敵対していたのが織田信長であるから、神吉城主をはじめとする神吉城下の民衆は織田信長と敵対することとなる。織田側の総大将は織田信忠、織田信長の長男であるからいかにここ播磨制圧に力を入れていたかがわかる。また摂津一国を治めていた荒木村重の軍勢1万5千も加わっている。わずか2千の敵に対して3万もの兵を送り込んだのか。浄土真宗の信徒は、親鸞の教えにもといて「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで極楽往生できると信じていた。ところが顕如の時期には「敵と戦えば極楽往生、敗走すれば地獄行き」と教えられて感がある。大坂本願寺の軍旗には「退かば無間地獄」とあるから、親鸞の教えとは全然違うのである。しかし信徒にとっては顕如の教えがすべてであり、大坂本願寺はこれを利用したといえる。敗走すれば地獄の教えは最強であり、信長側は大坂本願寺の役10倍の兵力は必要と考えていたようだ。したがって神吉2千に対して織田側3万は妥当な兵力なのである。
久しぶりに黒田官兵衛ネタです。天気もいいことだし昨日は気分転換に城めぐり。播磨というところは結構城跡があるのです。そのひとつ、志方城を紹介します。ここは黒田官兵衛の妻・光姫の実家でもあり、1492年に櫛橋則伊により築かれて以来4代にわたって存続した。櫛橋家はもともと神奈川を本拠地とした鎌倉御家人であったが、南北朝時代に播磨へ来て土着したという。このとき赤松氏に仕えて赤松氏の台頭に貢献した。やがて浦上家の下克上によって赤松氏が衰退して行ったときに、櫛橋家は独立して志方に勢力を築く。また御着城主・櫛橋伊定の娘を娶るなどして播磨での基盤を固めた。1578年4代城主・政伊の時に羽柴軍の北畠信雄が10000の軍勢で迫ったとき、黒田官兵衛の助言もあり、城主櫛橋伊定は降伏した。しかしまもなく秀吉の播磨制圧が始まると櫛橋政伊は秀吉側ではなく毛利家に就いたことで窮地に追いやられた。織田信忠率いる織田軍本隊が播磨へ進軍しており、集結した織田軍は三木城およびその支城であった志方城などを包囲する。このころ神吉頼定の神吉城が落城している。北畠信意・長岡藤孝らの包囲を受けて志方の重臣の多くはこのときに命を失う。これによって士気を喪失した政伊は間もなく降伏して自刃、志方城主としての櫛橋氏はここに滅亡したのである。以後、孤立した三木城は羽柴秀吉による包囲戦を強いられていく。その10年後の1587年に城主を弔うために志方城跡に観音寺が建立された。本来は立派な観音寺ですが、当日は本堂の改修工事中、しかも観音寺説明板は写真のように大河イラスト仕立てで少し興ざめでした。
黒田重隆1508-1564(龍野城主・赤松政秀→小寺政職に仕える)
┗黒田職隆1522-1585(姫路城代)⇔赤松政秀
┃┣娘 蜂須賀正勝1526-1586
┃┃┣- ┣蜂須賀家政1558-1639
┃┃浦上清宗-1564 ┗イト
┃┣黒田官兵衛孝高1546-1604 ┣-
┃┃ ┣①黒田長政1568-1623
┃┃ ┣黒田熊の介 ┃
┃┃ 櫛橋伊定 ┃1582-1597 ┃
┃┃ ┣光姫1553-1627 ┣黒田高政1612-1639東蓮寺藩初代
┃┃ ┣櫛橋政伊?-? ┣黒田高政1612-1639東蓮寺藩初代
┃┃ ┣妙寿尼1545-1613┣黒田高政1612-1639東蓮寺藩初代
┃┃ 小寺政隆娘┣黒田正好 ┃
┃┃ 上月景貞 ┃
┃┃ ┃
┃┣黒田利高1554-1596 ┣黒田長興1610-1665秋月藩初代
┃明石宗和娘(小寺養女) ┣②黒田忠之1602-1654
┣黒田利則1561-1612 栄姫
┣黒田直之1564-1609
神吉氏
遠州掛川 北條家墓所に眠るのは戦国時代の玉縄北条家である。祖は北条早雲、1513年に鎌倉玉縄の地域に玉縄城を築いている。この城、堅城として知られており、水軍などを統括する重要拠点にもなっている。上杉謙信・武田信玄の相模乱入を防ぐなど功績は大きいが、豊臣秀吉による1590年の小田原征伐ではとうとう降伏し、北条氏勝は以降徳川氏の支配下となっている。以降、玉縄城は重要視されて家康側近の本多正信の居城となった。
北条早雲は1432-1519元々伊勢氏の出身で実力でのし上がってきた戦国大名の筆頭である。 早雲は出家号であり、伊勢長氏、盛時との説があるがはっきりはしていない。 早雲の父は伊勢盛定、母は伊勢貞国 (室町幕府の執事で子に伊勢貞親がいる。 室町将軍の足利義教・義勝・義政の3代に仕える)の娘である。 北条氏は鎌倉時代に執権を世襲する勢力であったが、足利氏に滅ぼされた後は伊豆の地方豪族に没落した。 伊勢氏は関西地方を基盤としたが関東へ進出する際に北条の姓を得るために婿入りしたと考えられる。 関東・駿河に名を上げようと下ったのは1490年頃で、早雲の妹が駿河守護の今川義忠の側室(北川殿という)として竜王丸(後に今川氏親)を産んでいたためである。 今川家に食い込もうと駿河へ下ったときに、今川家では御家騒動が起こっており、当主義忠は亡くなり妹・北川殿との間の嫡男・竜王丸が残っていたが幼少ということもあり小鹿範満を跡継ぎにする動きがあった。 つまり妹と竜王丸を排除する動きに対して待ったをかけたのである。 早雲は揉め事の調停役である関東管領上杉家の家老・太田道灌をも後ろ盾にして、竜王丸を後嗣とする(この時元服して今川氏の当主・氏親と名のる)とその功により駿河に興国寺城をもらいうけ、今川氏親を補佐する。
そして隣国の伊豆を狙う(伊豆討ち入り)ことになる。 伊豆では関東堀越公方の相続争いが起こっていたのである。 先の公方・足利政知(足利義教の子)には茶々丸という名前に似ず気の荒い息子がいたが、家督を奪うために義母・円満院とその子・潤を殺害していた(1491年)。 茶々丸は主君になっていたものの真の従者はいなかったのであろう。 早雲は今川家からも兵を借りて挙兵し、堀越御所の茶々丸を攻めて追放したのである。 こうして早雲は伊豆をも領国とし一気に関東領土を手中にしようと目論んだ。 さらには隣の相模・小田原を狙ったのである。 当初小田原の大森氏は勢力もあり手を出せない状態であったが、小田原城主大森氏が急死し、藤頼という若い城主が後を継いだときに、早雲は贈り物をして親交を深めることに努力をした。 これにより大森氏の隙を突いた早雲は、一気に小田原城に攻め入り落としたのである。 小田原城は後に豊臣秀吉に滅ぼされるまで5代に渡って栄えることになる。 早雲が次に狙ったのは三浦半島一帯を勢力圏に持つ三浦氏である。 三浦氏といえば、鎌倉時代からの名族であり、当主三浦義同(道寸)とその息子・義意は三浦半島一帯の豪族である。 そして新井城という難攻不落の名城を持っていた。 大森氏と姻戚関係にある三浦氏は将来の禍根になりかねないと考え、この難攻不落の三浦氏に対して海上、陸上を封鎖することによって三浦氏の篭城作戦に対抗した。 数年の長きに渡って新井城を封鎖し、やっと打ちとった時には早雲85歳であったという。 三浦氏滅亡の3年後の1519年に早雲はその生涯を閉じた。