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黒田官兵衛25 三木合戦陣屋跡(段上平坦地群)

2014年05月23日 | 戦国時代

 三木合戦が始まる少し前、上月城の戦い(1578/4/18-7/3)が始まった。毛利軍と尼子勝久を担いだ尼子残党、つまり織田軍との戦いである。尼子勝久を担ぐ山中幸盛(鹿介)らの尼子氏再興軍が、織田側により上月城の防衛を任されたのである。毛利軍が上月城に向かったとの報を受けた羽柴秀吉は、三木城の攻撃を継続させつつ、自らの手勢を率いて尼子軍支援のために動いた。これに対して、圧倒的大軍で上月城を包囲した毛利軍は兵糧攻めにより城兵の戦意を喪失させる作戦にでる。この時、織田信長は三木城の攻略と毛利軍の足止めのために、神吉城・志方城・高砂城といった三木城の支城攻略に力を注いだため、秀吉の上月城応援の嘆願むなしく、尼子軍は絶望的な状況に立たされた。擁すれば上月城の尼子軍は事実上の捨て駒として扱われたのである。かくして勝利した毛利氏はこの戦いを契機に本格的に織田氏との戦争状態に入っていった。因みに同年7月に荒木村重が石山本願寺と連携し、織田氏から離反している。

 上述のように織田信長の本意は三木城の支城を攻略することである。神吉城主・神吉民部太輔頼定は1578年8月19日陥落。そもそも加古川城での毛利討伐の軍議により、別所氏と羽柴秀吉が決裂した際に、城主・神吉頼定は別所側に就いた。秀吉は、神吉攻めのまえに、野口城を落城させ、1578年7月27日に神吉合戦が始まった。戦力が大きく違うのは明らかで、神吉城はまもなく落城したのである。そして次に落城したのは志方城、城主は櫛橋伊定、1579年9月1日のことであった。この間、三木合戦はずっと続いているのであるが、結局終わったのは1580年2月2日であるから役2年間に渡っている。この間に三木氏を継続して支援したのは、瀬戸内海の制海権を持つ毛利氏や英賀城の三木通秋である。海沿いにある高砂城や魚住城などに兵糧の陸揚げがされて、そこから三木城に陸送されるという陸海輸送が頻繁に行われたのである。このときに大きく応援したのが、先に当ブログで紹介した村上水軍である。

黒田重隆1508-1564(龍野城主・赤松政秀→小寺政職に仕える)
  ┗黒田職隆1522-1585(姫路城代)⇔赤松政秀
  ┃┣娘         蜂須賀正勝1526-1586           
  ┃┃┣-         ┣蜂須賀家政1558-1639   
  ┃┃浦上清宗-1564    ┗イト
  ┃┣黒田官兵衛孝高1546-1604  ┣-  
  ┃┃      ┣①黒田長政1568-1623
  ┃┃      ┣黒田熊の介 ┃      
  ┃┃ 櫛橋伊定 ┃1582-1597  ┃

  ┃┃    ┣光姫1553-1627  ┣黒田高政1612-1639東蓮寺藩初代  
  ┃┃    ┣櫛橋政伊?-?   ┃  

  ┃┃    ┣妙寿尼1545-1613┃  

  ┃┃ 小寺政隆娘┣黒田正好  ┃  
 
 ┃┃     上月景貞    ┃  
 
 ┃┃             ┃  
  ┃┣黒田利高1554-1596     ┣黒田長興1610-1665秋月藩初代      

  ┃明石宗和娘(小寺養女)    ┣②黒田忠之1602-1654
  ┣黒田利則1561-1612      栄姫 
  ┣黒田直之1564-1609         
 神吉氏

ここ秀吉本陣跡は三木城の東数kmの平井というところにある 神吉城と志方城を陥落した後に信長の嫡男信忠が築城したという

秀吉がここに入ったのは1578年8月、10月には別所氏がこの本陣を襲ったが別所敗北に終わる

下の写真は兵が駐屯できるように斜面を削って段上の平坦地を作っているが、規模が尋常ではない

かなり歩いたが、全体の1/10も見れずに引き返した

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