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村上海賊の娘-4 泉州眞鍋水軍 

2014年05月11日 | 戦国時代

 1570年の石山合戦開戦以来、本願寺と織田軍は一進一退を繰り返していたが、顕如の義兄である武田信玄の死や長島一向一揆滅亡などで大坂本願寺は追いつめられていく。しかし1576年2月、足利義昭の呼びかけに応じた毛利輝元が大坂本願寺に援助を始めたのである。士気を取り戻した顕如率いる大坂本願寺は信徒を総動員して5万の兵力集めたという。これによって大坂本願寺と織田信長側の戦闘が本格化していくのである。信長は大坂本願寺を一気に包囲する。荒木村重には本願寺の西に野田砦を築かせ、明智光秀には本願寺の東に森河内砦、北東に守口砦を築かせた。また原田直政には真南に天王寺砦を築かせ、完全に本願寺の包囲を固めたのである。1576年4月末までに3方向包囲網を敷くと、信長はこれを一気に打ち破ろうというのである。一方、本願寺側はすぐ西に楼の岸砦、南西の木津川河口から木津砦・三津寺砦・難波砦・崎砦など4箇所に砦があり、本願寺への水路を確保していた。木津砦の攻撃には眞鍋水軍という和泉衆や松浦水軍という岸和田衆、また原田直政率いる大和衆があたった。しかし、楼の岸砦から本願寺勢・約1万が討って出てきて、織田軍を包囲しつつ数千丁の鉄砲で銃撃を加えたのである。銃撃に参加したのはかの有名な精強鉄砲隊の雑賀衆、率いるのは鈴木孫市である。原田直政の軍勢はこの攻撃に耐えられず、一族と共に討死し原田軍は崩壊した。本願寺勢は勢いに乗じて天王寺砦を攻撃する。このとき窮地に陥った明智光秀は、京都に滞在していた信長に援軍を要請したのである。この戦いを天王寺砦の戦いといい、1576年5月3日織田信長側が木津に対して仕掛けてきた。本願寺優勢の中、天王寺砦を一気に攻めようとしたのは3日後のことである。

 この戦いで討ち死にした原田直政は織田側の総大将である。従って大坂本願寺側の勝利というのが天王寺砦の戦い前半戦となる。では後半戦は?それについては次回解説するとして、ここでは泉州和泉水軍衆の長・眞鍋七五三兵衛について記す。眞鍋七五三兵衛率いる眞鍋水軍は元々は瀬戸内の塩飽諸島にある眞鍋島の出身であるらしい。塩飽諸島は現在では笠岡諸島といって、福山市から香川県多度津市に延びる諸島をいう。因みにこの眞鍋島の隣にある北木島はお笑いの千鳥の大悟さんの出身地である。この眞鍋島に眞鍋島城があり水軍の本拠地となっていたが、そのずっと南西に位置する愛媛県新居浜にも眞鍋城があり、真鍋氏が移住した伝承が残っているらしい。1576年当時眞鍋の長が眞鍋七五三兵衛、その父親が眞鍋道夢斎。彼ら眞鍋水軍は泉州に活路を見出して、佐久間信盛軍の与力的存在となっていた。実は泉州の水軍として元々名を馳せていたのは、同じく佐久間信盛に仕えた沼間任世率いる沼間水軍と寺田又右衛門・松浦安太夫兄弟率いる松浦水軍であった。ところが眞鍋七五三兵衛、眞鍋道夢斎親子が眞鍋水軍としてのし上がり、沼間、松浦両水軍を追い抜き、友が島水道を支配していたようである。さて村上海賊はというと、この戦いには参加していない。基本的には村上海賊の党首・村上武吉は中立的な立場をとっていて織田信長、大坂本願寺いずれにも恩があるわけではなく、敵対するでもない。しかしながら大坂本願寺は毛利家には兵糧物資の輸送を求めており、村上海賊は毛利家とは極めて縁が深いことから兵糧運搬の護衛に一役買おうということにはなっていた。

原田直政?-1576(天王寺砦の戦い総大将) 
 ┗佐久間信盛1528-1582
   ┃  ┗佐久間信栄1556-1632
   ┣(和泉衆)眞鍋道夢斎
   ┃     ┗眞鍋七五三兵衛-1576 泉州海賊衆和泉水軍
   ┣(和泉衆)沼間任世和?-?(泉水軍衆・佐久間信盛の配下)

   ┃     ┗沼間義清?-1576 
   ┃   
   ┗┳(和泉衆)寺田又右衛門 岸和田城主 岸和田水軍松浦肥前守に仕えていた
    ┗(和泉衆)松浦安太夫 松浦肥前守を謀殺し松浦姓を名乗る

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