因島の次は能島村上水軍である。大坂本願寺への兵糧輸送作戦の護衛の棟梁は因島水軍・村上吉充であるが、本来は能島の村上武吉である。能島水軍は、もともと毛利方に加勢をする意思はなかった。この男、毛利家の家臣ではあるが毛利氏の周防・長門の平定に協力し瀬戸内海一の水軍勢力となった。誰もが一目置く存在であった。塩飽諸島など瀬戸内の他の水軍衆とも手を結び、通行する船から帆別銭という通行料を取り立てることで栄えた立役者である。そんな人物を毛利家が放っておくはずもなく、1570年に毛利元就・毛利輝元・小早川隆景の三者が起請文を武吉と交わしたことで、村上水軍における村上武吉の立場を確立する。石山合戦で毛利が織田信長と戦うと決すると、村上水軍は小早川・児島・乃美水軍などと共に毛利方水軍として戦うことを決めた。かくして1576年7月13日の第一次木津川口の戦いに向けて始動したのである。この戦いの目的は兵糧10万石を大坂本願寺の長期篭城に備えておくること。その為には途中織田側の勢力と木津川河口にて大戦となるのはわかっているため、兵糧輸送船団を護衛する必要がある。能島村上水軍を率いたのは村上武吉の嫡男・元吉、毛利元就から一字を拝領した名である。サポートしたのが次男の景親、主君・小早川隆景より偏諱を賜った名である。
さて、毛利水軍と村上水軍が大坂本願寺に兵糧を輸送開始した1576年7月の約2年後はというと、播磨三木氏の別所長治が大坂本願寺の信徒を数多くかかえて篭城作戦に入った。というのも1578年4月18日の上月城・城主(黒田官兵衛の義兄弟)が毛利と戦って、尼子勝久とともに惨敗した(この時毛利軍として村上水軍が参戦している)のをきっかけに、播磨の数多くの城主が毛利側へとなびき、織田信長に相対することとなる。播磨野口城、志方城、神吉城が次々と陥落したことで、三木氏の篭城作戦が始まったのが1578年5月5日。また、織田の家臣・荒木村重が謀反を起こして始まった有岡城の戦いが1578年7月、そして竹中半兵衛が三木合戦の途中亡くなったのが1579年7月6日ということも併せて踏まえながら、これから始まろうとする木津川の戦いを見るのは面白い。
北畠親房 乃美宗勝の妹
┗北畠師清(信濃村上氏) ┣景隆
┣義顕:因島 ┏村上吉充?-? 青影城主
┃ ┗村上亮康?-1608
┣顕忠:能島 村上武吉1533-1604
┃ ┣元吉1553-1600
┃ ┣景
┃ ┣景親1558-1610
┃ ┣琴姫(養子:実父は村上通康)
┃ ┃┣秀元(毛利輝元養子 長府藩祖)
┃ (来島城主)┃毛利元清1551-1597(穂井田家)
┃ 村上通康┃
┃ 1519-1567┣娘
┗顕長:来島 ┣得居通幸1557-1594
┣来島通総1561-1597当主
┃・・村上吉継? 当主補佐 甘崎城本拠
河野通直の娘
巨大な大島と伯方島の間にある能島は実はこんなに小さい