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村上海賊の娘-7 毛利水軍衆 

2014年05月14日 | 戦国時代

 織田軍の大勝で天王寺砦の戦いは1576年5月7日に幕を閉じた。この戦いで大敗した大坂本願寺軍は徹底した籠城戦に持ち込んだのである。こうなると必要なのは長期戦に備えた兵糧であるが、底をつくまでの期間は3ヶ月であったようだ。従って大量の兵糧を何とかしなくてはならない。しかも木津川河口などの海路は泉州和泉を中心とした水軍衆によっては固められている。そこで大坂本願寺が頼ったのは毛利の水軍による兵糧輸送作戦で、その量は10万石という莫大な量であった。これだけの兵糧を運ぶためには約1000艘にも及ぶ大輸送船団が必要となる。毛利家がこの要請に呼応したのには理由がある。しかしここでは割愛させていただくとして、毛利輸送船団の成り立ちについて解説する。もともと安芸武田氏直轄の水軍衆や譜代家臣であった児玉氏の水軍衆を毛利家が取り込んだことから毛利水軍が始まったという。また、安芸国の豪族・竹原小早川氏へ毛利元就・三男の隆景を養子に送り込み、小早川氏は毛利家に取り込まれた。小早川氏直轄の水軍が毛利氏直轄になり誕生した水軍が毛利最強の小早川家海賊衆で、その党首が乃美宗勝である。従って乃美宗勝の本拠地は竹原忠海町で、賀儀城城主でもある。ところで、村上水軍はというと、小早川氏と姻戚関係を結んでいた河野氏の被官で、瀬戸内海の芸予諸島を中心に活動していたことから、当然のことながら毛利家とも深く結びついていたのである。系図を見れば毛利小早川家海賊衆・乃美宗勝が最強であったゆえんがわかる。毛利家をここまで巨大にした毛利元就の側室に乃美大方がいることでもわかる。

 さて、大坂本願寺が織田勢と交戦するに際して篭城を決め込み、毛利家は兵糧10万石の輸送を決めた。船団数は1000艘、その護衛に必要な水軍船団は300艘である。実質的な総大将は、小早川家海賊衆であり賀儀城主の乃美宗勝ではあるが、形式的な総大将は毛利家海賊衆の棟梁・児玉就英となる。毛利家宗流に仕える児玉就英のほうが、小早川家庶流の乃美宗勝よりも上位であるから乃美宗勝としてはやりにくい。それぞれの本拠地から続々と集まった1000艘の大船団は、兵糧を積むべく乃美宗勝の本拠地である竹原忠海町・賀儀城に程近い港にひしめいている。ところで、竹原忠海町というのはその昔、平家の棟梁・平忠盛(平清盛の父)ゆかりの地で、平忠盛が瀬戸内海の海賊退治の功績を称えられこの地一帯を賜ったことから忠海は忠盛の名を冠して付けられたと云われている。今やその乃美宗勝という海賊が忠海一帯を支配しているのだから歴史は皮肉なものである。10万石の兵糧を積み終えた船団は難波目指して出航した。そしてこの船団を護衛するのが村上水軍300艘なのである。実はこのとき、毛利水軍に対して播磨の英賀衆も援護をしている。英賀は一向宗勢力が根付き寺内町が形成され、堺と同じく町衆による自治が行われ河川交通・海上交通の要所として商工業が繁栄していた。時の英賀城主は三木氏9代目・三木通秋で、妻は黒田職隆女というから黒田官兵衛とは兄妹となる。黒田官兵衛はもちろん織田側に就いており、英賀城主は毛利側に就いているのであるから、戦国の世は悲しい運命を背負うことが、ここからもわかる。

乃美隆興1513-1598
┗乃美大方?-1601
  ┣毛利元清1551-1597
毛利元就1497-1571  
  ┣毛利隆元1523-1563       
  ┃    ┗輝元1553-1625             
  ┃ 児玉就方1513-1586
  ┃  ┗児玉就英1534-1612(毛利家海賊衆)
  ┃
  ┣吉川元春1530-1586       
  ┣小早川隆景1533-1597    
  ┃ 乃美賢勝
  ┃  ┣?村上吉充室
  ┃  ┗乃美宗勝1527-1592(小早川家海賊衆:賀儀城主) 竹原忠海町豊臣秀吉の文禄の役で宗勝も朝鮮へ出陣
  ┃    ┗嫡男の浦盛勝
吉川国経女

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