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高野山45 遠州掛川北條家墓所

2014年05月01日 | 高野山

 遠州掛川 北條家墓所に眠るのは戦国時代の玉縄北条家である。祖は北条早雲、1513年に鎌倉玉縄の地域に玉縄城を築いている。この城、堅城として知られており、水軍などを統括する重要拠点にもなっている。上杉謙信・武田信玄の相模乱入を防ぐなど功績は大きいが、豊臣秀吉による1590年の小田原征伐ではとうとう降伏し、北条氏勝は以降徳川氏の支配下となっている。以降、玉縄城は重要視されて家康側近の本多正信の居城となった。 

 北条早雲は1432-1519元々伊勢氏の出身で実力でのし上がってきた戦国大名の筆頭である。 早雲は出家号であり、伊勢長氏、盛時との説があるがはっきりはしていない。 早雲の父は伊勢盛定、母は伊勢貞国 (室町幕府の執事で子に伊勢貞親がいる。 室町将軍の足利義教・義勝・義政の3代に仕える)の娘である。 北条氏は鎌倉時代に執権を世襲する勢力であったが、足利氏に滅ぼされた後は伊豆の地方豪族に没落した。 伊勢氏は関西地方を基盤としたが関東へ進出する際に北条の姓を得るために婿入りしたと考えられる。  関東・駿河に名を上げようと下ったのは1490年頃で、早雲の妹が駿河守護の今川義忠の側室(北川殿という)として竜王丸(後に今川氏親)を産んでいたためである。 今川家に食い込もうと駿河へ下ったときに、今川家では御家騒動が起こっており、当主義忠は亡くなり妹・北川殿との間の嫡男・竜王丸が残っていたが幼少ということもあり小鹿範満を跡継ぎにする動きがあった。 つまり妹と竜王丸を排除する動きに対して待ったをかけたのである。 早雲は揉め事の調停役である関東管領上杉家の家老・太田道灌をも後ろ盾にして、竜王丸を後嗣とする(この時元服して今川氏の当主・氏親と名のる)とその功により駿河に興国寺城をもらいうけ、今川氏親を補佐する。

 そして隣国の伊豆を狙う(伊豆討ち入り)ことになる。 伊豆では関東堀越公方の相続争いが起こっていたのである。 先の公方・足利政知(足利義教の子)には茶々丸という名前に似ず気の荒い息子がいたが、家督を奪うために義母・円満院とその子・潤を殺害していた(1491年)。 茶々丸は主君になっていたものの真の従者はいなかったのであろう。 早雲は今川家からも兵を借りて挙兵し、堀越御所の茶々丸を攻めて追放したのである。 こうして早雲は伊豆をも領国とし一気に関東領土を手中にしようと目論んだ。 さらには隣の相模・小田原を狙ったのである。 当初小田原の大森氏は勢力もあり手を出せない状態であったが、小田原城主大森氏が急死し、藤頼という若い城主が後を継いだときに、早雲は贈り物をして親交を深めることに努力をした。 これにより大森氏の隙を突いた早雲は、一気に小田原城に攻め入り落としたのである。 小田原城は後に豊臣秀吉に滅ぼされるまで5代に渡って栄えることになる。 早雲が次に狙ったのは三浦半島一帯を勢力圏に持つ三浦氏である。 三浦氏といえば、鎌倉時代からの名族であり、当主三浦義同(道寸)とその息子・義意は三浦半島一帯の豪族である。 そして新井城という難攻不落の名城を持っていた。 大森氏と姻戚関係にある三浦氏は将来の禍根になりかねないと考え、この難攻不落の三浦氏に対して海上、陸上を封鎖することによって三浦氏の篭城作戦に対抗した。 数年の長きに渡って新井城を封鎖し、やっと打ちとった時には早雲85歳であったという。 三浦氏滅亡の3年後の1519年に早雲はその生涯を閉じた。

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