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村上海賊の娘-5 雑賀衆・鈴木孫市  

2014年05月12日 | 戦国時代

 石山本願寺を取り囲んだ荒木村重の野田砦、明智光秀の守口砦、原田直政の天王寺砦に対して、楼の岸砦から出陣した本願寺勢・約1万の援護をしたのは数千丁の鉄砲を所有する最強鉄砲隊の雑賀衆、率いるのは鈴木孫市である。原田直政の軍勢はこの攻撃に耐えられず、一族と共に討死し原田軍は崩壊し、織田信長側・天王寺砦も危機に瀕した。「雑賀衆を味方にすれば必ず勝ち、敵にすれば必ず負ける」というのはこの国時代に実際に言われていた言葉である。戦国最強の鉄砲傭兵集団 「雑賀衆」は 大名家とも寺社勢力とも異なる特殊な集団で、それを率いた鈴木孫市は伝説の鉄砲使いとして恐れられた。雑賀衆は、紀伊半島の南西部を支配していた勢力で、大阪の南の一帯には肥沃な土地が広がり、瀬戸内海と太平洋を結ぶ海運に適した土地でもあったため多くの人々が住んでいた。この人々が、「雑賀衆」 と呼ばれる集団である。その 「最強の戦力」 ゆえに、戦国時代の荒波に翻弄される運命となっていく。雑賀衆は、近畿地方の大名 「三好家」 と 「織田家」 が戦う時に、織田家軍勢として戦った事もあったが、織田信長は、当時強大な権力を握った 「一向宗」 の総本山である 「本願寺」 と対立していった。雑賀衆 にはこの 「一向宗」 の門徒が多く、もともと本願寺とは友好的な関係にあったため、やがて織田軍勢と戦う事になるのである。伝説の鉄砲使い 「雑賀孫市」 率いる雑賀鉄砲衆は鉄砲隊を2列に並べ、前列が撃っている間に後列が弾を込め、交互に前に出て連続発射するという戦法を取っており、これは後に長篠の戦いでの織田信長による「三段撃ち」へと姿を変えることとなった。ところで、この鈴木孫市という人物は以下のように複数存在するようで、雑賀衆の棟梁になると鈴木孫市との名を受け継いだのかもしれない。

 鈴木孫市1534-1589 
 ┣鈴木孫六
 ┗鈴木重意1511-1585
   ┣鈴木重兼1540-1589
   ┣鈴木重秀1546-1586
   ┗鈴木重朝1561-1623

     ┗鈴木重次1598-1664

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