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村上海賊の娘-6 天王寺砦戦 

2014年05月13日 | 戦国時代

 この天王寺砦の戦いでは織田側の総大将・原田直政は討ち死にした。大坂本願寺側の大勝利というのが天王寺砦戦の前半戦である。総大将・原田直政が泉州和泉水軍衆・眞鍋七五三兵衛率いる眞鍋水軍、佐久間信盛率いる沼間任世の沼間水軍、寺田又右衛門・松浦安太夫兄弟率いる松浦水軍、をもってしても大坂本願寺の軍勢1万と雑賀衆鉄砲隊を崩すことはできず、明智光秀の天王寺砦までが苦戦を強いられていた。明智光秀の救援要請に立ち上がったのが何と織田信長本人であった。事は急を要していただけに、信長側軍勢がほとんど集まらなかったにもかかわらず、わずかな手勢で本願寺勢を強襲、翌7日には信長は3000ほどの兵で本願寺勢1万5千に突撃したという。先陣は佐久間信盛・松永久秀、2番手は滝川一益・羽柴秀吉、3番手は信長の馬廻りで、信長自身は先手の足軽に混じって指揮を取ったのである。本願寺勢は多数の鉄砲で防戦したが、織田軍はこれに突っ込んで敵陣を切り崩し、天王寺砦の守備隊と合流した。

 合流された本願寺勢も退却せず、陣形を立て直しつつある。信長の再度攻撃に、家老たちは多勢に無勢であるとして止めたが、信長は「今が好機」とばかりに、本願寺勢を撃破して2700余りの敵を討ち取ったという。こうして織田軍の大勝で天王寺砦の戦いは幕を閉じた。この戦いで大勝した織田軍は、摂津方面での陸戦での優位を確立すると、本願寺軍は徹底した籠城戦に持ち込んだのである。こうなると必要なのは長期戦に備えた兵糧であるが、陸路は固められ、海路も泉州和泉を中心とした水軍衆によって木津川河口は固められている。そういう状況下で、本願寺は毛利からの兵糧に期待を寄せながら篭城していたのである。天王寺砦は現在の四天王寺のすぐ北側にあります。因みにこの一帯は大坂冬の陣に際して真田幸村が真田丸を設け、徳川軍と激戦を交えた地でもある。

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