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村上海賊の娘-15 木津川河口の安宅

2014年05月22日 | 戦国時代

 一方木津川河口には封鎖するかのように織田側の船団が浮かんでいる。6艘の安宅と300の小早である。6艘の安宅はそれぞれ眞鍋水軍の眞鍋七五三兵衛、眞鍋道夢斎の親子、沼間任世・安太夫、沼間義清・又衛門が乗り込んでいる。また他の泉州侍は小早に分乗していた。実は300艘のうち泉州眞鍋の水軍は150艘で、残りの150は有岡城の荒木村重に用意させたものであり、いわば即席の水軍なのである。従って戦闘の状況に応じた陣形を整えるというようなことはできない。それともうひとつ、今でこそ兵糧10万石、輸送船は700艘とわかっているが、当時は極秘事項である。眞鍋にしてみれば毛利の大群のうち兵糧船がどれだけなのかはわからない。攻撃をしかければわかることであるが、毛利1000艘が兵であれば、眞鍋水軍はすぐに殲滅されてしまう。この様な状況下で、毛利・村上水軍と織田・眞鍋水軍は両者様子を見るのであるが、その期限はというと3ヶ月である。つまり、大坂本願寺の兵糧が尽きるであろう時期が3ヵ月後なのである。しかし上杉謙信が動き出して初めて、毛利は眞鍋と戦う。逆に言えば、謙信が動かなければ毛利・村上は戦わずに引き返すのである。では大坂本願寺はどうなるのかというと、それは毛利・村上にとってはそこまで危険を冒してまで兵糧を運ぶだけの義はない。

 要するに、能島村上水軍の棟梁・村上武吉は、上杉謙信は動かないと読んでいた。つまり兵糧輸送は途中で断念して引き返すことになるであろうと考えていたのである。だから、毛利の宗勝と就英が能島の武吉に見方するように口説いたときに、茶番・・・とつぶやいたのである。かくして40kmはなれた木津川河口の眞鍋水軍と淡路岩屋村上水軍は、どちらからも攻めかかることなく徒に日数を送っていた、というのは陰徳太平記に記載があるらしい。

 

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