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古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

高野山50 伊勢桑名城主本多忠勝墓所

2014年06月30日 | 高野山

 蜻蛉切と赤備で象徴される本多忠勝、関ヶ原の戦いでは家康先発隊として病に倒れた井伊直政に代わって臨時に参戦したため500程度の軍勢であった。本多家の本体は徳川秀忠の軍勢に配属されていた。前回紹介した本多正信の子・政重は前田家家老として徳川将軍家の目付役として活躍したが、なんと言っても忘れてはならないのは本多忠勝である。とにかく徳川四天王のひとりとしてその武勇を全国に轟かせ、織田信長や豊臣秀吉も一目置いた武将であることは良く知られているが、忠勝の子・本多忠政は池田家の後を継いで、天下の名城・姫路城主となっているのである。

  本多氏の出自は、藤原氏北家・兼通流の二条家綱まで遡り、豊後国の本多郷を領した事から本多氏と称したことによる。古くから松平氏に仕えた三河国の譜代の家系で、三河三奉行の一人本多重次(作左家)、徳川家康の参謀となった本多正信(三弥家)、徳川四天王の本多忠勝(平八郎家)のほかにも彦八郎家、彦次郎家、弥八郎家がありいずれも譜代大名であるが、宗家については忠勝の家系とも正信の家系とも言われている。正信の家系では次男の政重が前田家の宿老となるなど徐々に徳川家より重用されたが、忠勝系(徳川四天王の一人である本多忠勝の家系)は本多一門の中で忠勝が最も家康から厚遇され、特に忠勝の子や孫は家康血縁者との婚姻があった。忠勝が勲功を得たのは関ヶ原の戦いで、忠勝に伊勢国桑名藩10万石があたえられ初代桑名藩主になっている。また、上総国大多喜藩5万石も与えらて初代藩主になり、忠勝の次男・忠朝が継いだ。それぞれの家系は幕末まで存続したが、宗家・村上藩主・本多忠孝は幼少で急死したため改易のところ、なんとか家名再興が許されたというのが屈指の譜代名門の行末であった。本多忠勝の晩年は、本多正純などの若く文治に優れた吏僚派が家康・秀忠の側近となり、武功派は幕府の中枢から遠ざけられ不遇であった。

 本多忠勝は徳川四天王として顕彰されているが、生涯において参加した合戦五十七回でかすり傷一つ負わなかったという。軽装を好み、重武装な井伊直政とは対照的である。それを象徴するのが蜻蛉切と赤備である。1572年武田信玄の軍勢が遠江に進入した際、これを偵察にでかけた徳川家康が見破られて迫撃され、一言坂で追いつかれたとき、忠勝は殿軍を勤めて難を救った。徳川勢の本陣の退路を遮断しようとした武田軍の動きにすばやく対応した忠勝は、黒糸の鎧に鹿角を打った兜をつけ、蜻蛉切と呼ばれる大槍を手に、見方と敵軍の間に馬をすすめ、民家を焼いた煙幕を利用し自軍の退却を待って悠然と引き上げたという。武田の近習・小杉右近助はその仔細を観察し、家康の家臣にするにはもったいない男であると賞賛したという。また、忠勝の働きは豊臣秀吉からも認められ、小牧の役後に家康と秀吉の和平が整い、家康と秀吉の妹・旭姫の婚姻の結納を持参した忠勝に対して秀吉からほめられ、小田原攻めの帰路、源義経の忠臣・佐藤忠信の冑を授けられてその武功を称賛されている。

徳川秀忠正室・於江与の方                     池田光政1609-1682
  ┗┳千姫1597-1666(天樹院):豊臣秀頼室、のちに本多忠刻室      ━━┓┣綱政  
  ┃本多忠高?-1549                        ┣勝姫
  ┃ ┣本多忠勝1548-1610(本多宗家初代)              ┃1618-1678 
  ┃ ┃   ┣小松姫1573-1620(母:乙女 真田信之室)       ┃
  ┃上村氏義娘┣もり姫(奥平家昌室)                ┣幸千代
  ┃     ┣本多忠政1575-1631(母:阿知和右衛門娘 姫路城主)   ┃ 
  ┃     ┗本多忠朝┣本多忠刻1596-1626(室は徳川秀忠娘・千姫)┛  
  ┃     1582-1615  ┣本多政朝1599-1638(室は本多忠朝娘)
  ┃     ┣本多政勝┣本多忠義1602-1676(室は森忠政娘)┗政長1633-1679(宗家5代) 
  ┃     ┗千代  ┣国姫               ┗忠国1666-1704(養子)
  ┃          ┣亀姫                ┣忠孝1698-1709
  ┃         松平信康娘・熊姫            池田綱政娘
  ┣徳川家光1604-1651三代将軍 福・春日局に養育 幼名:竹千代 
  ┣徳川忠長1606-1634                         
    ┣徳川和子1607-1678(東福門院):後水尾天皇中宮           
  ┣珠姫    1599-1622(天徳院) :前田利常室             
  ┣勝姫  1601-1672(天崇院) :松平忠直室             
    ┗初姫  1602-1632(興安院) :京極忠高室                         
側室・お静(浄光院)
 ┗保科正之1611-1673(会津松平藩主)    
      ┃┃┣幸松                      
    ┃┃菊姫 
    ┃┣媛姫(米沢藩主・上杉綱勝室)
    ┃┣正経1647-1681(2代会津藩主)
    ┃お万
     ┣摩須姫(加賀藩主・前田綱紀室)
  おしほ 

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高野山49 伊勢亀山石川家墓所 

2014年06月29日 | 高野山

 亀山石川家は家康の筆頭家老から秀吉側に翻った石川数正の家。石川数正は秀吉に信濃松本を与えられた。数正の叔父の家成が石川家の祖となり、子の康通は大垣で5万石を領するまでになる。次ぎの石川憲之がこの伊勢亀山に一旦入るが、山城淀、備中松山を経て総慶の時にまた伊勢亀山に戻ってくる。石川忠総の二男、総長は兄の憲之が伊勢亀山に入ったときに伊勢神戸を分け与えられ、下館藩の石川家に繋がる。石川数正は酒井忠次と共に徳川家康に仕えていたが、小牧・長久手の戦いの後に徳川家を出奔して豊臣秀吉側に寝返った。徳川家康が駿河国の大名・今川義元の人質になっていた頃から仕えていた石川数正が何故寝返ったのか。色々な説があるが、ほんとうのところはわからない。織田信長が死去し、秀吉が台頭してきた頃、数正は家康の命令で秀吉との和睦交渉を担当していたのであるが、逆に秀吉に調略されたのである。この石川数正が信州松本藩の初代とも言われているが、祖は数正の叔父の家成だという。

1533 石川数正誕生 : 石川家の祖は八幡太郎義家1039-1106の子-六郎義時?-1125の子-義基?-1180

1560 桶狭間の戦い

1562 清州同盟

1563 三河一向一揆 浄土宗に改宗

1570 姉川の戦い

1572 三方ヶ原の戦い

1575 長篠の戦

1579 岡崎城主・信康切腹 岡崎城代となる

   徳川の柱 西:石川数正  東:酒井忠次

1584 織田信雄と豊臣秀吉対立 → 家康(1万軍-小牧山城)と秀吉(10万軍-犬山城)対立

   長久手の戦い(秀吉別動隊 VS 家康奇襲隊)では家康圧勝

   小牧山城の留守居は酒井(出撃提案)と石川(出撃反対)

   織田信雄が秀吉と単独講和 → 戦は無益 

   小牧長久手の戦い 和睦提言:交渉人 結城秀康人質

1585 秀吉+根来衆+長曾我部+佐々成正 侵攻 → 家康孤立   

   岡崎城代・石川数正は天守前の馬出改造を実施

   秀吉は関白に任官 → 家康に人質求める 

   多くの家臣が交戦求めるなか、石川数正は和議主張 → 数正孤立

   秀吉は真田昌幸に家康成敗を指示   

   数正は秀吉側に出奔@1585-11-13 和議継続のためか?

   織田信雄1558-1630の徳川宛書状@1585-10-14(家康が数正を秀吉の元に参上させることはめでたい)

   天正大地震@1585-11-29 → 和睦がすすむ

1586 秀吉の妹・朝日姫が家康の正室になる 実母人質 

   家康は秀吉に臣従

1590 松本城築城8万石:5層6階 姫路城レベル

   秀吉の小田原攻め

1593 死去@朝鮮出兵出陣の最中 長野松本市・兎川寺に供養塔

 

  

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なみさん

2014年06月28日 | 秋葉七海 朝花じゅり Alice 亜未

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なみさん

2014年06月28日 | 秋葉七海 朝花じゅり Alice 亜未

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中島遙さん

2014年06月28日 | 中条友莉 中島遙 永井愛里 なすたろう

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Maika

2014年06月28日 | 美浜紗来 Maika 三咲 美南海 峰のりえ 未留紀

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Maika

2014年06月28日 | 美浜紗来 Maika 三咲 美南海 峰のりえ 未留紀

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芹沢蓮さん

2014年06月28日 | 芹沢蓮 芹沢恋夢 鈴果 優まお せら

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芹沢蓮さん

2014年06月28日 | 芹沢蓮 芹沢恋夢 鈴果 優まお せら

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芹沢蓮さん

2014年06月28日 | 芹沢蓮 芹沢恋夢 鈴果 優まお せら

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高野山48 長州毛利家墓所

2014年06月28日 | 高野山

 高野山にはここ長州毛利家墓所のほかに山口毛利家墓所がある。いずれも鎌倉幕府の名臣大江広元の四男・大江季光を祖とするので、大江嫡流ではない。毛利というのは、季光が父・広元から受け継いだ所領の相模国愛甲郡毛利庄を本貫とする。従って中世を通して「毛利」は「もり」と呼ばれていたが、いつのまにか「もうり」となった。ところで、もともと西日本を統治していた毛利家は関が原の戦いで破れて長門と周防の2国に減封された。この周防が山口毛利家であり、長門がここ長州毛利家なのである。

 毛利輝元・長州藩初代藩主の祖父・毛利元就は安芸の国人に過ぎなかった毛利氏をわずかに一代で大大名とした人物である。輝元は父を早くに失い、当初は元就が、後には二人の叔父である吉川元春、小早川隆景が輝元を補佐した。信長の時代には、輝元は石山本願寺と同盟を結び、配下の村上水軍を使って石山に兵糧を運び、本願寺側の唯一の欠点である補給問題を 毛利がカバーすることで 信長を苦しめたのである。信長が本能寺で急死すると備中高松城で対峙していた羽柴秀吉を攻撃せず中立を守ることで毛利の大領土を守った。広島の土地に巨城と城下町を築いたのも輝元である。秀吉は天下をとった後五大老に輝元を加え、毛利の知将である毛利隆景を入閣させている。ところが知将・隆景を失い、秀吉がなくなると輝元の武将としての迷彩は欠いていくのである。そして毛利輝元は、石田三成の意を受けた安国寺恵慧の説得に乗って関ヶ原の戦いの西軍総大将に祭り上げられてしまった。結局関ヶ原の戦いは吉川元春の子である広家が小早川秀秋を裏切らせたために東軍の勝利で終わった。しかし輝元は秀頼という切り札をもって大阪城という難攻不落の要塞にいたのであるが、毛利の本領は安堵する、という家康の誘いに乗って大阪城をでていってしまった。これにより家康は毛利家を完全に取り潰そうとしたが、吉川広家の嘆願により毛利家は大名としてかろうじて生き残ることができたのである。二百数十年を経た長州から吉田松陰、久坂玄随、高杉周作で代表される幕末の志士を輩出し、ついには倒幕を果たすこととなる。これらの原動力になったのは関が原の戦いでの苦渋に違いない。 

  乃美大方殿-1601        高橋興光┓
    ┣               高橋久光娘
  毛利弘元1466-1506(安芸吉田郡山城主) ┣幸松丸1515-1523   
      ┣毛利興元1492-1516(大内興元傘下)   
      ┣毛利元就1497-1571  ⇔ 武田元繁
      ┣女  ┣毛利隆元1523-1563
  福原広俊娘┃  ┃      ┣輝元1553-1625      
        ┃  ┃大内義興┏尾崎局(養女)1527-1572      
        ┃  ┃  ┗大内義隆1507-1551 ⇔ 陶隆房(晴賢) ⇔ 相良武任     
        ┃  ┃     ┣-     (義隆討つが厳島の戦で元就来島水軍に敗れる)
        ┃  ┃   万里小路秀房娘貞子      
        ┃  ┣長女(高橋氏の養女)      
        ┃  ┣五龍局(宍戸隆家室)-1574      
        ┃  ┣吉川元春1530-1586      
吉川経基    ┃  ┃  ┣吉川元長1548-1587    
 ┃(藤原南家)┃  ┃  ┣毛利元氏1556-1631    
 ┣吉川国経  ┃  ┃  ┣吉川広家1561-1625     
 ┃┣元経1459-1522┃新庄局(熊谷信直娘)-1606       
 ┃┣経長     ┣小早川隆景1533-1597    
 ┃┗妙玖 1499-1546  ┣小早川秀包1567-1601     
 ┃           ┣小早川秀秋1582-1602   
 ┗長女        ┏正平娘     ┣羽柴秀行     
   ┃        ┗繁平1542-1574 毛利輝元養女
   ┣政久1488-1518 
   ┃ ┗晴久1514-1561(1540年毛利征伐で敗走)    
   ┣国久 ┣義久1540-1610     
   ┃ ┗娘    
   ┣塩治興久     
 ┏尼子経久1458-1541(宇多源氏)        
尼子清定-1478(出雲守護代)

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高野山47 安芸浅野家墓所

2014年06月27日 | 高野山

 黒田官兵衛は、いよいよ本能寺の変になります。ネタはたっぷりあるのですが、頭の中で整理ということで、久々の高野山ネタを。浅野氏といえば秀吉五奉行・浅野長政が知られる。この長政は高台院、つまり秀吉の正妻・ねねとは兄妹である。父は長勝、浅野宗家・広島藩主で安芸藩主とも言われている。もともと中国地方は毛利家が治めていたが、関が原の戦いで総大将として参戦し、大敗した毛利輝元は周防、長州の2国に減封されて、安芸・備後の2国は福島正則が入封したのである。しかし福島正則は大阪夏の陣がおわった1619年に広島城を無断で改修したことで武家諸法度違反の罪で大幅に減封の上、信濃川中島」藩に転封となった。これに代わって紀州藩より豊臣政権下で五奉行の浅野長政の次男・浅野長晟が入封することとなった。長晟は福島氏政策を踏襲する一方、土豪に対しては厳しく臨み、統治の近代化を目指したという。長晟の次男・光晟は第2代藩主となって街道整備に尽力するなどして松平姓を名乗ることを許されている。光晟の長男・綱晟は第3代藩主となり、正室、継室にいずれも左大臣・九条道房の娘を迎えた。道房の母は豊臣秀勝の娘・豊臣完子であり、浅野宗家は豊臣氏の血を女系で受け継ぐ事になるのである。綱晟の長男・綱長が第4代藩主の時代1701年に分家の赤穂藩主・浅野長矩が刃傷事件を起こす。この時、宗家への連座を避けるべく色々と働いたが、この頃から財政は悪化に転じたために藩制改革に取り組んだが失敗している。

土田弥平次  
 ┣  
生駒吉乃1528-1566
  ┣1織田信忠1557-1582(岐阜城主)二条御所(本能寺の近く)で討死
 ┃ ┣秀信1580-1605(三法師)本能寺の変時に清洲城へ非難 
 ┃ ┣秀則1581-1625(秀信と共に関ヶ原合戦で西軍)
 ┃┏森可成(祖は河内源氏・源義家)娘(徳寿院)
 ┃┣森可隆1552-1570
 ┃┣森長可1558-1584小牧・長久手の戦で討死
 ┃┃  ┣-   督姫1565-1615(家康次女)
 ┃┃┏━娘   ┣池田忠雄1602-1632(鳥取藩祖)
 ┃┃┃    ┃┣池田光仲1630-1693(初代鳥取藩主)
 ┃┃┃    ┃三保姫┣池田綱清1648-1711(2代)
 ┃┃┃    ┃茶々姫(徳川頼宣娘)┃┣池田吉泰1687-1739(3代)
 ┃┃┃    ┃        式姫┃┃  ┣池田宗泰1717-1747(4代)
 ┃┃┃    ┃      菊子(側室)敬姫 中村氏┣池田重寛1746-1783(5代)
 ┃┃┃    ┃        (徳川綱紀娘)  久姫  ┃ ┣池田治道1768-1798(6代)
 ┃┃┃    ┃             (徳川宗直娘) 律姫┃ ┃┣池田斉邦
 ┃┃┃    ┃                  上氏(側室)┃於三保
 ┃┃┃    ┃                    生姫(伊達重村娘)
 ┃┃┃    ┃    松平広忠1526-1549
 ┃┃┃    ┃     ┣徳川家康1543-1616
 ┃┃┃    ┃    於大の方1528-1602(水野忠政娘)                
 ┃┃┃    ┃     ┗松平康元 黒田長政娘(正室)
 ┃┃┃    ┃         ┗娘 ┣-
 ┃┃┃    ┣池田忠継1599-1615 ┗榊原忠次1605-1665(姫路藩主)
 ┃┃┃    ┣池田輝澄1604-1662   ┗榊原政房1641-1667(姫路藩2代) 母は寺沢広高娘
 ┃┃┣━池田輝政1565-1613(姫路城主)   ┣榊原政倫1665-1683(姫路藩3代)
 ┃┃┃    ┣池田利隆1584-1616  ┏富幾 ┣榊原政邦1675-1726
 ┃┃┃中川清秀娘・糸姫┣池田光政1609-1682 鍋島娘┗榊原政祐1705-1732(養子)
 ┃┃┃        ┃┣池田政言1645-1700    ┗榊原政岑1713-1743(養子)   
 ┃┃┃        ┃┣池田綱政1638-1714(岡山藩主 後楽園を造営)   
 ┃┃┃        ┃┃┣池田吉政1678-1695    
 ┃┃┃        ┃┃千子(丹羽光重娘)    
 ┃┃┃        ┃┣奈阿姫   
 ┃┃┃        ┃勝姫(本多忠刻娘)   
 ┃┃┃   柳原康政 ┣池田恒元1611-1671   
 ┃┃┃      ┣鶴姫(徳川秀忠養女)
 ┃┃┃      ┗大須賀忠政1581-1607
 ┃┃┃         ┣榊原忠次1605-1665(姫路藩主)
 ┃┃┃       松平康元娘 
 ┃┃┣━池田長吉1570-1614
 ┃┃┃  ┣池田長幸1587-1632(備中松山初代城主)
 ┃┃┃ 伊木忠次娘  ┣長常,長信
 ┃┃┃      松子,宮子(森忠政娘)
 ┃┃┣━池田元助1559
 ┃┃┃ 片桐半右衛門娘
 ┃┃┃  ┣-
 ┃┃┣━池田長政1575-1607(母:荒尾善次娘 犬山城にて生)
 ┃┃┃  ┣池田長明1606-1678(伊賀守)
 ┃┃┃加藤嘉明娘┣長重 
 ┃┃┃     ┣長久1645-1697
 ┃┃┃     妾 ┣長喬1676-1723
 ┃┃┃      香昌院 ┣長處1696-1754
 ┃┃┃         峯松院 ┣長仍1725-1796
 ┃┃┃             妾 ┗長玄1741-1814
 ┃┃┃                 ┗-
 ┃┃┃
 ┃┃┣━━若御前   菊亭晴季(越後流罪)1539-1617娘
 ┃┃┃日秀┣-      ┣
 ┃┃┃ ┣豊臣秀次1568-1595(高野山で切腹)
 ┃┃┃ ┣豊臣秀勝1569-1592小吉(妻は淀の妹お江与 朝鮮で病死)
 ┃┃┃ ┃┣完子1592-1658
 ┃┃┃ ┃┃┣二条康道1607-1666摂政左大臣
 ┃┃┃ ┃┃┣九条道房1609-1647摂政左大臣
 ┃┃┃ ┃┃┃┣愛姫(浅野綱晟室)
 ┃┃┃ ┃┃┃┗八代姫(浅野綱晟継室)
 ┃┃┃ ┃┃九条幸家1586-1665関白左大臣
 ┃┃┃ ┃お江与1573-1626
 ┃┃┃ ┣豊臣秀保1579-1595
 ┃┃┃三好吉房1522-1600
 ┃┃池田恒興1536-1584(信長の乳兄弟)清洲会議の宿老 小牧・長久手の戦で討死
 ┃┃                    ↑
 ┃┣森蘭丸1565-1582(長利)本能寺の変で討死 【小牧長久手戦】
 ┃┗森忠政1570-1634
 ┗━━━━━━┓              ↓
        ┣2織田信雄1558-1630(本能寺の変時に伊勢に撤退 宇陀松山藩初代)
        ┃ ┃┣高長1590-1674(宇陀松山藩2代藩主)   
        ┃ ┃┃ ┣長頼1620-1689(宇陀松山藩3代藩主)  
        ┃ ┃┃富田氏      ┣信武1655-1694(宇陀松山藩3代藩主)
        ┃ ┃久保三右衛門娘  津川氏   
        ┃ ┣秀雄1583-1610(亀山城主 関ヶ原合戦で西軍)   
 ┏織田信広-1574┃北畠具教娘(千代御前) 
織田信秀    ┣徳姫(見星院)1559-1636 
   1510-1551 ┃  ┣登久姫                 毛利輝元娘
        ┃  ┃  ┣熊姫┏━━5勝長-1582岩村城主 二条御所で討死┣-  
       ┃  ┃徳川信康┃┏━4羽柴秀勝1568-1586(母不祥)丹波亀山城で病死 
       ┃  ┃    ┃┃┏3信孝1558-1583(母坂氏)伊勢神戸氏継ぐ 四国征伐
      ┗織田信長 1534-1582

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黒田官兵衛40 下克上の連鎖は宇喜多直家に始まる

2014年06月26日 | 戦国時代

 謀略家で知られる宇喜多直家であるが、その腕前はというとこの新聞記事に代表される。そして毛利家との結びつきによって備前での地位を固めた。ところが織田信長が毛利と敵対すると、すぐに中立の立場をとり、両方を牽制しながら結局は織田側に寝返ったが、すべては宇喜多家存続を守るための戦略である。先に次男・秀家を紹介したが、死後も秀吉に取り上げられて5大老にまで上り詰めたことを考えると直家の手腕に驚く限りである。

 岡山城、それは南北朝時代(1346年 ~1369年)に、名和氏の一族上神高直が石山台に城を築いたのが最初と「備前軍記」に書かれ、その後戦国時代まで城主は明らかではない。戦国時代(1521-1528)には、金光氏支配し、1570年宇喜多直家が金光宗高に代わってこの地を支配した。宇喜多直家は備前守護代・浦上氏の一族浦上宗景の被官であったが、備前西部を中心に勢力を急速に伸張し、1573年居城である亀山城(沼城)から石山城に入城し、城の改築と城下町の形成を行った。この頃の石山城(岡山城)には、北方の山裾にあった西国街道が、城下に導かれ、備前福岡、西大寺などから商人を呼び寄せ、流通主導による経済振興政策がとられた。信長が安土城を築城する3年前のことである。天正3年(1575年)には、浦上宗景の兄・政宗の孫をおしたてて宗景を播磨へ放逐し、事実上の下克上を行いやがて備前、美作、さらに播磨、備中の一部を支配下に置いた。この下克上の連鎖は宇喜多直家が1559年に舅の中山信正と島村観阿弥を謀殺したことに始まる。この二人は浦上宗景の重臣であったが、直家は酒に酔った信正を殺した上、援護に駆けつけた観阿弥も討ち取った。そして隣国備中で勢力を伸ばしていた三村家親も謀殺、その子元親をも1567年に破った。この時点では直家はまだ浦上宗景の家臣であったが、1569年に宗景に対して反旗を翻した。こうして備前・備中を支配すると美作まで勢力を伸ばすために城を岡山に移し、毛利輝元と同盟を結んでいる。これにより毛利輝元の助けを借りて三村元親を討ち、主君の浦上宗景をも打倒した。つまり下克上の裏側には主君と対立する立場の相手と同盟を結んで見方につけるというような戦略眼があるのである。

宇喜多興家-1536浦上氏家臣
 ┃中山信正1510-1559浦上氏家臣
 ┃ ┗娘
 
┃  ┣-
 
┗宇喜多直家1529-1582
  
┣三浦桃寿丸?-1584
  ┣容光院?-1591
  ┃ ┣
  ┃ 吉川広家1561-1625
  ┃吉川元春┛
  ┣宇喜多秀家1572-1655(八丈島に配流)
  ┃ ┣秀高1598-1641
  ┃ ┣秀継高1599-1657
  ┃ ┣娘
  ┃ ┃┣邦尚親王1615-1654
  ┃ ┃伏見宮貞清親王1596-1664(伏見宮10代当主)
   ┃豪姫1574-1634(前田利家の4女) 
   ┣忠家1533-1609
   ┣春家?
  円融院1549-?(三浦氏) 

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芹沢蓮さん

2014年06月26日 | 芹沢蓮 芹沢恋夢 鈴果 優まお せら

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